20代会社員男性、賢者の孫にハマる
ここ最近の私ときたら、『賢者の孫』を見て爆笑している。
これがもう本当に面白くて仕方がない。
『賢者の孫』は、小説投稿サイト「小説家になろう」に掲載され、現在はファミ通文庫から書籍版が刊行されている同名小説を原作としたTVアニメだ。
Wikipediaからで恐縮だが、あらすじを引用しよう。
この世界で名を知らぬ者はいない偉大な賢者マーリンに拾われたシン=ウォルフォードは、前世の記憶を持つ異世界転生者であった。
しかし、人里から離れた地にてマーリンに育てられた結果、シンは規格外の魔法使いにして一般常識と無縁な世間知らずになってしまう。家によく訪れるディスおじさんの勧めもあり、シンは王国アールスハイド高等魔法学院へ通うことになるが、型破りな彼はさまざまな事件に巻き込まれる。
(賢者の孫 - Wikipedia より)
上記の紹介とあらすじから推測できるように、『賢者の孫』はいわゆる「なろう系」のお約束が詰められたような作品である。何ならば、ちょっと嗤われるぐらいの。
私も、最初は正直あまり期待していなかった。
「よく聞くタイトルだし、話題になるぐらいなのだからどういうものなのか全く知らないわけにもいくまい」ぐらいの気持ちだった。
しかし、これがなかなかどうして面白いのである。
「なろう系」といえば、前クールまでやっていた『転生したらスライムだった件』も面白かった。あれには、IQ60的な面白さがあった。
平凡なことを言っているのに「さすがはリムル様!」の大合唱が始まることと言い、元37歳ゼネコン勤務とは思えないほどの交渉術と言い、なかなか楽しませてもらった。
それと比して言うならば、『賢者の孫』にはIQ20的な面白さがある。
今回は、そんな『賢者の孫』の面白さをご紹介したい。
まず第1話アバン。異世界転生のお約束として、主人公は死ぬわけだが、あまりにも流れ作業で死ぬ。
「疲れたなあ……」とかもなく、あっさりと信号無視で横断歩道を渡ろうとして、死ぬ。
ほぼ異世界転生RTA。もはや直前の、車が車線変更するシーンですら面白い。
ちなみに、このアバンつまり希少なサラリーマン時代に、こんなカットがある。
段ボール詰めの本。子供向けの科学の本に関連した会社のようだ。
仕事の多さなら、書類の山を見せればいいだけなのに――なんだか意味深なカットだ。
ここから、主人公が生前は理科好きで、その知識は転生後も継承されて、なんて展開を期待させるが、残念ながら4話時点ではほとんどそんなシーンはない。
さて、かくして主人公は異世界転生する。転移した赤ん坊は、賢者マーリンに拾われ、彼はシン=ウォルフォードとして生きていくことになる。
そんなシンはAパート開始直後、ニワトリとイノシシを魔法でぶっ殺す。
生物に容赦がないので、『賢者の孫』は実質ジョジョ。
「ぶッ殺す」って心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!
この直後、シンのモノローグで、幼少期から彼が前世の記憶を持っていることが明かされる。
しかしその記憶が物語に関わることは、前述のとおり、ほとんどない。
マジでファンタジーの影響で呪文の詠唱を恥じらうところぐらい。なんのための前世だよ。
ちなみに、シンくんのチートっぷりはこの1話Aパート時点から絶好調だ。
さすがシン! 俺達に出来ないことを平然とやってのけるッ そこに――いや、やめておこうか、これは。
そんなシンにも「ツッコミポイント」がある。
『転スラ』で、転生したらなんと雑魚モンスタのスライムで、なのに何故かチート級、というメタ的笑いがあったように。
『賢者の孫』でそれにあたるのは、マーリンが魔法を教え、偶然にも*1シンの素養が素晴らしかったことも相まって、シンは超絶スーパーめちゃつよ魔法使いになるのだが、マーリンはシンに常識を教えるのを忘れていた、ということだ。
この非常識さが、あの有名な「またオレなにかやっちゃいました?」につながる。
つまり自身の実力を、物差しのなさ故に過小評価して「やりすぎ」てしまい、周囲から賞賛を集めてしまうという構造が「非常識さ」に支えられているのだ。
しかし何よりも注目したいのは、マーリンが「常識教えるの忘れとった」と言った際のその場にいた人たちの反応である。
この「うっかり発言」を受け、その場にいた数名は「はぁぁああああ!?」と声を上げるのだが、その声の大きさと衝撃の度合いがが、家から出る集中線で表現される。
今日び、こんな演出見かけない。
このアニメの特徴に、上記のやたら古典的なシーンなど、ところどころに挟まれるおかしな演出やセリフが挙げられる*2。
たとえばOPで毎度流れる、奥手なヒロインが主人公を前にドギマギする様子を木陰から見ていた親友キャラが、「やれやれ」と両手を広げて顔芸をするシーンも今日び見ない。
もはや懐かしさすら憶えない。ほとんどドリフ。歴史*3。
そんな演出的なおかしみは、1話にて、魔法学校入学に向けシンらが王都に向かうシーンでもいかんなく発揮される。
王都の入り口で、身分書を確認した憲兵は、「け、賢者マーリン殿と、導師メリダ殿でありますか!?」と叫ぶ。
そして、この有名人を一目見ようと王都中から人が駆けてくる。
その様子がこちらなのだが、いや遠くからやってきすぎだろ、地獄耳かよお前ら。
そして集団の描き方は極めて雑。OK SILVER LINK!それでいい!その描き方がいい!
てか、それだけ有名人で王国の英雄なら身分証見せるまでもなく顔パスであれよ。
ちなみに1話はこの後、街に出たシンがモブの暴漢に絡まれているヒロインを助けるお約束の展開が待ち受けている。
テンプレなモブは非常に元気があってよろしい。モブはこうでなければ。
そしてヒロインはおっぱいが超デカい。これが「いい」んじゃあないか!
そして最後にオープニングが流れる。
長い長い20分だった。ウォーミングアップも完了し、温まった私たち視聴者はなにを見ても面白く感じる。
もうこのサビが元気すぎるi☆Risの曲すら面白く感じられるし、歌詞のテロップが表示されているだけで腹を抱えて笑える。ありがとう、avex!
そして、私たちは、『賢者の孫』の虜になっている。
わかったよ『賢者の孫』!!『賢者の孫』のミリキが!「言葉」ではなく「心」で理解できた!
そういうわけだ。
この作品のタイトルは『賢者の孫』は、すなわちシン=ウォルフォードその人を指している。
しかし、シンはマーリンに拾われた身であり血縁関係はない。養子という言葉はあれど、養孫という言葉はない。つまりシンはそもそも孫じゃない。よしんば実はシンの父親がマーリンの息子であったとしても、たぶんアニメはそこまで行かない。
そして、何よりこのマーリン、今のところまったく賢者じゃない。
賢者も孫もいないのに、『賢者の孫』とはこれ如何に……。まあ『ジョジョ』もだんだん主人公が「ジョジョ」って呼ばれなくなっているし、似たようなものか……?
「賢者の孫」ことシン=ウォルフォードくんは、その力ゆえにまっとうに生きられるわけがなく、アニメでもさっそく様々なトラブルに巻き込まれつつ頑張っている。
3話では同級生のカートが魔人化したので、首を落としてぶっ殺している。
「こうするしかなかったのかな……」と無力感を噛みしめるセリフはあれど、直後、王都の兵士たちは「新しい英雄!」と騒ぎ立てる。
これが本人と周囲の温度差の演出につながればいいが、シンもずっこけてるし、4話アバンでは、極めて冷静に当時のことを振り返っている。わりとサイコ。
そして、3話では、カート殺害直後、「初めて人を……」と、少々驚き、かつ怯えているようなシーンがあったのに、4話終盤では人をソーラービームで焼き殺そうとしている。わりとサイコ。
ちなみにソーラービームを撃ったあとで、「太陽の光は」云々と一瞬言っているが、もう児童向け科学本のくだりとかたぶん誰も憶えていない。
規格外の強さを持ち、加減を知らず、時にサイコなシン=ウォルフォード。
しかし、よくよく考えれば、非常識というイノセンスを持つ彼は、常識という偏見の総体*4から自由な「天使」 なのかもしれない。
そして彼は、我々に、呪文の詠唱=言葉よりもイメージを大事にし、自由に振る舞うことが大事であると教えてくださっているのだ。
天使であるとすれば、時にソーラービームを撃っても何ら不思議じゃない。
知らんけど。
というわけで、今回はここまで『賢者の孫』の魅力を紹介してきた。
「褒めそやす」「小馬鹿にもする」――「両方」やらなくっちゃあいけないってのが「こういう記事」のつらいところだ。
いかがだっただろうか。
この記事を通じて私がつまるところ何を言いたかったのかというと、『ジョジョの奇妙な冒険』は最高ってことです。
チョコラータ&セッコ戦を見ましょう。
それでは、今日はこのあたりで。アリーヴェデルチ!
*1:実際にはまったくの偶然ではなく、異世界転生者ならではの理由がある必然なのだろうが、アニメでは4話時点で何も説明されていない。
*2:記事中に挟む余裕が無いため脚注で触れるが、例えば国王は王太子だった学生時代に、国が決めた学徒動員に志願し魔人討伐隊に加わったらしいのだが、この世界観で「学徒動員」と言われると思わず笑ってしまう。
*3:その意味では、『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』も面白い。今日び「おやびん」なんてセリフ、あのアニメでしか聞くことが出来ない。
*4:「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」アルベルト・アインシュタイン)
『あみこ』感想: レモンスカッシュパンチ
映画『あみこ』を観た。ようやく観た。
『寝ても覚めても』『あみこ』『ペンギン・ハイウェイ』が観たいです。
— めんち (@ifyankee) 2018年9月2日
仕事の都合などもあり足を運べず、5ヶ月越しの対面と相成った。
そもそも私が映画館に足を運ぶのも10月初旬以来のことであった。
久々すぎて、途中で飽きたらどうしようかと不安だったが、それは杞憂だった。
というわけで感想である。いつものごとくネタバレを含む。
映画は、あみこ(春原愛良)が教室の窓辺からグラウンドを見つめるシーンでスタートする。
「2月3日、アオミくんがいない」
私が『あみこ』を観た日もちょうど2月3日だった。
そんなものはただの偶然でしかないのだが、ああ最高だな、と思った。
スクリーンでは、あみこが頭を抱えて崩れ落ち、近くにあった机が倒れる。
話はそれから時間を遡り、あみことアオミくんの「出会い」が描かれる。
とはいっても、互いに実は顔と名前ぐらいは知っている。
けれど、こうして話すのは初めて、みたいな距離感。
そのあとの会話で、あみこはアオミくんに惚れてしまう。
「意味ないって言ったら、この世の中なにもかも意味ないでしょ。全部どうでもいいよ。(……)普通の奴らは今こんなことに気づかないで、高校生活を送るでしょ。それで大人になって、ああ、あの頃はよかったって語られるのが今だよ。でも、今からそんなふうじゃずっと苦しいね。だからさ、もう意味とか考えずに最強になればいいと思うんだよね」
ニヒリストなあみことアオミくん。
しかし、あみこは、それ以降アオミくんと話さない。
TSUTAYAでストーキングしたりするけれど話さない。
そしてアオミくんは、「大学に行ってブスになった」瑞樹先輩(長谷川愛悠)と付き合い始め、そのまま東京の彼女の家で同棲を始めてしまう。
あみこは、500玉貯金を友人の奏子(峯尾麻衣子)にちょっと色を付けて1万円札2枚に両替してもらい、 長野から東京に旅に出る。
物語は前半パートの長野編と後半の東京編に大きく二分されている。
この映画で最も印象に残っているセリフは、東京編のあのセリフである。
あみこは立教大学から出てくる瑞樹を見かけストーキングし、紆余曲折を経て彼女のアパートを突き止める。
そして翌朝、彼女が家を出た隙に部屋へ忍び込み、寝ているアオミくんに馬乗りになって(!)、アオミくんの顔を殴って(!!)起こし、会話をする。
そんなシーンで出てくる、こんなセリフ。
「あんな女、大衆文化じゃん!」
多くの人が言及する、分かりやすい「パワーワード」だ。
それをありがたそうに取り上げる感想はあまりに月並みだろう。
それにこの感情自体、フィクションの中では珍しいものじゃない。
あんな凡庸なやつ、なんであんな奴――対して私は、特別で、理解者になれて、エトセトラ。いくらでも、この感情を言語化する言葉は思いつく。
それでも、ここまでそれを印象深くし、かつ端的に表すワードをここに当てはめられた山中瑤子監督がひたすらに素晴らしいと、これを聴いた瞬間、思った。
あみこは、自分たちは「特別」なんだと、どこかで思っていたんだろう。
その「特別さ」は、「真実」が見えてしまうということ。
ニヒリスティックな目で、世界を捉えてしまうということ。
これは、ストーリー紹介の次のような文章に顕れている*1。
「人生頑張って仕方がない。どこへ行こうが意味はない、どうせ全員死ぬんだから。」―そんなあみこが恋に落ちたのは同じく超ニヒリストながらサッカー部の人気者でもあるアオミくん。一生忘れられない魂の時間を共有したふたりは、愛だの恋だのつまらない概念を超越した完全運命共同体、現代日本のボニー&クライド、シド&ナンシーになるはずだったが…。
この前提があるから、「私、自分は長野市で一番可哀想な女の子だと思ってた。長野県全体だと8番目くらいで、北信越大会行けちゃうレベル」みたいなセリフがとても映える。
東京編に入って以降とくにフィルムは素晴らしいな、と思えるんだけれども、あみこの目から観たときに大きく変わってしまったアオミくんと、瑞樹の部屋で相対するシーンのあみこのセリフはとりわけ全部素晴らしい。
しかしこのままでは、あみこがどこにでもいる可哀想な、「特別」だと思ってる凡庸な女の子で、これはどこにでもある凡庸な話だった、という結論に至ってしまう。
もちろん、そうではない。
では、あみこと凡庸を分かつものは何なのだろうか。
ひとつたしかにあるのは「爆発」である。
あみこがレモンを齧るシーケンスを思い出そう。
山中はインタビューでこう述べている*2。
あのレモンはまさしく丸善で爆発するはずだった爆弾と重ねられているのだ。
風呂であみこがレモンを齧るシーンでは、レモンにしゃぶりつく音が、アオミくんが瑞樹とフレンチ・キスをする際のリップノイズと重ねられる。二人はそのままベッドに倒れ込む。
だからレモンを齧るシーンと性を結びつけることは簡単だ*3。
しかしだからこそ見逃されがちなことがある。それは、あみこが湯を張った風呂で、裸になって、体を丸めていたことだ。これは羊水に浮かぶ胎児のメタファーたりえる。
つまりあのシーンで、あみこは二人のセックスによって妊娠され=胎児となって、その後、再誕したのだ。
キスについて、上に引いたインタビューで山中はこう述べている。
[引用者注: 気になる監督を訊かれ濱口竜介を挙げて]『PASSION』で急に風呂場でキスするところあるじゃないですか、ぞくぞくしちゃって。あの感覚が好きなんだと思うんです。これは『あみこ』のテーマのことなんですけど。だんだん年取っていくと、なにごともルーティン化しちゃって、新鮮さが薄れていくじゃないですか。
セックスにおける「新鮮さ」の喪失と「ルーティン化」については、舞城王太郎『淵の王』の中で次のように表現されている。
さおりちゃんは東京の大学を受ける。受かる。東京の調布市に住む。同じく東京の日本橋に住み始めた三奈想くんとも付き合い続けてるし、二度目のセックスもする。三度目も、四度目も。もちろんそんなの数えるのバカらしくなる。
セックスは、なるほどルーティン化する。もちろん、キスも。
だから、アオミくんと瑞樹も、あのまま付き合い続けていたら、マンネリ化し、そういったことに飽きたのかもしれないし、実はすでに飽きていたのかもしれない。
しかし胎児あるいは乳児たるあみこは、機関車みたいに、次々とレモンを音を立てて齧る。そのさまは、母乳を吸う赤子に似ている。
この純朴な必死さが、嘘を生きるられること、それをある種ルーティンとして引き受けていることを良しとしない。嘘の反対には真実がある。真実とは、まさにあみことアオミくんとの間に存在した、あの「魂の時間」である。
嘘を良しとしないならば、あみこの向かう先は東京の、瑞樹の部屋にいるアオミくんのもとしかない。
しかし、あみこが旅路の果てに出会ったのは、ニヒリスティックで真実を目に映す魅力的だった特別なアオミくんではなく、ヒモ同然の面白くもないアオミくんだった。
そして、名台詞が頻出するあの場面に至る――。
梶井基次郎『檸檬』における「檸檬」は、「疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さ」であると思えるようなものであった。
しかしその感覚は当然「思いあがった諧謔心から」考えてしまった「馬鹿げたこと」であるとは自覚の上である。
レモンというシミリと性と羊水のメタファーが演出した再誕も、所詮は、あみこを行動に向かわせるための虚偽でしかない。
だからあみこがアオミくんを殴るときも、実際的な力を「爆発」させるわけではない。
それは、指に「P×U×R×E」つまり純粋PUREの文字を書くことでなんとかつなぎとめられる純粋さであり、画面のこちら側に指の背を見せつけるような「おともだちパンチ」*4程度の力しかない。
すべては無意味だったのだろうか。
あみこが東京に出かけた、という事実は残る。
機関車みたいな「爆発」的行動を見せた、という事実は残る。
ほとんどすべてのことが無意味だったのだとしても、機関車的な、「無敵」の可能性を残していると期待することが許される限り、ニヒリズムに回収されない領土が存在すると信じられる。
それはきっと、とても青臭い、数少ない希望だ。
*1:Amiko.Official より
*2:山中瑶子インタビュー(『あみこ』):連載「新時代の映像作家たち」 – ecrit-o より
このアニメが(個人的に)見たい2018!
12/28。金曜日。
仕事納めだったという方も多いのではないだろうか。
私はちょうど有給を取ったので仕事納めは27日だった。同様に、連休を伸ばそうと何らか足掻いた方もいらっしゃるかもしれない。まあいずれにせよ年末年始の休暇に入ったばかりといった具合であろう。
今年は日と曜日の噛みあわせが良く、大型連休となっている人も多いと聞く。
しかし、Amazon Primeに入ったことを書いた記事でも紹介したが、NETFLIXの広告にあるように「実家は意外とやることない」のである。それでも多くの人は実家に帰ることになるんだろうし、私もそうなる予定である。面倒くさいな、マジで。
「実家は意外とやることない」はずなのに、なんだか親戚の家への移動だとか、諸々で案外と時間が取れないぞ、なんて未来は何となく見える。
それこそ、誰かのフォローばかりをしていたら定時がやってきて自分の仕事は何一つできていないことに気づいた平日みたいに。
だから「どうせ暇だろ」なんて書くのは自分の首を絞めることにもなりそうだが、あえてやってみたいのである。「このアニメが見たい」ってやつを。
「このミステリがすごい」
「このマンガがすごい」
「すごい」は耳馴染みがあるけれど「見たい」なのはこれ如何に?
問いかけ形式にしてみたが、別に何か壮大なカラクリがあるわけじゃない。
凄い、と言うとハードル上がりそうだから、この冬はこのアニメが見たいなあって思っているんだなあ、って書きたいな、というだけである。
上に引いた記事と同様に、現在つまり2018/12/29時点でAmazon Prime上で、Prime特典として見られるアニメ作品を対象とする。
■あそびあそばせ(2018, 全12話)
2018年夏クールアニメにて、顔芸で話題をかっさらっていたらしい一作。
よくある日常系アニメなんだろ(ハナボジー
って感じで見送っていたのだが、せっかくあるなら見たい一作。
大学時代の知り合いとリプライでやり取りする際によく使われる、あのワンシーンが見たい!
――なんて呆れるぐらいに不純な動機なんだ………
■たまこラブストーリー(2014, 映画)
この作品のTVシリーズである『たまこマーケット』は見ていたのだが、結局未視聴のままになってしまっていた劇場版。
こちらの評判はすこぶる良いし、『聲の形』も『リズと青い鳥』も面白く観たのだが、いかんせん上記TVシリーズの印象が強すぎて……
モチマッズイなんかいらんかったんや……
そういえば、EDの「ねぐせ」はやたら好きだったな。
■ゆるキャン△(2018, 全12話)
今年の初め、みなさんゆるキャンって言ってましたよね。
イロハを知らないオタクが冬のキャンプを試みて凍死するんじゃないか、とか言われてましたよね。
ゆるキャンのオタクのみなさん、生きていますか?
私は、その波に乗り遅れたので、このアニメを観ておきたいです。同僚と登山することもあるので。このあいだ、クソなめた格好で登山して、死ぬかと思いました。これを機に勉強しようと思います。
ところでゆるキャン△ってなんですか? 本田△みたいなもんですか? というか、これ、もう通じないやつですか?
こうしてアニメを3作リストアップして、日常系、観ないんだなあ、と気づいた。
そして、Amazon Primeにアニメが意外と少ないように思えてきた。関連作品がどの作品を見てもたいてい同じだし。
やっぱりNETFLIXの奴隷になるしかないんだろうか。
そして、日常系って、日々に疲れているときに息抜きで観るのが至高なんであって、年末年始にガッツリ観るには向いてないよな、なんて。
「シャロちゃ~ん」「はゎゎ~~~♡」「ふみゅ~~~ん>△<」
頭おかしなるわ。
結局、何もせず、時々、昔見たアニメを見直したりしていそうだ。
このあいだの三連休に『Steins;Gate』を完走したように。
『宇宙よりも遠い場所』(よりもい)とか、『SHIROBAKO』とか観ていそう。なんなら、「よりもい」ならさっき1話見直したし、なんなら既に軽く泣いた。もはやパブロフの犬。
ちなみに過去記事との関連で言うと、
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』が2シーズンとも配信対象になっている。
一色いろはを愛でるには「続」を観るといろいろ捗る。
一部有料化の騒動もあったが、『SSSS.GRIDMAN』もPrime特典で観られる。
宝多六花さんをすこれ。
『ダーリン・イン・ザ・フランキス 』も配信対象だ。
イチゴのポンコツぶりや、ヒロとゼロツーの、聞いているこちらが恥ずかしくなるような愛のぶつけ合いを堪能できる。
上村くんの良質なポエムを聴けるのは……いや、上村くん、いつもポエム読んでたわ。
まあ、そんな感じ。
現場からは以上です。
時期的に今年最後の更新になりそうだけど、こんなゆるっと終わってよいのかしら……
気づいたらAmazon Prime会員になっていたので、せっかくだからPrimeで見れる邦画を書く
Amazon Prime会員になると、様々な恩恵を受けられることは風のうわさで聞いていた。
なんでも、送料とか時間指定便が無料になるとか。
そして、Prime Videoが使えるようになるとか。
私には元々、Amazonで買い物をする習慣がなかった。
買いたいものもなかったし*1、宅配便が来るのもなんだか苦手で*2、利用する動機が薄かった。
しかし、通勤用のリュックサックを安価に購入して以降、徐々に使う機会が増えた。そしてあるとき、たぶんタップ間違いをして、気づいたらPrime会員になってしまった。
間違えたなら、無料体験期間中に解約すればいい。それでも、どうせ年額3,900円だし、と思ってそのままにしていた。
そのうち、お急ぎ便や時間指定便が便利だなと思うに至り、以前よりむしろAmazonを使うようになった。
ただしそんな始まり方だからか、存分にその恩恵は受けつつも、なんだか自分がPrime会員であるという意識は薄く、Prime Videoなど他の特典を使っては来なかった。
転機は先日の、M-1グランプリの記事を書いたことだった。
ツイッターのフォロワーさんが、Prime VideoでM-1の映像を見ている、とつぶやいていた。
それを受けて、記事を書くにあたって、過去の映像も少し参照しようかと思い、いよいよPrime Videoのアプリをダンロードしたのだった。
NETFLIXやAmazon Prime Video。
始めると湯水のように時間を使い、無限に余暇の時間が溶けていくと思っていた。
実際、始めたばかりの頃は、いろいろ見れるじゃないか! と、眺めていた。
しかし、それがかえって仇となった。
コンテンツが多すぎて、どうすればいいか途方に暮れてしまうのだ。
見たことがない作品を見ようにも、そもそも現在放映中の録画すら消化しきれない日々である。
これ以上増やすのか、と思うとどうにも気後れがして、再生ボタンを押せない。
するともう、いつ見るのをやめても問題ないしな、と言い訳できる、既に見たことがあるものしか再生できなくて、なんだか虚しい。
同じ作品をレンタルし続けてTSUTAYAやGEOに金を吸われるのも阿呆らしいし、むしろこれこそが正しい使い方のような気もする。しかし、新しく使い始めたはずなのに、新しい出会いを避けてしまっている、という矛盾した感覚もある。
最近は、内容をほとんど忘れてしまっている『STEINS;GATE』をテキトーに見ている。
ああ、俺だ。機関から送り込まれたエージェントの色仕掛けを受けているッ! ……ああ、分かっている……作戦実行に抜かりはない……エル・プサイ・コングルゥ……
あとはちょっと憂うつな感じがわりと続いていて、録りためた番組も再生できていない。これも、もしかしたら再生ボタン押せない問題に関連しているのかもしれない。
この話を知人にしたら、「それは鬱だよ」って即答された。まじかよ。
まあこれは「退職エントリー書きたい日記」の領分だ。今触れても仕方ない。
さて、私は洋画の知識が少ないわけだが、私でも知っているような、古典と呼ばれるような著名な作品は、版権の問題だろうか。あまり配信対象になっていない。
まあ、これは邦画も同様なのだが。
洋画も邦画も、タイトルは聞いたことがある、という近年の作品ばかりになっている。
そのほかの作品をみようにも、私の知識に基づき検索した結果からレコメンドされるばかりなので、なんとなく知っている作品か、最近追加されたばかりの作品ばかりが目につく。
実際、最近追加されたらしい『ミックス』のポスターの、新垣結衣と瑛太の主張が少々うるさい。
もう年の瀬も近い。ぼんやりしていると、そのあいだに年が明けそうな具合である。
年末年始をどう過ごすことになるのかは人によるだろう。そりゃそうだ。
サービス業が増えている昨今、多くの方は冬休みですね! なんて言うと刺されそうで怖いけれど、まあ多くの方が冬休みを迎えると想定して話を進める。
山手線内のNETFLIX広告の本気感がすごい。
— DARS(須田 幸平) (@dars8612) December 17, 2018
この広告のターゲットにならない人間の方が恐らく世に少ないのに、刺りそうな内容。 pic.twitter.com/s87ZSeLXBN
NETFLIXの広告が話題になっていたが、これはまさしく真理である。
であるからして、こういう時期には「暇つぶしにおすすめ!」なんてものを紹介したり、されたりしておくと意外とはかどる*3。
上述の内容からして不安感たっぷりかもしれないが、このままでは「暇なようで暇なじゃないようで、う~ん、どうにも憂鬱で、しんどいにゃ~」と書いただけの冗漫な記事となってしまうので、私の「おすすめ」を書いて締めたいと思う。
まあ、以前のこの記事と似たようなものだ。
ちなみに今回の対象は、2018/12/22時点で、Amazon Prime上で無料(基本料のみ)で見られる実写邦画とする。
書籍やアニメは他でもやるかもしれないが、今回はこれに絞る。洋画を含めないのは、上述の内容ゆえである。
こうしておけば、なんだか12月の記事っぽくなっていい感じオチがつく。
■葛城事件(2016)
劇作家・演出家でもある赤堀雅秋が、自身の主宰する劇団で上演した作品を映画化したもの。
家族に対して高圧的に振る舞う男と、逆らえない妻。その子供の二人兄弟。家族は元よりバラバラで、その後の展開も胸がすくようなものじゃない。ひたすらに不快。特につらいのは、誰も悪くないというか、悪いんだけど、じゃあどこが悪かったという契機がなく、ただ「悪い」が積み重なっていて、どうしようもない、みたいな。だからカタルシスなんて無い。
けれど、笑えるのである。ブラックコメディ、トラジコメディなのである。「あまりにも」なシーンだとか、本人はたぶん必死だし悪気もないんだけどだからこそ異常みたいなシーンとか。まあ、見たらたぶん分かる。
■舟を編む(2013)
『葛城事件』とは打って変わって分かりやすく楽しめるエンタメである。三浦しをんの同名の小説が原作なのだが、そのエッセンスを無理なくまとめ上げており、ストーリーにもメリハリがあって良い。
何より、松田龍平の、コミュニケーションができなさそう見せながら不快感を覚えさせないバランス感覚は見事だし、周りを巻き込み辞書作りという仕事を前進させていく姿もよくハマっている。だから私たちも、辞書作りに感情移入でき、映画を楽しめる。大仕事である。
■バクマン。(2015)
わりと有名なジャンプ漫画の実写化。実写化作品への批判は多いが、これは比較的うまくいったんじゃないかと思う。
大根仁の魅力は、頭を空っぽにして見れることだ。そのぶんわ描写は全体的に、イメージ的で切っちゃになる。特にそれが露骨なのは女性の描き方なのだが、本作は原作にいた小豆以外の女性キャラを描かないという描き方をしている。これに賛否はあるだろうが、尺の都合もあるし、変に墓穴を掘らないし、大胆なる得策だったんじゃないかと個人的には考えている。
また、脇役のキャスティングも妙である。山田孝之の存在感は素晴らしいし、リリーフランキーはやはり上手い。サイコーの叔父がクドカンなのなんて、程よい胡散臭さで、ベリーグッドである。
記事も長くなってきたので、このくらいで。
この冬は『人のセックスを笑うな』あたりを見たいが、また有言不実行なんだろうな。あーあ。
社畜クズ野郎は積読消化の夢を見ない
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』を第一作とする「青春ブタ野郎」シリーズのアニメが放送中だが、これがなかなかに面白い。
この作品について、いろいろと「よくできている」ポイントを列挙するのは簡単なのだが、個人的にとても気になるのは、作品の舞台が藤沢近辺であることだ。
私は昔、あの近辺に住んでいたことがある。
正直、観光地化した都市である秋葉原がいくらアニメに映ろうと特に何とも思わないのだが、藤沢では少し驚いてしまう。
「青春ブタ野郎」シリーズの著者である鴨志田一が脚本を担当したアニメ『Just Because!』でも舞台は藤沢~大船といった湘南地方が使われていた。
これで驚かされるのが、あくまで彼らの生活の場として描かれる以上、湘南といっても江ノ島とかではなく普通に市街地や藤沢駅なのである。つまり先述の秋葉原とはわけが違う。
地方出身の私は、馴染みのある場所が映るたびに、ソワソワする。
藤沢駅前OPAのTULLY'S COFFEEや駅前のVELOCE等。
いろいろと「懐かしいなあ」などと感じてしまう場所は多いのだが、もっともソワソワするのは藤沢駅北口ビックカメラの7,8階に入っているジュンク堂藤沢店である。
読書は私の数少ない趣味の一つだ。
だから、ジュンク堂には電車に乗って足繁く通った。あの店のことはよく憶えている。
赤本コーナーの近くには漫画の棚が数列並び、ラノベ棚もあることとか、その反対側に文芸書や文庫本コーナーがあることとか、そういうことを今でも思い出し、諳んじることができる。我ながらキモい。
当時から、本を読むペースに対して買うペースが勝りがちな悪癖はあった。
1冊読み終えて2冊買う、みたいな。我ながら阿呆なことをしているなあ、とか思っていた。
それから数年経った今の私の悪癖は、当時よりずっと進行している。
いや、おそらく10月、11月と仕事が忙しかったのが悪い。
ならばこそ、こんなエントリーを書くことになったのだし。まあ、反省なんざこれっぽちもしていないが。
「退職エントリーを書きたい日記」の「その2」の投稿はもう少し先になりそうだが、まあそれは主眼でないのでどうでもいい。
問題は、私にはどうも、忙しくなると浪費が増える傾向があるらしい、ということだ。
仕事が忙しいと残業が増える。そうでなくとも忙しい、または忙しい気分だと、なんだか人と会ったりとかそういうことが後回しになってしまう。
すると、忙しい原因となっている出来事で人と会っているのに、なんか誰とも会っていなくて社会から疎外されているような気分がしてきてしまう。
そして、浪費をする=金銭を払う=市場に接することで「社会とつながっている」感じをインスタントに得ようとしてしまう――と、まあ、多分こんなセオリーだと思われる。
とは言い条、先述の通り、私の趣味は多くなく、よって浪費の対象も絞られる。
服も買わない――実際には買わないといけないのだが、まあそれは別の機会で追々書こう――し、酒も飲まない、タバコも吸わない。「ないない」尽くしのゆとり世代の文化系クソオタクは、けっきょく書籍に行き着いてしまった*1。
そして買っても読む余裕がないから、ずっと積読ばかりが溜まっていく。どうせなら金が貯まればいいのに*2。
散々、忙しいと書いてきたが、最近はむしろ仕事がなくて困っている。
それでも閑散期なわけではなく、仕事はあるはずなのに手を出せるものがないので、心ばかりが忙しくてたまらない。
まあ、それでも、時間的には余裕が少しだけ出てきた。
昨日は津村記久子『この世にたやすい仕事はない』(新潮文庫)を読み終えた。面白かった。
だから今日は3冊新しい本を買った。いや、おかしいだろ。馬鹿かよ。
これでは、転職に向けてスキルを培うぜ! なんてのも夢のまた夢である。
いっそ昔みたいに、藤沢近辺まで出かけてみるのはどうだろうか。
可も不可もないインドカレー屋で尋常でない量のナンを「おかわり」として問答無用で追加される、または家系ラーメンの店でまぜそばと炙りチャーシュー丼で腹を満たし、腹ごなしにコーヒーを飲みながら本を読むのだ。
しかし、それをするにもちょっと距離がありすぎる。
上述のOPA2階のTULLY'S COFFEEで内定辞退の書面を書いたのも、「青春ブタ野郎」シリーズの登場人物みたいに自分が高校生だったのも、それぞれずいぶん過去のように思える。
だのに、同じことを繰り返すどころか悪化させていて、なんなんだろう、と思う。
ブタ野郎だね! なんて声も、テレビの画面からしか聞こえない。
どうしたもんかねえ、と独り言ちたくなるけれど、
寝る前、布団に潜ってからの読書は存外に捗って、それはそれで困る。
アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』の冒頭に引かれた、モリス・ブランショの言葉を思い出す。
夜、熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。
彼らはなにをするのか。夜を現存させているのだ。
彼の言葉の主意には反するかもしれないが、私はきっと夜を現存させていれば、明日の朝が来ることを遅延させられると、どこかで願っているのだ。
この年齢の人間が持つにはあまりにもロマンチシズムがすぎる夢想である。
- 作者: アントニオタブッキ,Antonio Tabucchi,須賀敦子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1993/10/01
- メディア: 新書
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遠い過去や遠い国。
そんなものに思いを馳せながら、今日もまた布団に潜ってちょっとだけ本を読むのだろう。
今日は何を読もうか。考えているときが一番楽しい。
兎角、そんなわけで、積読が溜まる一方だ、というだけの、実にくだらないお話。
このペースでは、一向に、終わらない。
M-1グランプリ2018感想
去る12/2(日)に開催・放映されたM-1グランプリ決勝戦の感想を書こうと思う。
本当なら月曜日か火曜日あたりに書き上げて投稿したかったのだが、仕事の多忙を理由に怠けてしまった。
おかげでその間に、ある人たちの方ばかりが注目を浴びてしまい、どうやら優勝者よりそちらの名を聞く機会の方が多くなってしまった。前回にも増して上沼恵美子への不満をネット上で呟く視聴者が多かったけれど、ただ巻き込まれただけとはいえ結果的には出場者よりも彼女のほうが話題を集めてしまった。
まあこれについても、余裕があれば触れる。まずは兎角、「ネタ」である。
審査員:上沼恵美子、松本人志、富澤たけし、立川志らく、塙宣之、中川礼二、オール巨人
■審査員紹介
あまりここで話すべきこともないのだが、今回は立川志らく、塙宣之(ナイツ)が初の審査員に。
志らくは、師であり立川流の「家元」立川談志が1組に50点をつけるなどしたことを引き合いに出し、「普通の審査をしようと思っています」が「談志が降りてきています」とコメントした。これは、彼が談志から生前、「最も俺に似ている」と言われていたことや、今もリフォーム後の談志宅に住んでいることから考えた冗談の類だったのだろうが、その文脈を知らなければあまり面白くなく、また困ったことに、あまり知られているようなの事柄でもない。
この志らくの小スベりを塙が「内海桂子師匠が降りてきている」と引用し笑いに変えていたのは良かった。
■敗者復活戦結果発表
プラス・マイナスとミキの一騎打ちと相成ったわけだが、プラス・マイナスに陣内が話を振った際に、オール巨人の物真似をしなかったことに関して、「物真似せえ。何しとんねん。あいつ」と少し「しょうがないなあ」という感じで笑いながら言うオール巨人は、その後の本戦でのコメントにも滲み出ていたあの感じがして、今にして思うとそれもまた良かった。
上沼恵美子激推しのミキが視聴者投票の結果大差で勝利し敗者復活。
敗者復活戦の感想も書きたいが、マユリカまで見たところで寝落ちしたので書けない。
○
■見取り図 606点
結婚を意識してお付き合いしたい、というテーマといい、全体的にオーソドックスなスタイルとなっていた。またその中で話題がわりと移り変わるため、4分間のネタとしてのドライブ感というか迫力が薄くなってしまっていた。密度も。
富澤の評にもあったように、「ジャンボ勾玉」など面白いフレーズが幾つかあり、かつツッコミの盛山の声がハイトーンで特徴的なので、このツッコミがハマればもっと爆発し得ただろうし、実在しない人物をあたかもいる感じで流していたというネタは実際すごくウケていた。惜しかったな、と思ってしまった。
なお1組目だからか審査員全員にコメントが振られたが、この際の志らくの「最初は目新しさもないし50点付けようかと思った」という発言や、全体的にアドバイス然としたコメントから、真面目に品評をする空気が生まれてしまった。無論、審査員はいつも真面目にするのだが、それが客席にまでやや伝播したのが、少し痛かった。
■スーパーマラドーナ 617点
隣人が温厚な顔をした怖い人いわゆるサイコキラーだったら怖いよね、という話からコントに入るネタ。武智が「怖い人」をするのだが、M-1決勝の常連である彼らのネタの傾向を踏まえれば、それはつまり田中がよりヤバいやつをするという宣言でもある。
実際、ドアを勢いよく閉めてドアを何個も閉める導入部分は完璧。次に田中は何をして武智を怖がらせるのだろう? とワクワクさせられた。しかし、包丁で少し刺したり、謎のギャグを披露したりと「狂人」っぷりを田中が披露しても、いつもよりキレが悪く映ったのは何故だろう?
思うに、武智の「怖い人」っぷりがステレオタイプすぎたのではないか。もちろん、それは田中の「よりヤバい」感じを強調するためなのだろうが、これがネタ全体に重さをもたらしてしまっていたような気がする。田中が1人で状況を再現し武智が横からツッコミを入れるスタイルも決まっていたように、田中の演技力は磨かれているのだが、今回の武智のサイコキラー演技がなかなか本人にハマっていなかったのが痛かった。
それでもこれが、田中の魅力を一番出せると思い選択したネタだったのだろうし、武智も「今年一番のネタでした」と言い切ったのはちょっとだけかっこよかった。まあ、そのあとでアレなことになるのだが。NON STYLE井上の当て逃げ事故に同乗していたりと、武智は何かと脇が甘い。
■かまいたち 636点
タイムマシンで過去に戻れたら。このありがちな仮定に、あの娘に告白したい、とありがちな夢想をする濱家と、ポイントカードを作りたい、と言う山内。当然、山内の方がズレれいるとして話が進むのだが、次第に山内の論理性が勝ってきて、揚げ足を取ってでも自身の正当性を確保しようと濱家が自滅していき、ボケとツッコミが入れ替わっていく――このダイナミズムが会話っぽくて面白かった。つまり、ただマイクの前で喋っていただけの筈なのに面白くなっている、というような。キングオブコントチャンピオンなのにしゃべくり漫才で勝負しているのも、なんだかこう熱くさせる。
何が悪かったんだろう? と思うが、やはり後半がやや聞き取りづらくて、クエスチョンマークが頭に浮かんでしまい、やや引いてしまったのが原因なのかもしれない。だからか、漫才としてはヒートアップし勢いもどんどん増しているはずなのに、少し勢いがなくなったように感じた。
■ジャルジャル 648点
小学校の頃やっていた遊びを懐かしむなかで、福徳が「国名分けっこ」という聞き慣れないゲームの名前を口にし、実践してみるところから始まる漫才。前年の「ピンポンパンゲーム」と同類の、半ばリズムネタ化したネタである。
今作は、前作ほど後藤が盛り上がらないので、福徳の言う「国名分けっこ」に翻弄される後藤という関係性が明確になっており、これが漫才として分かりやすくてよかった。後藤がずっと怪訝そうな顔をしてるのが何度見ても笑える。
ドネシアもゼンチンも少しだけ声の高さを下げて強調しているのだが、特に「チン」は金属を叩いたときの高い音のイメージがあるので、後藤が低いトーンで「ゼンチン」「チン」と言うたびに笑えてしょうがない。採点後のコメントではオール巨人が"天丼"の手法と結びつけて語っていたが、一番はそこじゃないか、と思う。
ただ2人がマイクの前で喋っていて面白い、という漫才のしきたりと、コント漫才とかXXを知らないとかのよくある漫才ネタの「嘘」をどうしてもできないというジャルジャルの生真面目さが産んだ、子供っぽいゲームにただ興じるという系統のネタは素晴らしい発明に思え昨年も大いに感動したのだが、本作はなおのこと素晴らしかった。なおあの「国名分けっこ」は、福徳が国名をどう言うかは毎度異なるらしい。頭おかしい。
ただし、こういうネタなので、ハマる/ハマらないの差が激しい。だから、あまり1位通過の漫才ではなかったのかもしれない。それでも彼らが高得点を出して最終決戦に進んでくれたのは嬉しかった。
■ギャロップ 614点
モデル7人が揃っている合コンに4対4とするための人数合わせとして、毛利は頑なに林を呼ぼうとするというしゃべくり漫才である。
ここでは、ボケは「20代のモデル7人が揃った合コン」に「ツルツルに禿げた162cmの40代男性」である林を人数合わせでアサインしようとすることであるのだが、どうにも不条理性が弱い。もちろん、実際にそれをされたら嫌だと思う人が大半だろうしその意味でボケとして成立するのだが、あくまで「合コン」でなく「20代のモデル」というその他参加者の存在が嫌がる根拠になっているからだ。そしてそれに対するツッコミの根拠が「禿げ」のみであるのが苦しい。あまりにも一辺倒になってしまい、ダイナミズムに欠ける。
また、このボケとツッコミの条件が相まって、禿げに関する「自虐」が20代のモデルたちとなんか比べたら僕なんて……という「卑屈」に聞こえてしまう。上沼恵美子の指摘した「自虐は笑えない」は少し誤りで、正確には「卑屈は笑えない」ではないだろうか。
■ゆにばーす 594点
遊園地ロケで写真を撮られ、「激ヤバブスカップル」とSNSに上げられたことから、遊園地ロケの練習をする、という設定のコント漫才だったが、終始上手くハマらなかった。「反吐が出るわ!」がいっさいウケなかったのが、キツかったかもしれない。
少しネタが荒かった感は否めない。まず、昨年の「同室宿泊の練習」は、それでもいいか、と事務所=よしもとが画策しているとはらが言い、そうなってもよいように、と練習するという流れだった。必ずしも同様の流れにしろ、というわけではないが、遊園地ロケという限定的な状況を、既に起こってしまったことの再来を防ぐために練習する、という設定にやや無理がある。また、漫才内コント内漫才がワンシーンあったが、どうにも構造が多層的すぎて難しい。それに、そのコテコテの漫才をするというボケそのものが長すぎて、リズムが一旦途切れてしまっていた。まあ「考え過ぎ」なのかもしれない。
「たくさんの児童が待機しているよ」とか「お前神奈川県民やろ!」とか、流石の面白いフレーズは今回もそれなりにあったので、非常にもったいなく感じた。
■ミキ(敗者復活) 638点
ジャニーズに勝手に兄・昴生の履歴書を送った弟の亜生と、その行為のおかしさを指摘する兄の昴生のハイテンポなしゃべり漫才。
家族が履歴書を送るもの、という都市伝説を大真面目に実践し、昴生のツッコミを自虐と捉えて励まそうとする亜生の狂気が面白い。それだけジャニーズが王子様みたいなイケメンの記号として成立していることも凄いが、それにより亜生の狂気を立たせ、自虐として昇華させたのは見事。絶対いけるって! と言う亜生の、実は根拠が薄いこと。コウセイのコウは昴(すばる)って書くだけで、「ヤバない!?」と鳥肌が立っている旨のアクトを全力でやる亜生のおかしさ。
個人的な好みを言えば、昴生の声がうるさくて、なんだか一辺倒な感じがししまって好きではないのだが、「SMAPに入りたい」ってボソッと言ったあたりは面白かった。
ただ、こうも上沼恵美子がファンだとか言うと、贔屓されている感じが出てしまって、変に印象づけられてしまうような気がして、これはこれで不憫である。
■トム・ブラウン 633点
『サザエさん』の中島くんを5人集めて最強の中島くん「ナカジマックス」を作るというネタ。こうして文字に起こすと意味がわからない。
中島くん4人に、中島みゆきが1人紛れた結果、中島みゆきが一人勝ち(?)してしまう。最初のうちは、この中島みゆきのキャラが強いというボケでルールを説明し、そこへ次第に木村拓哉などのキャラが立っている芸能人を混ぜ込んでいくとどんどん変化していくようになり、ネタのスピードも加速する。途中からはサンプリング音楽を聴いているみたいで、少し情報が多すぎて笑わざるをえない感じがして少し悔しい。
ボケのみちおがこのおかしいゲームを始め、ツッコミの布川は「何言ってるんですかね」と言い最初こそ観客の側に立とうとするが、その直後からもうゲームへのワクワクを隠しきれない感じが狂気をはらんでいて面白い。ツッコミが、みちおの頭を掴むという乱暴なものであるのも、同様に狂気である。
■霜降り明星 662点
豪華客船に乗りたいせいやがその演技を横でするのに、粗品がツッコミを入れる漫才。
始まる前は、トム・ブラウンの直後とあって大丈夫か? と思ったが、「ボラギノールのCMか」というツッコミが全てをさらっていった。あの「ちょうどいいところに決まる」ツッコミの冴えが素晴らしい。『モテキ』のリリー・フランキーのセックスみたいで。
個人的には、ダンスパーティーのくだりが、テンポが素晴らしくて好き。
それにしても粗品は顔がいい。顔がいいから、少々ナルシスティックに正面を向いて行うツッコミが映える。
■和牛 656点
ゾンビになったら殺してくれるか? という問答を繰り返す漫才。
まず設定がおかしいのだが、。水田は心が残っているかを重視するのに対して、川西は身体が腐っているかを重視する。これだけならば、人間とゾンビの境界は何かという問答にすらなり得るのだが、川西は「そこそこゾンビ」を許容するのに対し、水田はそれを「まだまだ水田」であるとして許容しない。この徹底ぶりがおかしい。
だが何より見ものは、「そこそこゾンビ」と化した川西に水田がご飯を作ってあげるコントが始まったところからだろう。ナチュラルに同棲していそうな二人もまずおかしいが、死後硬直している川西の演技が素晴らしい。カップルネタの女性もそうだが、和牛の面白さは何より彼の演技力に宿ると個人的には思う。完全にゾンビと化した水田に引っ張られる川西の足の動きが細かすぎて、腹が捩れるかと思った。
以上、1st ROUND。
得点数の上位3組(霜降り明星、和牛、ジャルジャル)が最終決戦に進出。
■ジャルジャル 0票
ネタの入りに福徳のした「ジャルジャルでーす!」の名乗りが気になる後藤。お前だけジャルジャルみたいで嫌、と言うと、横でシャキーンって感じで決めポーズしてくれ、と言う福徳。実際にやってみて、なんだか添え物みたいで嫌だ、と後藤。
以降、後藤がいかに「ジャルジャルでーす!」の名乗りでの存在感が福徳と均等になるかを気にするくだりが続くのだが、このムキになる感じが面白い。このやりとりで、「自分を両手の親指で指す」動作の均等さを確保するというゲームのルールが説明されている。この流れは、ガソリンスタンドのコントに入っても続き、むしろコントを「ゲーム」が侵食してしまう流れも秀逸。
極めて彼ららしい漫才で、とても楽しく見られたが、一方で今にして思うとルール説明的な場面が長すぎたなような気もする。しかし、コント部分がゲームによって壊されてしまう構造を持っている以上、後半部分はあの長さが限界のような気もするし、他の要素を入れるとノイズになる。難しい。
■和牛 3票
オレオレ詐欺が心配だから、オレオレ詐欺の電話を自分で母親にかけて訓練をする、という設定のコント漫才。
オレオレ詐欺の電話がかかってきたときの練習というイベント自体はありがちだが、それを自身の母親に行うという設定が狂っている。しかしそれも、あまり突飛な発想ではない。少しジャンプすれば考えついてしまう。それでもこのネタが抜群に面白いのは、自身の善性を疑わず人を騙したことに良心の呵責を感じていなさそうな水田の表情と、面白いぐらい騙されオロオロし怒る川西の表情という、二人の演技故であろう。本当に上手い。
騙し合いゲームが始まり、しかし水田に踊らされる川西のくだりなど、展開もあって面白いのだが、いわゆる「上手さを感じすぎてしまう」の域に入ってしまっていた気もする。過去2大会連続で準優勝に終わっていた和牛の今年の闘い方が、技術を見せつけて他を圧倒し文句のつかない優勝をしてやろう、というものだったのかもしれないが、もしかしたらやや策に溺れてしまったのかもしれない。
■霜降り明星 4票
小学校の想い出の各シーンをせいやが再現し、粗品がツッコミを入れる漫才。
給食、プール、校長室と場面がコロコロ変わるので実は話がバラバラになりそうなところを、私立校の特徴(ハンドドライヤー、冷房)や同じ厳しすぎる先生(喋るな、濡れるな)を登場させることで一本の話にまとめあげている。せいやのハチャメチャな動きに隠れているが、よく考えられたネタである。また、少し変わったワードを選択しているように見えて実はただの駄洒落も多く(例えば「プリンセス転校生」)、分かりやすいので笑いやすいのもバランスが良い。「7代目ひょうきん者」もリズムが良いし、歌舞伎の見得を切る動きなのも、耳馴染んだフレーズ(○代目市川xxみたいな)を思わせ、リズムの良さに拍車をかけているような気がする。しかし、やはりこの上手さは、せいやの奔放さに上手く隠されている。せいやを粗品のフリップの代わりと揶揄する声もあるようだが、せいやあってこその霜降り明星の漫才なのである。
正直1本目ほどの爆発力があったかと言われると少し疑問だが、面白かった。
優勝は7票中4票を集めた霜降り明星。
初の平成生まれかつ史上最年少のM-1王者となった。
最初から4票が霜降り明星だったせいで、その時点で彼らの優勝は確定。以降はずっと和牛の票だったわけだが、それを見ながら「よっしゃー!!」と叫ぶせいやがうるさくて、しかしなんだか勢いを感じさせてエモかった。後ろに立つ和牛らの表情もまた、心に来るものがある。
今年のM-1を最後に、和牛*1、ジャルジャル、スーパーマラドーナ、ギャロップ、かまいたち*2は参加資格を失う。プラス・マイナスもそうだ。
だから来年ももし開催されるならば、今度は一気に世代交代が進んだような大会になるんじゃないか、と思う。そしてそうだとしたらば、その口火を切ったのは霜降り明星ということになる。
まあ、御託はよそう。霜降り明星、おめでとう!
○
最後に、目下話題となっている「アレ」について。
とは言っても、別にあの2人に対して、行為を品評してもしょうがないので、 審査自体について。
今回は、1組目の見取り図のネタ披露後、審査員全員にコメントを求めた。その中で出てきたコメントが、やや品評然としたものだったので、少し会場の空気が固くなったような気がする。無論彼らがするのは審査であり品評なのだが、先述のとおりそれが客席に伝播してしまったような。そして、その主犯はおそらく志らくである。
例えば、かまいたちに対する「魅力の前に技術は太刀打ちできない」という評は、「笑う前に考えろよ」というメッセージに受け取れてしまうし、ジャルジャルに対する「笑えなかったけど頭の中は面白いと言っている」という旨の評も、あれだけ笑ったあとに言われては少し興が醒める。そのような意図がなくても。そして別に、志らくにも、客席を怖がらせようという意図なんかなかったはずである。
志らくの評自体は、技術や伝統性よりも発想などに重きをおいたという点で一貫しており、また落語を引き合いに出さないのもあの場においては真摯さの現れであろう。ただ、あまりに露悪的に振る舞いすぎて、観客を怖がらせすぎてしまったのかもしれない。50点のくだりとか。
一方、あの騒動で「これを言えば大衆の支持も得られるだろう」として持ち出されていそうな上沼恵美子への批判だが、実際、放送中は多くの人がそれをSNS上に投稿していたものだった。
まあ確かにミキ98点はやりすぎの感があったし、あそこまでされてはミキもやや不憫なのだが、結局は品評など好き嫌いである。先程の志らくの「発想」ではないが、何に重きを置いて評価するかの違いでしかない。その意味で言えば、彼女の言い方も芝居やネタがかっていたとはいえ、シンプルに笑えるものが好きという感性に従うという点でブレはなかった。まあ、それで十分じゃないか。
思えば放送中、上沼の発言を受けて、今田が「笑わないよー」と暫定ボックスだか控室だかに対して声を掛ける場面があった。見取り図のコメントが始まりだとすれば、これは予兆だったのかもしれない。
ただまあ、芸人たちが、今日は自分たちが主役になるんだ、と息巻いてやってきた決勝の舞台で、審査員の方が注目を浴びそうな展開は、望ましいものじゃないだろう。それもまた理解できる。また、審査にまったく不満を持つな、というのも難しい。だからといって、あの行為は明らかに「マズい」こともまた確かである。だからどう反応すべきかが難しく、どの部分にまず言及するかが、なんだかリトマス試験紙みたいになっていそうで触れるのも正直怖い。
しかし、M-1グランプリ2018について書くならば、まったく触れるのも不自然なので、少しだけ書いてみた。
いずれにせよ、面白いネタが見られて笑えれば、私はそれで満足である。
冬に行われる数々のネタ見せ番組が、ぬくぬくと家で楽しめるものたらんことを。
それだけが願いである。
退職エントリーを書きたい日記【その1】:私のリビドーについて
転職エントリーが書きたい。
少し肌寒い月末の夜に、退勤の道すがら、不意に、そう、思った。
他職種と比較してだが、インターネットでITエンジニアは所属企業の名前を出して活動することが多い。
だから、退職や転職について書かれたブログはいくつか目にしてきた。
特に最近でバズったと言えばこの記事だろう。
こんな診断メーカーもできている。私がやったらJR東海だった。
私が退職エントリーを書きたいと思ったのは、ウミネコが桟橋で泣いたからでもなんてもなくて、SNSを見ていたときに、ふと、だった。
大学時代の知り合いが退職・転職の報告をしていたのだ。
転職だけが選択肢じゃないことはわかっている。けれど、現状に何かしら不満があるならば、このウェーブに乗ってみてもいいんじゃないか、と何度したか分からない決意を、また、したのだった。
退職エントリーを書くためにはまず退職をしないといけないのだが、私に退職の予定はまだない。いつすべきかとんと見当がつかぬ。何でも退職届を出して、薄暗いところでワーワー言われないといけないことだけは把握している。
だから「書きたい日記」だ。
私の性格上、転職先がないまま退職を決める思い切り良いことはできそうにない。
しかし、仕事をしながら転職先を探せるほど器用でもない。
あれ? 詰んでね? 右も左も細い道。細道ゆく獣になれない私たちである。
スパッと無職になれないのは、その後の生活の見通しが立たないからだ。
貯金はゼロではない。蓄えはあるし、数ヶ月働かなくても、たぶん何とかなるだろう。それに、今の時代だ。すぐに職など見つかる気はする。
それでも不安が拭い切れないのは、私が新卒就活に大苦戦したからである。
今にして思えば、当時はかなり悪手の戦略ばかり取っていた。
そこを改めれば今度はあっさり決まる可能性だって十二分にあるだろう。
しかし、ちゃんと転職活動をせずそれに苦戦する自分、どこからも必要とされない自分を認識することで安心する、そんな社会的な自傷行為を心地よく感じる厄介なメンタリティがまだ私の中に巣食っているのを、日々感じる。
そいつを何とか取り除くか、ケージの中から出てこないにようなだめておかないと、また同じことを繰り返してしまう気がする。
当時の「悪手の戦略」も、「そいつ」を好き放題暴れさせたこと結果だった感は否めない。
その新卒就活時のことは、機会や書く気があればまたどこかでまとめるかもしれない。
当時は、内定が出ないまま仕方なしに日雇いの仕事をしながら、休みの日はボロアパートのカビの生えた四畳半でミシェル・ウェルベックを読む生活が理想だった。
しかしそんな在野の読書家的な生き方は、もう流行らないであろうことは薄々感づいている。
それは夢想でしかない。
実際にそうする蛮勇もなかった。
だから今の会社に勤務することになったし、そこで漫然と過ごしてきたわけだ。
ぶっちゃけ、弊社に関しては、新入社員研修のときからヤバさを感じていた。
この会社に勤め続けようとは思えなかったし、そのつもりもなかった。
先述の通り、何度か転職を考えた。
それでも今まで勤務してきたのは「惰性」ゆえであった。
上述の「そいつ」の生存は感じるが、少しは報酬だとか事業内容だとか、そういった諸々を気にするようになってきた。
退廃的に暮らしたいとか思っていた頃に比べれば、は少しだけ欲が出てきたのだろう。あるいはリビドーと言ってもいい。
この心境の変化は、ちょうど7月から8月にかけて、仕事がこれまた忙しかった時期にまず感じたものである。だから「余裕が生まれたからだ」なんてクリシェは、正直あまり言われたくない。
ずっと惰性でやってこられただけのことはあって、今の会社も最悪なわけじゃない。
いわゆる「人並みの生活」ができるだけの収入を得る道は社内に存在しているらしい。
けれど、それを認識したところで閉塞感が解消されるわけではない。
だから何かのキッカケにするという意味も込めて、転職という選択肢を選ぶことになるんじゃないかな、と感じている。
転職は祈りだ。僕は祈る。
もちろん、辞めたい理由はそれだけじゃない。
職場への不満はちゃんとある。
それが今の生活リズムや上述の「閉塞感」と密接に関係しているのは確かだ。
でも、長くなるので今回は触れない。まあ、追い追い書いていこうと思う。
退職エントリーらしくはないが、これはあくまで退職エントリーを「書きたい日記」なのだ。
そんな感じで「退職エントリーを書きたい日記【その1】」である。
記事タイトルには、今後類似の記事を書くたびに増やすつもりで数字を付した。これは、退職への距離のバロメーターだ。
いつもとはかなり趣向の異なる記事となったが、今日はこのくらいで。
画像は全て、unslashから