ヤンキーになりたかった

食う寝る遊ぶエビデイ

noteを始めて

noteを始めて半月ほどが経過した。

1,200文字程度の、原稿用紙4枚程度のエッセイなど、2時間もあれば書けるだろうとか思っていたが、その実けっこう苦戦していて、早々に更新分の「貯金」もできようかと思っていたが、残念ながらそれはしばらく叶いそうにない。

 

どうしてnoteなのか。

知り合いもそれなりにnoteをやっていて、やってみたかった、というのは一つある。

そして上記のライフハック的なものを――文章のタイプからしても、私自身の生活の知恵の貧しさからしても――提供できない気がしていた。

だから、エッセイ。

元々、最近読むようになってきたから書きたかったこともあるが、まあ結句そんな理由だった。

 

使ってみると、たしかに利用者の多いサービスだけあって、使いやすい。

あまり難しいことを考えずに文章を書けば良い。

また、様々な形式の投稿もできるので、エッセイ漫画を載せたり、喋ったのを載せたりもしやすそうだ。

ただ、簡単であることはある種トレードオフな面もあって、たとえば「はてな」みたいにHTML編集はできなかったはずだ。

だから、テーブル表記とか、ルビとかの表現は行えないことになる。

太字にするのはなんだか気がひけるけれど、圏点は振りたい――そんな要求には、残念ながら答えられないだろう。

まあ、そもそも横書きなんだから、素直に太字とか下線にしろ、という話だけれど。

 

100万人に向けて文章を書きたいわけではない。

しかし、読まれないのは、書いていてつらい。

だから、「ある程度」読んだもらいたい。

この曖昧な「ある程度」を掲げるあたりが、小賢しいと言えば小賢しいのかもしれない。

だったらばもっと具体的に思い描け、戦略を立てろ――そんなことを言われそうな気もしてしまう。

 

ネット上でよく読まれるようにするための方法の一つに、更新頻度を上げるというものがある。

できるだけ毎日更新すること。

専業でないからそれはしたくないけれど、よく言われることではある。

 

現在、noteで記事は4本投稿している。

 

 

それぞれ投稿日時は、

・ペーズリー(2019/10/1)

・経費精算とは友だちになれない(2019/10/5)

ノーベル文学賞発表の日に考えたこと(2019/10/14)

・新しい恋を始めました(2019/10/19)

おおよそ3週間で4記事のペースだ。

 

このくらいのペースで、あるいは2週間で3記事くらいのペースでやっていきたい。

3記事/2週間だと、6週間では9記事。12週間で18記事。

4記事/3週間の場合は、6週間で8記事。12週間で16記事。

1ヶ月が4週だとしたら――7×4 = 28なのだからこの計算は誤差を含みまくるが――四半期で2記事ほどの差が生まれることになるが、まあ、このくらいでやっていきたい。

これぐらいが、定期的に記事が供給され、そして無理なく書けるペースだからだ。

 

本来は、もっと閲覧数を増やすには――とか色々考えたほうがいいことはあるのだが、まあ、まずは書かないと、と思っている。

ここで、閲覧数を! と早々に考えられる人が結局はビジネスに向いているんだろうとは思うけれど、もう向いていないことについては諦めてしまった。

数年もう働いているが、マジで向いていないと思う。ビジネス。まあ、それは今はいい。主眼じゃない。

 

問題は、締切を設定することとその管理だ。

つまりTODO管理。

いつが締め切りで、それが守られたか、守られなかったか。

仮に守られなかったとして、その後のスケジュールはどうするのか。

そういったことを、管理しないといけない。

そして、手帳なんか用意したところでどうせ読まないので、スマートフォンに通知が来るようにしてあげる必要がある。

つまり、Tech的に何らかそれを行う必要がある。

 

いくつかアプリケーションを試したが、Google TODOは扱いきれそうになくて、Google Calendarはあまり使ったことがないし――でどうにも難しい。ちなみに、早々に固まった。

どうだろう。そもそも、曜日を決めてしまって14日ごとの繰り返し予定とすればいいんだろうか。その予定を3つ作って。それをCalendarアプリに入れて……。

しかし、締め切りを過ぎたらどうするんだろう?

まあ、通知はできるとして……。

などと、様々考えるが、なかなか良いアイデアが生まれない。

 

そんなこんなで試行錯誤している。

 

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意味もなく画像を貼って、終わる。

 

ノーベル文学賞予想を外して

先日、私はノーベル文学賞の受賞者を予想した。

べつに金銭を賭けていたわけではない。

ただ戯れに、予想をしてみただけだ。

 

タイトルの通り、私はこの予想を外した。

2018年度受賞者のオルガ・トカルチュクは名前を出していなかった。

2019年度ペーター・ハントケはリストアップしながら、最後の「予想」に含めなかった。

◎ マリーズ・コンデ

◎ グギ・ワ・ジオンゴ

◯ 残雪

▲ アドニス

△ 多和田葉子

 

今回の記事は反省会だ。

要は、言い訳をつらつらと書いていきたい。

 

■予想を振り返ってみて

グギ・ワ・ジオンゴを予想に含めたことを、今とて「悪手」だとは思っていない。

自分としては、ポーランドオーストリアから選出されるつまり、2人ともヨーロッパ圏から選出されることは予想外であったからだ。オルソン委員長の「調和」という言葉が、地域にも適用されると思ったが、そうではなかったみたいだ。

ヨーロッパ以外の地域から選ばれるならばアフリカかアジアだと思っており、「対抗馬」にも中国の残雪を挙げていた。

「本命」でなく「対抗馬」であったのは、記事中でも言及したように、前回のアジア圏からの受賞者が中国の莫言であったことからだ*1

この点からアフリカの作家を「本命」に含むのは、「妥当」であったと思う。

 

まあ、この予想は外れたわけだが。 

 

そして、マリーズ・コンデ。

私が彼女を挙げたのは、まあヨーロッパから1人は選ぶんだろう、と思ったからだった。

しかし、この予想は外れた。

 

検討の過程が、ややジオンゴありきになり、少し強引になった形は否めない。

地域性などと嘯いたくせに、彼女のカリブ地域のルーツにより目を向けてしまった。

そのため彼女を、フランス語圏の作家としてのみ考えてしまった。彼女の「渡り」性や、アフリカでの生活を、半ば「切り捨て」て予想してしまった。

彼女も「本命」のレベルで挙げたこと自体を「誤り」としたいのではないが、あまり良い思考過程ではなかったと思う。

結論ありきの思考は、過程が歪になる。つと反省したい。

 

■ペーター・ハントケを外した理由

私は、予想記事の中で、オーストリアの作家ペーター・ハントケにも言及している。

ペーター・ハントケは、戦後ドイツ語文学の寵児とも言われた売れっ子である。

また、デビュー当時のマッシュルームカットから、ポップスターとも形容された。

彼の特徴は、小説、戯曲、放送劇など多彩な活動にある。村上春樹が受賞し、ノーベル文学賞候補と取り沙汰されるようになったカフカ賞も2009年に受賞している。

しかし実際には、最後のリストからは外してしまった。

これはこの記事の冒頭でも触れたとおりだ。

では、どうしてそんなことになったのか。

 

ヨーロッパ圏から1人受賞者が出るだろうと予想していた。

しかし、どこか天の邪鬼な心性が予想の段階で発揮され、あえてそれ以外の地域から主に選出したくなったのだ。

だからハントケは外れた。

そして、なんか「大穴」っぽいし! という短絡的な理由で、多和田葉子が入った。

まあ、日本人向けに書く予想記事だし、という打算もあった。

 

彼は、私の天の邪鬼と、この記事が書かれる言語そのものの犠牲となったのだ。

 

まあ、こんな記事中で扱いが良くなかったからとして、彼のキャリアからしてみて、そんなものは大した犠牲ではないし、何も痛くもないだろうけれど。そして、痛いものであれ、とも思わない。

 

■オルガ・トカルチュクの名を挙げなかった理由

今回のブックメーカーのオッズでは、女性作家が上位に来る傾向があった。

 

イギリスのブックメーカー「Nicer odds」では、1位にカナダの詩人アン・カーソン、2位にフランスの小説家マリーズ・コンデ、3位にポーランドのオルガ・トカルチュク、4位に中国の残雪があがっていたという*2

私はこのうち、2位と4位をリストアップしたこととなる。

 

1位のアン・カーソンを外した理由は明確で、北米大陸の作家だからだ。

2013年のアリス・マンロー、2016年のボブ・ディランが受賞者にいること、2017年のカズオ・イシグロがイギリスの作家であり、英語圏からの受賞者が続いていることから、2018, 2019年の、北米大陸からの受賞はないだろう、と踏んでいたのだ。

問題は、オルガ・トカルチュクをなぜ除外したのかだ。

 

まず、私は彼女をハンガリーの作家だと誤って記憶していた。

さらにハンガリーの位置を東欧だと誤解していた。

ハンガリーは言うまでもなく中欧の国である。北はスロバキア、東はウクライナルーマニア、南はセルビア、南西はクロアチア、西はオーストリアスロベニアと接し、囲まれている内陸国だ。

国旗のイメージから、なんとなく東欧だと思っていた。挙げ句、その国旗すら記憶違いしていた。

まあ、赤と白と緑という色はあっていた。私のイメージはこの色に由来したわけだが、これもまた短絡的な思考だし、どこから来たイメージなのか判然としない。なんならイタリアだって同じような色で構成されている。

 

東欧からの受賞者は、ハンガリー国籍の、2015年のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチがいる。

このため、このスパンで東欧からの受賞者はなく、出るとすればフランス、ドイツ以外の西中欧あるいは南欧であろうと思い、オルガ・トカルチュクを除外したのだ。

 

この勘違いがなければ、私はオルガ・トカルチュクのみをヨーロッパの作家ではリストアップし、「本命」に含めていたことだろう。

あるいは、「大穴」狙いで含めた多和田葉子を外し、そこに保険としてペーター・ハントケを含めたかもしれない。

ただ、今となっては、考えても詮無いことだ。

 

以上が、今回の予想の反省及び言い訳である。

 

それにしても、受賞者の予想なんて、本当にろくでもない遊びだな、と思う。

受賞自体が作品の価値を上げるわけでも、損なうわけでもないのに。

 

 

*1:だから、その次点に、シリアのアドニスを挙げている。「大穴」として多和田葉子を含めたのは、日本人が日本人向けに書いた記事なので含めたというところが大きい。ナショナリズムと言われればそこまでだ。

*2:https://japanese.joins.com/JArticle/258375?sectcode=A00&servcode=A00

ノーベル文学賞を予想する2019

今年もこの季節がやってきた。

ノーベル賞に日本がソワソワする季節が。

 

日本人はノーベル賞が好きだ。

戦後間もない頃に湯川秀樹が受賞した時の興奮を忘れられないのかもしれない。

また、日本の科学力は世界一ィィィ!!!!! ではないが、「強かった」日本経済の原動力としての「日本の科学力」の素晴らしさを再確認できる、というナショナリズム的な欲望があるのかもしれない。

 

ただ、ノーベル賞は好きだけれど、科学分野になると、少々騒ぎにくい。

何らかの成果を発表してから受賞までに間が空くため、最先端の科学技術というのではないが、それでも専門性が高いことには変わりがない。

たとえば田中耕一は2002年にノーベル化学賞を受賞したが、その理由となった「ソフトレーザー脱離イオン化法」は、1985年に特許申請されたものだった。

また、2008年に同じく化学賞を受賞した下村脩は、オワンクラゲ緑色蛍光タンパク質GFP)の発見と開発を受賞理由とされたが、この発見は1960年代になされたものだった。

下村が発見したGFPは、今日の医学生物学の重要な研究ツールとなっており、その点でスリリングな発見なのだが、「テレビ的」には、ちょっと盛り上がりにくい=盛り上げにくい。クラゲを見て騒ぐくらいしかできない。

 

この点、文学賞は分かりやすい。

それに、その他の賞に比べて、候補者*1の名が世間に知られている。

村上春樹を知っている人は何千万人といるだろうが、受賞以前に梶田隆章を知っていた人はそれほどはいるまい。

だからノーベル文学賞は騒がれるのだ。

今年、村上春樹の受賞はあるのか!? 大変キャッチーだ。

だから、このブログでもやる。

今年、村上春樹の受賞はあるのか!?

 

 ◯

 

まず、ノーベル文学賞を取り巻く環境として、最近の受賞者を眺めてみよう。


スウェーデン・アカデミーはスキャンダルを受け、2018年は受賞者の発表を行わず、2019年に、2018年、2019年の受賞者を発表するとした。 

ノーベル文学賞の受賞者は例年1人*2であり、今年は計2名の受賞者が発表されると考えられる。

 

文学賞の受賞者には、地域のバランスを考慮する傾向がある*3

たとえば「アジア人」という括りで見れば、1994年に大江健三郎(日本)が受賞して以来、

高行健(2000年、フランス(中国語で創作。また1990年に亡命し、1998年にフランス国籍取得))

オルハン・パムク(2006年、トルコ*4

莫言(2012年、中国)

と、おおよそ6年周期で「お鉢が回って」きていることが分かる。

それを踏まえれば、今回はアジア人作家が受賞する可能性は高いのではないか、と考えられる。

 

他の地域にも目を向けてみよう。

たとえばアフリカ地域からの受賞者は、2007年のドリス・レッシングまで遡る。彼女はジンバブエで育ったが、1949年に息子と共に渡英し、以降は英国で創作活動をしていた。

国籍で言えば、2003年のJ・M・クッツェー南アフリカ共和国)まで遡る。

また、人種という面では、アフリカの黒人作家の受賞は1986年のウォーレ・ショインカ(ナイジェリア)まで遡る*5

なおアフリカからの受賞者は、1988年のナギーブ・マフフーズ(エジプト)以外は、みな英語での創作をしており、言語の多様性という面では、アフリカ民族言語を用いた文学の受賞が待たれる。

 

アラビア語圏やイスラム圏からの受賞者も、上記のナギーブ・マフフーズや、ウォーレ・ショインカ*6などに限られる。

アジアという観点からは、「中東」という地域も無視できない。

また、ラテンアメリカ文学からの受賞者となれば、2010年のマリオ・バルガス=リョサ(ペルー)以来となるが、その前が1990年のオクタビオ・パス(メキシコ)、その更に前が1982年のガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)と遡る。

マルケス以前の、日本でもラテンアメリカブームの起こった頃は10年に一度のペースだが、そこから踏まえると、やや「時期尚早」感が拭えない。

 

北米大陸は、2013年のアリス・マンロー(カナダ)、2016年のボブ・ディランアメリカ)と続いているため、今回は考えにくい。また2017年のカズオ・イシグロ(イギリス)の受賞を踏まえると、こう連続で英語圏から受賞者を出すのは「偏り」があるため、あまり考えられない。

ヨーロッパ圏は、2014年のパトリック・モディアノ(フランス)、2015年のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ(ベラルーシ)と連続して以降、2年の間を空けていることになる。その前が、2008年のル・クレジオ(フランス)、2009年のヘルタ・ミュラー(ドイツ)、その前が2004年のエルフリーデ・イェリネクオーストリア)と考えると、少々詰まっている感が拭えないとはいえ、2019年度受賞者として選ばえる可能性も多少は考えておいたほうがよいのではないか、と思われる。

 

選考員会のオルソン委員長は6月、受賞者の「調和」を重視していると説明し、「例えば、同じ分野の文学にならなかったり、男女に分かれたりするなどだ」と語っていた。

なお「分野」とは、小説や詩、戯曲といったジャンルのことを指すと思われる。

詩の受賞者は、2016年にボブ・ディランアメリカ)が、2011年にトーマス・トランストロンメルがいるが、1990年代には詩人が4名受賞しているため、これだけが詩人を候補から外す理由としては弱くなる。

なお、劇作家の受賞者は2005年のハロルド・ピンター以来出ていない。

 

私は、海外の劇作家に詳しいわけではない。

また詩となると殊更、門外漢だ。

そのためここでは、劇作家の受賞が出る可能性に触れるにとどめ、オルソン委員長の警告から目を背け、小説家から受賞予想を挙げたいと思う。

 

 ◯

 

だが、名前を挙げる前に、当初の問いに答えておこう。

「今年、村上春樹の受賞はあるのか!?」。

 

これは、結論から言えば、難しいのではないか、と思う。

たしかに先述の通り、今年は日本人作家が受賞する可能性は、少なくとも2015年や2016年に比べて高い。

だが、2017年のカズオ・イシグロの受賞が、ここで効いてくるのではないか、と思われるのだ。

 

カズオ・イシグロは現代イギリス文学を代表する作家である。

出身は日本だが、5歳で渡英して以来イギリスで生活しており、創作も英語で行っている。また帰化しているため、国籍も英国である。

 

2008年に『タイムズ』紙は彼を「1945年以降の英文学で最も重要な50人の作家」(太字・筆者)に選出している。つまり彼は、英文学の伝統の中に位置する作家である。

だから、彼の名を挙げ、「日本の作家が受賞した」とするのは、本来的におかしな話なのである*7し、「彼のせい」で日本人作家の受賞が遠ざかる、としたいわけではない。

ただこれは、村上春樹には、少々「不利」な条件となるのではないか、と考えられるのだ。

 

繰り返しになるが、カズオ・イシグロの作品はイギリス文学である。

これが、イギリス出身でない作家の作品でありながら英国文学の伝統に位置づけられるすなわち包摂されている、ということに、文化の担い手と国民や民族が一致しないこと、開かれていることの価値を見出すものもいた。

村上春樹の文章は、アメリカ文学の文体――正確に言えば、リチャード・ブローティガンアメリカの鱒釣り』などを翻訳した藤本和子の文体――に強く影響を受けている。もちろん、これのみを以て、彼をアメリカ文学の作家であると呼ぶ人はいない。しかし、いずれも、日本文学という枠で文学をしなかったという点では類似する。

 

村上の初期作品において重要な点は、高度資本主義社会における孤独や諦念であり、これは「デタッチメント」と表現されていた。

ここから『ねじまき鳥クロニクル』以降、――「コミットメント」と表現されるが――日本の歴史に対するまなざしが多く作品に取り込まれていくこととなる。ここが、彼の文学の特長にもなっているが、それでも彼の需要のされ方を見るに、「孤独や諦念」にこそ彼の「魅力」は集約されるように思える*8

 

カズオ・イシグロの小説においては、自分の境遇を宿命として受け止め、それを前提として生きていくのである、とする一種の「諦念」とも言える感覚が描かれることが少なくない*9

これはもちろん、村上の描く「諦念」とは「震源地」の異なるものであろう。

彼のそれは、日本に戻ると思っていたが、両親の都合等もあって戻らなくなったという喪失感が根となっていることが推測される。

だから、「諦念」とくくれても、これは別物であり、彼らの主題は異なる、とも言える。

しかしながら、読まれ方として、環境に対する「諦念」が、現実をひとまず所与のものとして受け止めざるを得ないこととされるならば、そこから1968年以降的なマインドとの共鳴性を感じ取ることは、大きな飛躍とは思い難い。

そして、その1968年以降性こそが、村上が――少なくとも日本人作家としてはかなり早い段階で――描写し、人気の原動力となったものだった。

 

以上をもとに考えるならば、村上春樹は、カズオ・イシグロと少なからず「かぶる」作家であり*10、村上の受賞はこれにより厳しくなるのではないか、と思ってしまう。

「調和」は何も、2018, 19年の2名の受賞者のみに限定されないだろうことは、地域でバランスを考慮している傾向からも、想像できてしまう。

 

 ◯

 

では、村上春樹の本命度合いが高くないことを確認した上で、誰がノーベル文学賞を受賞するだろうか。

 

予想することに対して意味などない。

予想が当たったからといって何かがもらえるわけではないし――ブックメーカーの賭けに応じれば別だが――外れたからといって罰があるわけではない。それに、当たろうが当たるまいが、その正否自体が作品の売れ行きを決めるわけでもない。

だからこれは、賞に対してワイワイしているだけの、あまり品の良くないただのゲームである。

ただ、やりたいからやるのだ。

あわよくば、当てて、褒められたいのである。

 

まず、東アジアから候補を見てみよう。

私は、可能性があるのは以下の人物であると考えている。

多和田葉子(日本)

・残雪(中国)

 

多和田葉子は、ドイツに在住し日本語とドイツ語で創作する作家だ。

2019年に、全米図書館賞の翻訳部門を、震災文学の傑作である『献灯使』で受賞している。

世界文学たるためには「フクシマ」を描かねばならない――などというつもりはないが、あの「体験」を、早期に、世界文学たる筆致で描いた(少なくとも、そうとある文学賞で評価された)ことは、特筆に値する。

なお、二ヶ国語で創作する作家が受賞となれば、1969年のサミュエル・ベケットアイルランド, 英語・仏語で創作)以来となる。

 

残雪は、中国の女性作家である。

「中国のカフカ」とも形容される彼女の作品は、やはりその不思議さや「分からなさ」が特徴であると言えるだろう。

しかしそれは、明確に分からないとか、不条理な出来事に主人公が翻弄される一種の喜劇性を伴うとかそういうこともなく、ただ淡々と描かれるという空気もまた特徴としている……らしい。読んだことがないため、そう書くことしかできない……。

 

なお、数年前まで韓国の高銀も候補の筆頭として韓国内で名を挙げられていた。

しかし、2017年に常習的にセクシャル・ハラスメントを行っていたことを女性詩人から告発されるなど批判を集めた。ノーベル文学賞の発表が控えられた理由を鑑みても、彼の受賞は厳しくなったと言わざるを得ない。

 

続いて、アジアの中でも中東の候補者は以下の通りだ。

アドニス(シリア)

 

アドニスはシリアの詩人である。本名をアリ・アフマド・サイード・イスビルと言うが、アドニスの筆名で活動してきた。

彼の特徴は、母語であるアラビア語での創作である。もし彼が受賞すれば、先程も登場した、1988年のナギーブ・マフフーズ(エジプト)以来となる。

アラビア語文はこの支配的な批評観が示唆するような一枚岩ではなく、多元的で、時に自己矛盾をも含むものである」と述べる彼は、アラビア文学の伝統的な詩のスタイルを破るような、革新的な詩を世に生み出した。

 

続いて、アフリカの候補者は以下の通りだ。

グギ・ワ・ジオンゴケニア

 

ジオンゴは、小説、戯曲、批評など様々な「分野」の作品を発表しているケニアの作家である。

彼の特徴は、植民地言語であった英語と決別し、母語であるキクユ語での創作を続けていることだ。これは、先述した「言語の多様性」と対応する。

 

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家も、これまでのキャリアは輝かしい。

しかし、近年の傾向を見るに、受賞者の年齢はおおよそ60代前半や50代後半からそれ以上であり、彼女はまだ「若い」作家であると考え候補からは外した。

ここ数年で彼女に何かノーベル賞が与えられるとするならば、ノーベル平和賞なのではないかと思われる。

 

最後に、ヨーロッパ圏から作家をリストアップする。

・ペーター・ハントケオーストリア

・マリーズ・コンデ(フランス)

 

ペーター・ハントケは、戦後ドイツ語文学の寵児とも言われた売れっ子である。

また、デビュー当時のマッシュルームカットから、ポップスターとも形容された。

彼の特徴は、小説、戯曲、放送劇など多彩な活動にある。村上春樹が受賞し、ノーベル文学賞候補と取り沙汰されるようになったカフカ賞も2009年に受賞している。

 

マリーズ・コンデは、カリブ海フランス領グアドループ出身の女性作家である。

カリブ出身の受賞者となれば、1992年のデレック・ウォルコットセントルシア)以来となる。

カリブ人念願の「奴隷制廃止記念日」をシラク大統領に制定させるなど「行動する作家」であり、またカリブ、フランス、アフリカといった様々なルーツを持つ彼女*11が著した、西洋文明への違和を表明する作品は、多様性への目配せを促す役割も果たすはずだ。

 

では最後に、ここに挙げた作家たちから

 

◎ マリーズ・コンデ

グギ・ワ・ジオンゴ

◯ 残雪

アドニス

多和田葉子

 

残雪は、2012年の受賞者が同じく中国の莫言であるから、避けられるのではないか、と思い順位を下げた。それがなければ、残雪とマリーズ・コンデの位置は入れ替わる。

ちなみに、あるブックメーカーででは1位予想らしいカナダの詩人アン・カーソンは、「地域」の節で述べた理由から外している。

多和田葉子を残雪の位置に入れようかとも迷ったが、上記ブックメーカーの予想で21位らしいし……と日和ってしまった。

村上春樹を徹底的に外したのは、もはや意地である。まあ、好きな作家だ。大好きな作家なのだが、そのくせ受賞予想からは外すのが、なんともひねくれた性格の私らしいではないか*12

まあ、受賞できずとも、彼が優れた作家であることには変わりがない。

もちろん、他の作家だったそうだ。

 

ちなみに、上に挙げたペーター・ハントケは、ノーベル文学賞について以下のような苦言を呈している。

 

 

まあ、読んだことがないことがバレバレな予想を書いてきた私がコメントできることがすれば、それは「ぐうの音も出ねえ……」である。

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

*1:厳密には、50年間は候補者が公開されないため、候補者と目されている人。

*2:過去に数度例外はあるが極めて稀であり、また1966年を最後にそのケースはない

*3:これは、たとえば物理学賞や化学賞で、今年はこの分野から、といった傾向があるのとほとんど同じことではないかと考えられる。文学の場合、――これが良い分け方かは別として――地域や言語

が「分野」に当たると見做されているのだろう。

*4:ヨーロッパにも分類されうる

*5:なお、黒人の受賞者には、1993年のトニ・モリソン(アメリカ合衆国)がいる。

*6:ナイジェリア北部はイスラム教徒が多い。

*7:彼のアイデンティティの一部として、日本出身という要素がどのような一を占めるにせよ

*8:彼のファン層は、新興国に広がり続けている https://mainichi.jp/articles/20190427/ddm/014/040/011000c

*9:https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171011-OYT8T50010/

*10:カズオ・イシグロの受賞理由である「世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」など、どこか村上を想起させないだろうか。

*11:彼女はカリブの黒人過程の出身であり、1960年代はギニアで生活していた。

*12:ちなみに、村上春樹は、ブックメーカーの予想だと4位らしい。

【お知らせ】noteでエッセイを始めました

いきなりですが、

noteでエッセイを始めることにして、

始めました。

 

 

なぜエッセイなのか。

それは、私が――このブログでは特に告知もしませんでしたが――昨年、文学フリマ東京に出したことと、わずかながら関係しています。

正確に言えば、知り合いが出す同人誌に寄稿したのです。

 

同人誌のテーマは「経済エッセイ」でした。

経済政策や経済の行く末について論じるような「堅い」ものではなく、ただ自分たちの懐が寒いとか、給料が安いとか、そんな話をするもの。

そこに私は、「AIと経済」みたいな、セルアウトチックなものを書きました。

 

記事を読んだ知り合いつまりその同人誌の「編集長」であり「発行者」にあたる人から来たLINEを引用します。

次回企画時は、まずエッセイであることから始めてみてください。それから論評になれば最高!

論評としてよくできてるし面白いのだが、なぜAIという題材をXXが取り扱ったのかが見えるとさらに面白い。

後半はともかく、前半を読むだけで、私がオーダーに適さない文章を書いたことだけは容易に理解できます。

どうしてそんなことになったのか。

話は簡単。私はきっと、エッセイが苦手なのです。

 

エッセイが苦手、というのはやや不正確かもしれません。

正確には、「感情」とか「自分」を込めた文章が苦手なのです。

文章はどこか機械的で、ツイッターアカウントについて「ボットと会話しているような気がする」なんて言われたこともありました。

この特徴はきっと、大学3年生のある時分以来強くなったものなのですが、その話は「書きたい日記」の領分なので、ここでは特に掘り下げません。

 

そういうわけで「苦手」なエッセイ。

それを書いてみようと、今回、始めました。

 

冒頭にも書いたように、エッセイはこのブログでなくnoteというサービス上に投稿していきます。

現在このブログは、映画やアニメの感想や、長めの「日記」がメインコンテンツになっています。

いわゆるエッセイ然とした内容のエッセイ然とした長さの文は、このブログにはミスマッチなのではないか、と思いました。

また、インターネット上でエッセイと言えば、はてなブログよりも株式会社ピースオブケイクの運営するサービスのイメージが私のなかで強かったというのもあります*1

noteに書いていくのは、そんな理由からです。

 

しかし、「苦手」と自覚しながらなぜ書くのか。

文章力の「弱点」を克服したい、というのは分かりやすいストーリーでしょう。そして、そういう思いも確かにあります。

ですが、エッセイの執筆が本当に「弱点」の克服につながる保証はありませんし、そもそも「弱点」を克服したとして何が嬉しいのか、という話でもあります*2

白状すれば、「書きたいから書く」これが何よりもの動機です。

 

最近、エッセイを読むことが増えました。

初めは、ブログを書くにあたって雰囲気などここから得られるものがあれば吸収しよう、といった思いで読み始めました。

何を隠そう。このブログは、1駅間で読める通勤時間帯のお供、というのが当初のコンセプトだったのです。

 芳根京子の記事には、そのコンセプトの名残があります。

まあ、その次の記事ぐらいから、早速長文化していくのですが……。

 

参考になるように、勉強のために、と読んでいるうちに、ゆるさ――物語というエンジンを積まない、緊張感の良い意味での薄さ――に面白さを感じ、色々と手を出すようになりました*3

星野源『よみがえる変態』

岸本佐知子『ねにもつタイプ』

また、以前の記事で取り上げた若林正恭『ナナメの夕暮れ』もそうです。

 

そして読むようになれば、自分も書いてみたくなる。これは、多くの本読みかつ文章書きに備わった業であります。

最近、読むようになったエッセイだから書きたい。理由はこれに尽きるのです。

また、小説を書こうとして*4、うまくプロットがまとまらず書けなかった*5、というのも多分ちょっとだけ影響しています。

 

noteで書いていくエッセイですが、noteの機能である「マガジン」にまとめていこうと思っています。

マガジンには、投稿であるノート=記事を複数まとめることができます。

こうすると、なんだかエッセイ集みたいでかっこいいかな、と思ったので。

 

 

そういうわけで、noteでエッセイ始めました。

何回同じことを書くんだよ、という話ですが、今回はこのくらいで。

 

告知なので、趣向を変えて敬体で書いてみましたが、慣れないことをすると、慣れない感じがして、慣れないなあ、って思いますね。

 

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*1:もっとも、現代のインターネットならば、文章だけよりもコミックエッセイのほうがSNSとの相性もよくまた読みやすいので、適しているのですが。

*2:文章で生計を立てるつもりがあるならばともかく

*3:これは、保坂和志長嶋有の小説を読んでいるときの感覚に少し似ているかもしれません。

*4:更新が滞った理由の一つにはこれもあります。

*5:もっと単純に考えれば良いんでしょうけれど、なんで複雑になって、処理しきれなくなるんでしょうね。努めて難しくしようとしてなんかないのに、思いついたフレーズから考えていくと、思弁性の迷路に迷い込んでしまいます。

キングオブコント2019感想(1stラウンドまで)

去る9/21(土)に、キングオブコント2019決勝が開催・放映された。

言うまでもなく、日本で面白いコント師の頂点を決めんとする大会である。

冒頭に私の駄弁を連ねても仕方がないので、さっそく本編に参りたいと思う。言うまでもなく、内容はその感想である。

 

司会:浜田雅功葵わかな

審査員:松本人志三村マサカズ大竹一樹日村勇紀、設楽統

 

 ◯

 

うるとらブギーズ 462点

喋っている人と一緒に喋ってしまう人と催眠術師のコント。

設定はシンプルだが、それが普段は催眠術師に注目する状況なのにそれどころじゃない、とか、催眠術どころじゃない、といったところにつなげていたのは面白かった。また、他の観客が喋っていることを「一緒に喋ってしまう人」の口から喋らせる、というやり方も非常に面白かった。

色々と遊べたのは、「一緒に喋ってしまう」という設定のシンプルさの妙であろう。

ただ、ここまでハネるとは思っていなかった。

 

ネルソンズ 446点

3人いることを活かしたコントだ。

マネージャーが大学生と遊んでいるらしい、という「ここだけの話」を同級生から聞いた和田まんじゅうが先輩に早速話してしまい、話がこじれていく。この同級生と先輩が揉めている中、それを和田まんじゅうと観客が俯瞰的に見る、という構図。

ここで面白いのは、この話、全面的に和田まんじゅうが悪い、という点だ。

俯瞰ポジションに常識人を置いてツッコミをするのではなく、あきらかな「ヤバイやつ」*1を置くことで、場としてはツッコミが欠けるような形になるが、これを展開だけで笑いに繋げられている、つまり構造が極めてシンプルで笑いやすいというところに、きっとこのコントの凄みはある。

ただ、この和田まんじゅうが、最終的にチームメイトをドン引きさせるに至るほど「ヤバイやつ」になったのがまずかったかもしれない。それまでは、口が軽いヤバイやつだけど、先輩のブチギレ具合が尋常じゃなく、それに怯えている、という《異常性》へのエクスキューズがあり、それこそが人間の弱さみたいな可笑しみになっていたはずだから。

 

空気階段 438点

水川かたまりがタクシーに乗ると、運転手である鈴木もぐらが「前も乗せたことありあすよね」と言う。しかし、水川には憶えがない。果たして水川が降りると、すぐさま水川が乗ってくる。鈴木が「さっきも乗せましたよね?」と訊ねると、水川は「え?」と答える。これはいったいどういうことなのか? という怪談チックなコント。

タクシーという空間での不条理なネタは、千鳥のコント漫才「よだれだこ」を思い出させる。

ただし、あちらは終始「よだれだこ」「ポカリがわ」という大吾演じるキャラクターが《異常性》を担っているのに対し、こちらは次第に状況が異常な方に転じていく、という構造を持っている。

当初は、鈴木もぐらの「前にも乗せたことありますよね」からの「トランペットにヘチマがつまってた」や、スタンプカード性からして運転手が「ヤバイやつ」なのだが、ガラッと、鈴木の言っていることは正しく、水川にそっくりなやつが何人も存在している、という《異常性》が前景化する。

鈴木のインパクトある見た目からしてもこの展開に対する「驚き」はすごかったが、しかしこのコントの《異常性》が顕になるまでが長く、少しだれてしまったかもしれない。

ただ敗退時の「お笑いのある世界に生まれてよかった」は最高だった。

 

ビスケットブラザーズ 446点

上を見ながら、下を見ながら歩いてきた2人が出会う。実はこの2人、かつて結婚し、しかし生き別れてしまった元夫婦だった! というコント。

すごい面白かったんだけども 、同時に、どこが面白いのかが分からないコントでもあった。具体的にどこが「面白い」をのかをうまく言えないのだ。

照明変化をつけて急に雰囲気が変わるところとか、リフレインとか、掛け合いのフレーズの切り方がだんだんと強引になっていくこととか、面白い個所はいろいろあるんだけども、「これがあるから面白いのだ!」が言えない。

だからどう評せば良いのかが分からない。

悪くないんやけど、うーん、悪くないんですよ、悪くないんやけど――と言う松本人志のスタイルみたいでなんだか気が引けるが、実際そうなってしまう。

好きなんだけどね。

 

ジャルジャル 457点

野球部の新人と、その教育係。新人がマウンド(グラウンドの端にある、ブルペンとして使われる場所とかだろうか)に行こうとした途端、教育係はめちゃくちゃな言葉を喋り始める。しかし、本人はちゃんと喋っている、という。果たして? というコント。

ネタバラシをすると、この先輩は声の周波数が特殊で、ある長さ以上離れると日本語で喋った声が英語になるのだという。

このコントは、そんな「一定の距離」「言語の変化」というシンプルなルールに支えられている。しかし、だからこそ様々な遊びを入れても混乱しなかったのだろうし、このシンプルさをうまく使い、アイデア一発ネタにせずコントに仕上げていたのは、設楽が指摘したようにうまかったと思う。

また、元々の英語が、英語と受け取れない言葉だったことで、英語を喋ると日本語っぽくなるが、その日本語が文法めちゃくちゃで気持ち悪い、というのも面白い。

ただ、中国語と中国地方というのは、ちょっとオチとして弱かったなあ、と思う。

 

■どぶろっく 480点

村の男が、母の病気を治すため何とか薬を手に入れようとし、そこにその心の優しさを見込み、お前の望みを何でも一つ叶えてやろうと神様が現れるというコント。

序盤、江口が持ち前の歌唱力を武器に、それなりにミュージカルっぽく、状況と感情を歌い上げる。しかし、サビで彼が「大きなイチモツをください」と下ネタを発して事態は一変する。

そう。これは、言ってしまえば、彼らがいつもやってきたような、単なる下ネタなのだ。そして所詮は、シンプルな「天丼」なのだ。しかし、これが悔しいぐらいに面白い。

だが、これは単なる下ネタなのだが、同時にちゃんと「芝居」だった。

まず、江口は「母の病を治す」という「まっとうな願望」を持ち、また森演じる神様に諭されて何度も元の願いを思い出すのだが、結局は「大きなイチモツ」を願ってしまう。神様という超常的存在つまり願望を叶える機会を前にして、体面とか、「正しいこと」を放り出してまで、「大きなイチモツ」という己の願望を優先しようとしてしまう、というのが良い。

また、神様が諭すように、「イチモツ」は大きさじゃないのだ。

ペニスを「イチモツ」と言い、大きさにこだわるとき、それは尿を排泄するためとしてではなく、性交に使用することが想定されていると言ってよい。そして、ヒトが性交を行うのは、主に遺伝子の交配のためである*2

より性交をし子供を残すつまり自分の遺伝子を繋げるには、大事なのはペニスの大きさよりも精子の「元気さ」とか量であり、むしろ変わって嬉しいのは、「イチモツ」よりも睾丸であろう。

しかし、村の男は「大きなイチモツ」を願うのだ。それはもう見栄でしかない。この「くだらなさ」が「人間」以外なんと形容できよう。

この点で、これはたしかに「芝居」でありコントだった。

 

かが屋 446点

花束を持って恋人が現れるのを待つ男と、舞台となる喫茶店の店員のコント。

このコントは、設楽が指摘していたように、とても「上手い」。

カレンダーを置くことで、暗転前後が同じ日の出来事であることが明示的になるし、「蛍の光」で、閉店間際なのに……というペーソスを醸し出している。また、男の格好から、これがプロポーズであり、これに賭ける男の気持ちも伝わってくる。だからこそ、先のペーソスがたまらなくなる。

そして最後、「それは遅れたことに対してだよね?」が、彼女が何を言ったのか。そして、もうどんな顔をしていたのかすら立ちどころにイメージさせる。

今回はハネなかったが、あるいはこういう形の賞レースではハネにくいのかもしれないが、このコントを見られたことは幸せだったと自信を持って言える。

男が恋人を追い、しかし戻ってきて会計をしようとする律儀さが好きだ。それに、「いいですから、追って!」と言う店員も。

 

GAG 457点

男女コンビと、そのうち女性の彼氏が登場するコント。

男女お笑いコンビはその彼氏に挨拶に行き、その場でネタを披露するが、そのネタがことごとく「ブスいじり」であった、という展開を見せる。

男女コンビで「ブス」ネタをするのはよくあることだが、ここに彼氏というキャラクターを登場させることで、その微妙な空気そのものが笑いになるわけだが、「逆に」でなく「順に」篠田麻里子似である、と憤る彼氏が良い。

ここでは、常識化した「ブスいじり」ネタが相対化されている。

「お笑いって異常な世界やな」とか「市役所では考えられへん」とかのフレーズがとても面白いし、この面白さで「相対化」が前景化していないのがバランスとして良いなあ、と思う。あとコントとして「順に」面白いし。

オチも公務員でいい。いやあ、いいんだよなあ、福井くん。

 

ゾフィー 452点

不倫をした腹話術師の謝罪会見のコント。

まあ、人形がとても面白い。にじりにじりとした首の動かし方とか。そして、人形を使って、最終的に腹話術師が「悪くない」ということに行き着くところも最高。

また、反対に人形を使えないと、尋常じゃなく端切れが悪くなるところも。

けれども確かに、松本の言うように、カメラがちゃんと人形に寄っていることで一視聴者である私は「より笑えた」のは否めなかったのかもしれない。

「興奮して立っちゃうやつはバカだ」というセリフは最高。

 

わらふぢなるお 438点

バンジージャンプをするとスタッフの人の話。

スタッフがかなり異常で、怖がる人と対照的に、紐を付けずにジャンプするなどの異常性/過剰性を発揮していくという構造であった。

悪口を言って、縄を投げてくれるかのギリギリを楽しむところに至る、という「最後」は面白かったが、なんとなく、自分の中ではハネなかった。

バンジーがそもそもTVのものであり、異常に見えるので、その中で異常なやつがいることを、楽しめきれなかったのかもしれない。

なんとなくサンドウィッチマンに似ていたなあ。「下の名前無いんですか?」ってボケも、「なんだよ、下の名前ないんですか? って」というツッコミも。つまり、ワードセンスが。少しだけ。

 

  ◯

 

本当は、最終決戦まで一気呵成に書こうと思っていたが、長くなったので、ここまでで一旦記事を終えようと思う。

なんたって、ここまででもう4,000文字を超えている。

 

ちなみに1stラウンドでは、

点数1位、2位のどぶろっく、うるとらブギーズ

そして3位が2組いるなか決選投票の末ジャルジャルが勝ち上がりとなった。

 

個人的に1stラウンドのFavoriteは、

水川かたまりの「お笑いのある世界に生まれてよかった」と、

GAGの「市役所では考えられへん」と、

ゾフィーの「興奮して立っちゃうやつはバカだ」である。

 

では、書く元気があれば、また「最終決戦」の記事で。

 

*1:なにせこいつ、言われたそばから「内緒の話」をバラすのだ。

*2:それは唯物論的な見方である、と言うこともできるが、ここでは話をシンプルにするため、このような目的論を取る。

最近のこと(2019-08-25): オードリーと日向坂46にハマる

暑い、暑いと書くつもりだったのに、気づけば連日猛暑日だったあの頃に比べると幾分か涼しくなってしまった。

真夏のピークが去った――天気予報士がそんな風にテレビで言ったなら、夕方五時のチャイムがなんだか胸に響くのかもしれない。

しかし、オフィスにいては、そんな音色を聞くこともない。

 

このあいだ、海外に行く機会があった。

そこでの思い出話はいくつかある。

それらに順位をつけるなら、上位には観光名所やその土地ならではの体験が来て然るべきである。

もちろん私の中の1位も、そういう現地ならではの体験だ。

しかしじゃあ2位は? となると、そこに、向こうで若林のエッセイを読んだことが入る。

 

若林とは、お笑いコンビオードリーの若林正恭のことである。

彼のエッセイ『ナナメの夕暮れ』を、向こうのホテルで読んだ。夜、ロビーで、椅子に腰掛け、夜風に当たりながら。

これがとても良かった。ぜひ読んでみてほしい。

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

  

さて、私は最近、オードリーにハマっているようだ。

M-1の決勝から10年、今更かよ、という気もするが、そうなんだから仕方がない。

これはもう認めるほかない。

 

きっかけは、今年の春に文庫化した、佐藤多佳子『明るい夜に出かけて』だ。

明るい夜に出かけて (新潮文庫)

明るい夜に出かけて (新潮文庫)

 

この本の主人公は深夜ラジオリスナーであり、元投稿職人だ。

しかし、あるトラブルが原因で引退し、その影響もあって大学は休学中。

現在は親元を離れて一人暮らしをしながら、コンビニアルバイトをしている。

 

作品中では、アルコ&ピースのオールナイトニッポンという実在したラジオ番組がフィーチャーされている。

この番組に投稿を再開してみて、読まれなくて悔しがるとか、そんな描写がいちいち「良い」。それは、ツイートや記事が刺さるかってこととほとんど同じだから。

だから、ラスト放送とされた場面は、すごく熱い気持ちになれた。

 

GWに、静岡に演劇を見に行った。静岡県庁の周辺だったかの路上でパフォーマンスが展開されるというもの。

そこでロロのいつ高シリーズである「グッドモーニング」を観た。

作中に、ハライチのターンが出てきた。

 

それらを読み、観劇し、私は深夜ラジオを聴きたくなった。

そこで、作中に出ていたハライチのターンないし、有名な伊集院光深夜の馬鹿力とかを聞けばよかったのだろう。実際、ツイッターでは伊集院光を勧められた。

しかし、どういうわけか私が聴いたのは「オードリーのオールナイトニッポン」だった。

『激レアさんを連れてきた』の若林と弘中綾香アナウンサーの掛け合いが好きだったこともあるのかもしれない。

そして、このラジオを聴いて、なんだかすっかりオードリーにハマってしまった。

6/30の、ラゾーナ川崎のイベントにも行った。

女子中高生に「なんで俺ら人気ないんだと思う? 女子中高生にさ」みたいなことを聞いたら「ファッションがダサい」って答えが来たのとか最高だった。

 

さて、ある出張の日の朝、私は新幹線に乗り、この時間から仕事をしてもどうせ勤務時間にならないし――という舐めた態度で、radikoのタイムフリーで「オードリー~」を聴いていた。

その回のオーピニングのフリートークでは、若林が「日向坂で会いましょう」で微妙な空気になって終わったことに触れられていた。

 

それを聞いたことで、なんだか興味を持って「日向坂で会いましょう」を見始めて、今日に至っている。

 

上に貼った「アイドル冠バラエティ番組」の記事には、そんな伏線があったのだ。

そして、ここ最近の私ときたら、すっかり「日向坂で会いましょう」にハマっている。

 

彼女らのバラエティ能力は、おそらく番組内の内輪感に拠るものが多いのだと正直思う。

この「クラス感」は、それこそ上に引用した記事のとおりだ。

しかし、それでもその番組すなわちクラスを良いものにしようとボケ続ける彼女らを見ると、ときにじーんと来てしまうし、笑わされてしまうのだ。

 

ニブモネアの前半は本当に素晴らしかった。

やっぱり松田好花と渡邉美穂の「オードリーの春日さんですよね」は何度見ても笑える。

それに、その少し前にあったバーベキューロケ企画も最高だった。

あと、特技を見つける回で野球をしたことと、

小坂菜緒のブログから始球式をしたい等の野球の記述があったことから、

いきなり番組企画として野球回をはじめるあたりは、なんだかそれこそ深夜ラジオみたいな感じがあって面白い。

あと、先述したが「オードリーの春日さんですよね」みたいな春日イジリも板についてきた。

やっぱり、オードリーのオールナイトニッポンを、アイドルを入れてテレビ化したみたいな感じがあって、非常に深夜っぽくて面白いのだ*1

 

だからこそ、なおのこと私は、日向坂46にはオードリーから「入った」のだと主張したくなるのである。

とはいえ、これがどきどきキャンプ岸学みたいな「かっこつけ」に聞こえることも承知している。

「アイドル好きになったことねえからなあ~」みたいな。

 

オードリーのオールナイトニッポンでは、しばしば下ネタが話される。

たとえば春日が結婚し、クミさんの実家に週4ぐらいで帰るようになったが、そのときの「自分磨き」はどうなるのか、とか。

そのための動画をインターネット上で漁ることを「エロパソコン」略して「エロパソ」もっと略して「EPC」と言い、ときどき挟む猫の動画を探すことを「NPC」を言うか。

「死んでもやめんじゃねーぞ」というコーナーでは、上記の岸学が、「かっこつけ」キャラとしてよく登場する。

このコーナーは、春日がビトタケシ*2のマネをしながら「おい、〇〇!XXX、死んでもやめんじゃねーぞ!」と言い、それに対し若林がコメントを入れ、「というね」と春日が付け足し次のネタに行く――そんな流れで行われる投稿コーナーである。

何故、そうなったのかは、たぶん調べるとすぐ出てくると思う

このコーナーも、下ネタというか、風俗とかそういうネタがとても多い。

例えば「おい、岸学! 風俗の待合室で、「え、もう俺の番なの?」と言いながら、めちゃくちゃ勃起していること、死んでもやめんじゃねーぞ!」みたいな。

 

先程、「日向坂で会いましょう」を「オードリーのオールナイトニッポンを、アイドルを入れてテレビ化した」と表現したが、もちろんこんな下ネタや風俗ネタはない*3

なぜならば、そこは、ファンが夢想する架空の女子校だから。

だから、下ネタだけが深夜ラジオの醍醐味では当然ないけれど、マイルドになっていることは確かだ。

だけれども、オールナイトニッポン0で、「死んでもやめんじゃねーぞ」ってフレーズを使った松田好花さんを、私は推していきたいと思います。

「ニンニン肉のカーテン ニンニン肉のカーテン アトランティスウォーズマン」の可愛さたるや!

 

最近はまあ、こんな感じです。

 

*1:だから、内輪感は大正解なんだと思う。

*2:ビートたけしのモノマネ芸人

*3:「ひらがな推し」時代に「スナック眞緒」という企画はあったが。

退職エントリーを書きたい日記【その2】: ぼんやりとした悲しさについて

当たり前のように日中の最高気温が25℃を超えるようになり、いよいよ夏到来の予感を無視できなくなってきた。

それはつまり、以前もブログで取り上げた元同僚の女性が会社を辞めてから、そろそろ1年が経とうとしているということを意味している。

 

今年のはじめ頃、彼女も交えて飲む機会があった。

彼女はとても元気になっていて、転職した先での仕事も充実しているようだった。

誠に結構なことだった。

 

だから、退職した彼女の話は、もう「終わった話」のはずなのだ。

だって、もう現在進行形で「不当」な「扱い」をされ、現在進行系で苦しむ彼女はいないのだから。

それなのに私は、いまでもしばしば彼女のことを思い出し、ナーバスな気持ちになっている。

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私がナーバスな気持ちになるのは、主に二つの理由からだ。

一つは、それでもその「扱い」が実際になされたという事実に変わりはないから。

そしてもう一つは、その思い出すという行為が、彼女の道具的利用にほかならないからだ。

 

私はきっと、いかるために彼女を利用している。

彼女についての会話が行われた瞬間を思い出す――つまり怒りを現存させるために、彼女を出汁にしているのだ。

そのことが、その都度、自己嫌悪を引き起こす。お前はいったい何様なのか、と。

 

お前はいったい何様なのか。そんなお前に、怒る資格などあるのか。

そんなことを考える。そのたびにブルーにこんがらがってしまう。

けれど、それでも、私は、腹立たしいなあ、と思うことをやめられないでいる。

 

そのような「腹立たしい」ことは、なにも上述の「彼女」にのみ降りかかるものではない。

例えば、女性社員に「デブ」なんて話しかけるような、そんな感じの――。

あるいは、「そう言ってもさ、あいつ、ブスじゃん」と女性社員の陰口を叩き、プライドを甘く慰撫するような、そんな感じの――。

そういう言説に触れるたびに、ひどくうんざりしてしまう。

そしてそれこそが、私が転職したいな、と思う――つまり、この会社に居たくない、と思う理由の一つである。

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そんなものはどこにでもあるよ――と言われるようなことなのかもしれない。

実際、とある別の女性社員に「デブ」と呼びかける社員がいるのはどうかと思う、という話をしたところ、「そんなのはどこにでもあるんだよ」なんて言われてしまった。

だけれど、そんなのはやっぱり変だよな、と思う。

 

「前職はひどかった」なんて、知り合いがツイートしているのを見かけた。

曰く、そこでは「嫌な言葉」が日常的に飛び交っていた、と。

そしてその話はこう結ばれるのだ。「いまの職場はそうじゃない(から良い)」みたいな。

その人のツイートを信じないわけじゃない。

しかし、そんなものの存在を、あまり期待しきれないのも確かである。

なぜならば、期待はすなわち失望への出発点だからである。

 

だから、そんなものはやはりないんだろう、と考えてしまう。

「UFOの軌道に乗って あなたと逃避行 夜空の果てまで向かおう」

志村正彦はそう歌ったが、宇宙が膨張を続ける以上そんなものがないみたいに。

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これはひどく抽象的な問題だ。

これを例えば、転職エージェントに言ったところで、困ったような顔を浮かべられ、そしてもっと具体的な「条件面」を問われることだろう。

年収とか、スキルセットとか、勤務地とか、そういう「募集要項」の項目と対応するようなものを。

 

それらについて、ある程度のことを話すのは簡単だ。

現在の年収を述べ、そこから少し上乗せした額を「希望年収」とする。

スキルセットには、以前やった仕事から抽出してまとめればいい。

勤務地は、東京のままでいい。都区内ならば通勤に大して苦労はしなかろう。

そういうことだけを言っていればいい。

 

けれど、やっぱりあの言葉は嫌だなあ、と思うし、こんなところは嫌だな、とも思う。

その気持ちが消えてくれるわけじゃない。

これこそが、私が「ここはいやだなあ」と思ってしまう、わりと大きな理由なのだ。

 

それに、他の理由だって、まあまあ抽象的なものだ。

広告が絶望的にダサいのが嫌だ、とか。

開発しろって決定事項として降りてきた製品のコンセプトが気持ち悪かった、とか。

いつもダサいことばかり企画する人がいてとても嫌い、とか。

まあ、いろいろとある。

あとは、あまり会社とは関係ない、もっと個人的な気持ちもあるのだが、まあこれはまた改めて書こう。

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転職の動機になりそうな、もっと年収の高いところの行きたい、とかはあまり思わない。

勤務先の給料が高いわけではない。

ただ、就活の頃に就職四季報で平均年収を熱心に見ていた知人との、その項目に対する熱量の差などを鑑みると、私が収入やお金に比較的無頓着なだけなのだろう。

 

キャリアアップだとか収入増に有効だ、と散々言われたところで、動き出せるわけじゃない。

事実、このご時勢にあって、私は英語の勉強にまるで身が入らない。

ただ危機感を募らせ、摩耗していくのみである。どこか報酬系みたいなのがバグっているのかもしれない。

 

このぼんやりとした、「いやな気持ち」を引きずって、また私は会社に行く。

「書きたい日記」のナンバリングは大きくなり、しかし転職サイトなどには登録していない。

上述の気持ちを、どう具体的な「希望」へと落とし込むべきなのか、いまだにわからないままである。

 

最近の私は、だから、いつもぼんやりと悲しい。

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