ノーベル文学賞を予想する2019
今年もこの季節がやってきた。
ノーベル賞に日本がソワソワする季節が。
日本人はノーベル賞が好きだ。
戦後間もない頃に湯川秀樹が受賞した時の興奮を忘れられないのかもしれない。
また、日本の科学力は世界一ィィィ!!!!! ではないが、「強かった」日本経済の原動力としての「日本の科学力」の素晴らしさを再確認できる、というナショナリズム的な欲望があるのかもしれない。
ただ、ノーベル賞は好きだけれど、科学分野になると、少々騒ぎにくい。
何らかの成果を発表してから受賞までに間が空くため、最先端の科学技術というのではないが、それでも専門性が高いことには変わりがない。
たとえば田中耕一は2002年にノーベル化学賞を受賞したが、その理由となった「ソフトレーザー脱離イオン化法」は、1985年に特許申請されたものだった。
また、2008年に同じく化学賞を受賞した下村脩は、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見と開発を受賞理由とされたが、この発見は1960年代になされたものだった。
下村が発見したGFPは、今日の医学生物学の重要な研究ツールとなっており、その点でスリリングな発見なのだが、「テレビ的」には、ちょっと盛り上がりにくい=盛り上げにくい。クラゲを見て騒ぐくらいしかできない。
この点、文学賞は分かりやすい。
それに、その他の賞に比べて、候補者*1の名が世間に知られている。
村上春樹を知っている人は何千万人といるだろうが、受賞以前に梶田隆章を知っていた人はそれほどはいるまい。
だからノーベル文学賞は騒がれるのだ。
今年、村上春樹の受賞はあるのか!? 大変キャッチーだ。
だから、このブログでもやる。
今年、村上春樹の受賞はあるのか!?
◯
まず、ノーベル文学賞を取り巻く環境として、最近の受賞者を眺めてみよう。
スウェーデン・アカデミーはスキャンダルを受け、2018年は受賞者の発表を行わず、2019年に、2018年、2019年の受賞者を発表するとした。
ノーベル文学賞の受賞者は例年1人*2であり、今年は計2名の受賞者が発表されると考えられる。
文学賞の受賞者には、地域のバランスを考慮する傾向がある*3。
たとえば「アジア人」という括りで見れば、1994年に大江健三郎(日本)が受賞して以来、
・高行健(2000年、フランス(中国語で創作。また1990年に亡命し、1998年にフランス国籍取得))
・莫言(2012年、中国)
と、おおよそ6年周期で「お鉢が回って」きていることが分かる。
それを踏まえれば、今回はアジア人作家が受賞する可能性は高いのではないか、と考えられる。
他の地域にも目を向けてみよう。
たとえばアフリカ地域からの受賞者は、2007年のドリス・レッシングまで遡る。彼女はジンバブエで育ったが、1949年に息子と共に渡英し、以降は英国で創作活動をしていた。
国籍で言えば、2003年のJ・M・クッツェー(南アフリカ共和国)まで遡る。
また、人種という面では、アフリカの黒人作家の受賞は1986年のウォーレ・ショインカ(ナイジェリア)まで遡る*5。
なおアフリカからの受賞者は、1988年のナギーブ・マフフーズ(エジプト)以外は、みな英語での創作をしており、言語の多様性という面では、アフリカ民族言語を用いた文学の受賞が待たれる。
アラビア語圏やイスラム圏からの受賞者も、上記のナギーブ・マフフーズや、ウォーレ・ショインカ*6などに限られる。
アジアという観点からは、「中東」という地域も無視できない。
また、ラテンアメリカ文学からの受賞者となれば、2010年のマリオ・バルガス=リョサ(ペルー)以来となるが、その前が1990年のオクタビオ・パス(メキシコ)、その更に前が1982年のガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)と遡る。
マルケス以前の、日本でもラテンアメリカブームの起こった頃は10年に一度のペースだが、そこから踏まえると、やや「時期尚早」感が拭えない。
北米大陸は、2013年のアリス・マンロー(カナダ)、2016年のボブ・ディラン(アメリカ)と続いているため、今回は考えにくい。また2017年のカズオ・イシグロ(イギリス)の受賞を踏まえると、こう連続で英語圏から受賞者を出すのは「偏り」があるため、あまり考えられない。
ヨーロッパ圏は、2014年のパトリック・モディアノ(フランス)、2015年のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ(ベラルーシ)と連続して以降、2年の間を空けていることになる。その前が、2008年のル・クレジオ(フランス)、2009年のヘルタ・ミュラー(ドイツ)、その前が2004年のエルフリーデ・イェリネク(オーストリア)と考えると、少々詰まっている感が拭えないとはいえ、2019年度受賞者として選ばえる可能性も多少は考えておいたほうがよいのではないか、と思われる。
選考員会のオルソン委員長は6月、受賞者の「調和」を重視していると説明し、「例えば、同じ分野の文学にならなかったり、男女に分かれたりするなどだ」と語っていた。
なお「分野」とは、小説や詩、戯曲といったジャンルのことを指すと思われる。
詩の受賞者は、2016年にボブ・ディラン(アメリカ)が、2011年にトーマス・トランストロンメルがいるが、1990年代には詩人が4名受賞しているため、これだけが詩人を候補から外す理由としては弱くなる。
なお、劇作家の受賞者は2005年のハロルド・ピンター以来出ていない。
私は、海外の劇作家に詳しいわけではない。
また詩となると殊更、門外漢だ。
そのためここでは、劇作家の受賞が出る可能性に触れるにとどめ、オルソン委員長の警告から目を背け、小説家から受賞予想を挙げたいと思う。
◯
だが、名前を挙げる前に、当初の問いに答えておこう。
「今年、村上春樹の受賞はあるのか!?」。
これは、結論から言えば、難しいのではないか、と思う。
たしかに先述の通り、今年は日本人作家が受賞する可能性は、少なくとも2015年や2016年に比べて高い。
だが、2017年のカズオ・イシグロの受賞が、ここで効いてくるのではないか、と思われるのだ。
カズオ・イシグロは現代イギリス文学を代表する作家である。
出身は日本だが、5歳で渡英して以来イギリスで生活しており、創作も英語で行っている。また帰化しているため、国籍も英国である。
2008年に『タイムズ』紙は彼を「1945年以降の英文学で最も重要な50人の作家」(太字・筆者)に選出している。つまり彼は、英文学の伝統の中に位置する作家である。
だから、彼の名を挙げ、「日本の作家が受賞した」とするのは、本来的におかしな話なのである*7し、「彼のせい」で日本人作家の受賞が遠ざかる、としたいわけではない。
ただこれは、村上春樹には、少々「不利」な条件となるのではないか、と考えられるのだ。
繰り返しになるが、カズオ・イシグロの作品はイギリス文学である。
これが、イギリス出身でない作家の作品でありながら英国文学の伝統に位置づけられるすなわち包摂されている、ということに、文化の担い手と国民や民族が一致しないこと、開かれていることの価値を見出すものもいた。
村上春樹の文章は、アメリカ文学の文体――正確に言えば、リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』などを翻訳した藤本和子の文体――に強く影響を受けている。もちろん、これのみを以て、彼をアメリカ文学の作家であると呼ぶ人はいない。しかし、いずれも、日本文学という枠で文学をしなかったという点では類似する。
村上の初期作品において重要な点は、高度資本主義社会における孤独や諦念であり、これは「デタッチメント」と表現されていた。
ここから『ねじまき鳥クロニクル』以降、――「コミットメント」と表現されるが――日本の歴史に対するまなざしが多く作品に取り込まれていくこととなる。ここが、彼の文学の特長にもなっているが、それでも彼の需要のされ方を見るに、「孤独や諦念」にこそ彼の「魅力」は集約されるように思える*8。
カズオ・イシグロの小説においては、自分の境遇を宿命として受け止め、それを前提として生きていくのである、とする一種の「諦念」とも言える感覚が描かれることが少なくない*9。
これはもちろん、村上の描く「諦念」とは「震源地」の異なるものであろう。
彼のそれは、日本に戻ると思っていたが、両親の都合等もあって戻らなくなったという喪失感が根となっていることが推測される。
だから、「諦念」とくくれても、これは別物であり、彼らの主題は異なる、とも言える。
しかしながら、読まれ方として、環境に対する「諦念」が、現実をひとまず所与のものとして受け止めざるを得ないこととされるならば、そこから1968年以降的なマインドとの共鳴性を感じ取ることは、大きな飛躍とは思い難い。
そして、その1968年以降性こそが、村上が――少なくとも日本人作家としてはかなり早い段階で――描写し、人気の原動力となったものだった。
以上をもとに考えるならば、村上春樹は、カズオ・イシグロと少なからず「かぶる」作家であり*10、村上の受賞はこれにより厳しくなるのではないか、と思ってしまう。
「調和」は何も、2018, 19年の2名の受賞者のみに限定されないだろうことは、地域でバランスを考慮している傾向からも、想像できてしまう。
◯
では、村上春樹の本命度合いが高くないことを確認した上で、誰がノーベル文学賞を受賞するだろうか。
予想することに対して意味などない。
予想が当たったからといって何かがもらえるわけではないし――ブックメーカーの賭けに応じれば別だが――外れたからといって罰があるわけではない。それに、当たろうが当たるまいが、その正否自体が作品の売れ行きを決めるわけでもない。
だからこれは、賞に対してワイワイしているだけの、あまり品の良くないただのゲームである。
ただ、やりたいからやるのだ。
あわよくば、当てて、褒められたいのである。
まず、東アジアから候補を見てみよう。
私は、可能性があるのは以下の人物であると考えている。
・多和田葉子(日本)
・残雪(中国)
多和田葉子は、ドイツに在住し日本語とドイツ語で創作する作家だ。
2019年に、全米図書館賞の翻訳部門を、震災文学の傑作である『献灯使』で受賞している。
世界文学たるためには「フクシマ」を描かねばならない――などというつもりはないが、あの「体験」を、早期に、世界文学たる筆致で描いた(少なくとも、そうとある文学賞で評価された)ことは、特筆に値する。
なお、二ヶ国語で創作する作家が受賞となれば、1969年のサミュエル・ベケット(アイルランド, 英語・仏語で創作)以来となる。
残雪は、中国の女性作家である。
「中国のカフカ」とも形容される彼女の作品は、やはりその不思議さや「分からなさ」が特徴であると言えるだろう。
しかしそれは、明確に分からないとか、不条理な出来事に主人公が翻弄される一種の喜劇性を伴うとかそういうこともなく、ただ淡々と描かれるという空気もまた特徴としている……らしい。読んだことがないため、そう書くことしかできない……。
なお、数年前まで韓国の高銀も候補の筆頭として韓国内で名を挙げられていた。
しかし、2017年に常習的にセクシャル・ハラスメントを行っていたことを女性詩人から告発されるなど批判を集めた。ノーベル文学賞の発表が控えられた理由を鑑みても、彼の受賞は厳しくなったと言わざるを得ない。
続いて、アジアの中でも中東の候補者は以下の通りだ。
・アドニス(シリア)
アドニスはシリアの詩人である。本名をアリ・アフマド・サイード・イスビルと言うが、アドニスの筆名で活動してきた。
彼の特徴は、母語であるアラビア語での創作である。もし彼が受賞すれば、先程も登場した、1988年のナギーブ・マフフーズ(エジプト)以来となる。
「アラビア語文はこの支配的な批評観が示唆するような一枚岩ではなく、多元的で、時に自己矛盾をも含むものである」と述べる彼は、アラビア文学の伝統的な詩のスタイルを破るような、革新的な詩を世に生み出した。
続いて、アフリカの候補者は以下の通りだ。
ジオンゴは、小説、戯曲、批評など様々な「分野」の作品を発表しているケニアの作家である。
彼の特徴は、植民地言語であった英語と決別し、母語であるキクユ語での創作を続けていることだ。これは、先述した「言語の多様性」と対応する。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家も、これまでのキャリアは輝かしい。
しかし、近年の傾向を見るに、受賞者の年齢はおおよそ60代前半や50代後半からそれ以上であり、彼女はまだ「若い」作家であると考え候補からは外した。
ここ数年で彼女に何かノーベル賞が与えられるとするならば、ノーベル平和賞なのではないかと思われる。
最後に、ヨーロッパ圏から作家をリストアップする。
・マリーズ・コンデ(フランス)
ペーター・ハントケは、戦後ドイツ語文学の寵児とも言われた売れっ子である。
また、デビュー当時のマッシュルームカットから、ポップスターとも形容された。
彼の特徴は、小説、戯曲、放送劇など多彩な活動にある。村上春樹が受賞し、ノーベル文学賞候補と取り沙汰されるようになったカフカ賞も2009年に受賞している。
マリーズ・コンデは、カリブ海のフランス領グアドループ出身の女性作家である。
カリブ出身の受賞者となれば、1992年のデレック・ウォルコット(セントルシア)以来となる。
カリブ人念願の「奴隷制廃止記念日」をシラク大統領に制定させるなど「行動する作家」であり、またカリブ、フランス、アフリカといった様々なルーツを持つ彼女*11が著した、西洋文明への違和を表明する作品は、多様性への目配せを促す役割も果たすはずだ。
では最後に、ここに挙げた作家たちから
◎ マリーズ・コンデ
◯ 残雪
▲ アドニス
△ 多和田葉子
残雪は、2012年の受賞者が同じく中国の莫言であるから、避けられるのではないか、と思い順位を下げた。それがなければ、残雪とマリーズ・コンデの位置は入れ替わる。
ちなみに、あるブックメーカーででは1位予想らしいカナダの詩人アン・カーソンは、「地域」の節で述べた理由から外している。
多和田葉子を残雪の位置に入れようかとも迷ったが、上記ブックメーカーの予想で21位らしいし……と日和ってしまった。
村上春樹を徹底的に外したのは、もはや意地である。まあ、好きな作家だ。大好きな作家なのだが、そのくせ受賞予想からは外すのが、なんともひねくれた性格の私らしいではないか*12。
まあ、受賞できずとも、彼が優れた作家であることには変わりがない。
もちろん、他の作家だったそうだ。
ちなみに、上に挙げたペーター・ハントケは、ノーベル文学賞について以下のような苦言を呈している。
まあ、読んだことがないことがバレバレな予想を書いてきた私がコメントできることがすれば、それは「ぐうの音も出ねえ……」である。
*1:厳密には、50年間は候補者が公開されないため、候補者と目されている人。
*2:過去に数度例外はあるが極めて稀であり、また1966年を最後にそのケースはない
*3:これは、たとえば物理学賞や化学賞で、今年はこの分野から、といった傾向があるのとほとんど同じことではないかと考えられる。文学の場合、――これが良い分け方かは別として――地域や言語
が「分野」に当たると見做されているのだろう。
*4:ヨーロッパにも分類されうる
*5:なお、黒人の受賞者には、1993年のトニ・モリソン(アメリカ合衆国)がいる。
*7:彼のアイデンティティの一部として、日本出身という要素がどのような一を占めるにせよ
*8:彼のファン層は、新興国に広がり続けている https://mainichi.jp/articles/20190427/ddm/014/040/011000c
*9:https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171011-OYT8T50010/
*10:カズオ・イシグロの受賞理由である「世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」など、どこか村上を想起させないだろうか。