ヤンキーになりたかった

食う寝る遊ぶエビデイ

宝多六花さんが可愛いって言うだけの記事

最近はどうにも仕事が忙しく、まったく記事を更新できないでいた。

だから、本来こういう記事は各クールの初月にすべきなのだから、いまさらしてしまう。

今クールは、どんなアニメを観ていますか?

 

テレビアニメの大きな目的に原作の宣伝があるのなら、今クールそれにもっとも成功しているのは『転生したらスライムだった件』だろう。

その他、残虐・陵辱描写*1で話題となった『ゴブリンスレイヤー』や、作画崩壊*2が凄まじい『俺が好きなのは妹だけと妹じゃない』など、話題作はいろいろある。

だが何につけても、ツイッターやpixivなど、日本のオタクが集まりやすい場所で話題になっているのは『SSSS.GRIDMAN』だろう。

 

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『SSSS.GRIDMAN』(以下、『GRIDMAN』と表記)は、TRIGGER制作のTVアニメーション作品だ。

円谷プロの特撮作品『電光超人グリッドマン』を原案とする完全新作作品となっている。

戦闘時の電柱の描写や、グリッドマンが街に降り立つ際の粉塵、なアクションや、敵襲に際して場所や時を構わず鳴り響くプライマルアクセスターなど、特撮ファンを懐かしい気持ちにさせる描写が徹底されている。

 

なるほど確かにフェティッシュだ。特撮フィルムのファンが頷くのも分かる。

しかし、興を削ぐようで申し訳ないが、問いたいのである。

これ、本当に面白いのか? と。

 

私は『GRIDMAN』を、ツイッター上での盛り上がりに当てられて2話「修・復」から観始めて、現在は最新話の7話「策・略」まで一通り一回ずつ視聴している。

2話は面白かった。

戦闘により壊れたはずの街が修復されている、というある種のお約束への疑念が挟まれるという深夜アニメ的なメタ視点から、数人が数年前に死んでいることにされているという事実が挟まれることで戦闘に緊張感が生まれる。

なるほどこれは面白いなー、とか無邪気に言いながら3話「敗・北」を観た。

1話に描かれていたであろう「出会い」、そして2話で生まれた「疑念」。では、3話は何を見せてくれるのだろう? と思っていたら、何も起こらなかった。

 

敗北か!? 前話の危惧が現実になった! 一体どうするんだ、グリッドマン

と思っていたら、あっさり「生きていた」と判明。新世紀中学生たちの登場もあまり盛り上がらず、あっさり復活したグリッドマンは、割とあっさりと敵を退けてしまう。

以降、4, 5話は何となくテンポが悪く、ぶつ切りみたいな感じで話が進み、どうにもつまらない。

6話は「とうとう世界の謎が明かされるぞ!」といった具合だったのだが、いかんせんOP明け最初のCMでわりともうネタバレされているのでいまいち盛り上がれない。

また4話以降は、今のところ敵陣営である新条アカネ(上田麗奈)がグリッドマンの正体を探ろうとするストーリーが展開されているが、視聴者は登場人物同士の関係図を知っているし、肝心の探偵となるアカネの中でほぼ答えは出ているし、アカネの方に正体を隠す気がないので行動も大胆になりがちだ。だから、「バレちゃうよ! もっと慎重に行動して!」なんて応援しようにもそれが成立しないので、どのような気持ちで見守ればよいのか分からない。

 

正直言って、べた褒めできるストーリーテリングではない。

また私は作画オタクでもなければ熱心な特撮ファンでもないので、円谷プロ作品のオマージュを込められてもよく分からないし、電柱の描写などにも特に心沸き立たない。

と、まあ不満ばかりを述べてしまった。

これでは文句を言うためだけに観ている口うるさいオタクみたいだ。非生産的だし観るの止めたら? とオタク働き方改革を勧められても文句は言えない

しかしそれでも私が『GRIDMAN』を毎週欠かさず観ているのは、ヒロインがどちゃくそ可愛いからだ。

 

『GRIDMAN』のメイン格ヒロインは2人いる。

主人公の響裕太(広瀬裕也)や内海将斉藤壮馬)と共にグリッドマン同盟ということになっている宝多六花(宮本侑芽)と先述の新条アカネである。

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私が『GRIDMAN』を知ったのは、このヒロインたちのファンアートをツイッター上で見かけたからだった。

今でこそ落ち着いたが、放送開始当初はpixivのランキングでも上位をこの2人のヒロインが独占状態であったほどだった。

まあ、それぐらいネットのオタクたちは、この2人に魅了されちまっていた。

 

 新条アカネは、端的に言えば胸が異様にデカいオタク女である。

そ、そんなおっぱいなんかに負けないんだから! なんて言っても、数々のオタク受けしそうな属性がありすぎてとんでもない。クラス一の美少女で誰からも好かれてるのにどこか闇がありそうだったり、実際に性格も生活も破綻していたり、怪獣オタクでLINEアイコンがレギュラン星人だったり。

そんな彼女は、オタクから「グリッドマンの上半身担当」なんて呼ばれている。

目を覚ませ。タイムラインがアカネちゃんのおっぱいと足裏に侵略されてるぞ!

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一方の宝多六花は、アンニュイな感じではありつつも、わりと普通なクールな子で、根が優しい女子高生として描かれている。

クラスでよく一緒に遊ぶ人もいるし、普通に音楽を聴いて、普通に勉強もしているようだし。おかしなところと言えば、スカートの丈より長いせいで何も履いていないように見える白いカーディガンを制服に合わせて着ているところぐらいか。

そんな彼女は、オタクから「グリッドマンの下半身担当」なんて呼ばれている。

目を覚ませ。タイムラインが六花さんの太ももに侵略されてるぞ!

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そう。困ったことに、このヒロインが可愛いのである(可愛い)

私は2話を観たときから宝多六花さんに魅了されてしまっていて、もう話がつまらん! とか憤りながら、ずっと宝多六花さんが画面に映ったり喋ったりするのを楽しみに『GRIDMAN』を観続けている。オタクはギャルが好きだからね、仕方ないね。

もう宝多六花さんが可愛くしてどうしようもない。画面に映るたびに注視してしまっている。イヤフォンの色が青ってのがセンス良いよね。昔使っていた青いイヤフォンを引き出しの奥から引っ張り出して、また真似してそれを使い始めるレベル(実話)

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そして、ちょっと炎上した抱きまくらのデザインにも採用された水着姿が5話「疑・念」にてお披露目になったが、他のキャラクターたちと比べてやけに気合が入っている。何なん? そのデザイン。

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ちなみに作中では、女子はみんなこんな感じのセパレート式の水着で、ラフティングをしている。頭がおかしい。

そして六花さんは、山の中に怪獣が現れたことを受けて走り出した裕太と内海を追って山道数kmをこの水着で駆け抜けた。頭おかしい。頭おかしいけど、裕太のことを真剣に心配してるっぽい感じ最高に可愛い。良いやつかよ。良いやつなんすよ。

 

6話「接・触」では、六花さんはアンチくんを保護しお風呂に入れる。シャワーを浴びさせゴシゴシと体を洗う六花のスカート+ジャージも素晴らしいし、怪獣であるアンチくんに果たしておちんちんはあったのかも気になるが、ここで大事なことは、いよいよ宝多家の中にカメラが入ったってことだ。

そして7話ではとうとう宝多六花さんの部屋にカメラが入ることと相成った。すげー! 女子の部屋だ! 女子の部屋だぞ!!

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この生活できるレベルには片付いてるけど適度にいろいろ散らかっている感じがたまらない。

は? 最高かよ。Macbookを使う女の子に悪い子はいないんですよ!!!

 

と、ずっと宝多六花さんを観るためと言っても過言じゃない感じで追ってきた『GRIDMAN』だが、6. 7話と話の核心に迫ろうとしているところで、まあその核心自体は先述のとおり「うん、知ってた」でしかないのだが、対比構造が明確に使われ始めてちょっと面白くなってきた感じがある。

アンチ(鈴村健一)くんのスペシャルドッグを踏むアカネが、自分が裕太にあげたスペシャルドッグを問川(湯浅かえで)らが遊んでいたバレーボールが潰したのを根に持って彼女らを殺した、とか、アカネ自身は裕太の部屋に不法侵入していたのに、アンチくんが部屋に入ったことにマジギレする、とか。

まあ、露骨とも言うがね。

 

女の子が可愛くて、かつ話が面白いならば最高である。

だから、ここから加速してくれるなら言うことはない。

もっ先へ、「加速」したくはないか? 少年――*3

 

新条アカネが敵陣営であることをグリッドマン同盟は認識したようだし、アカネに片思いしている内海と、彼女と幼馴染である六花が、どうアカネと関わっていくのかというのがこれからの主眼になるんだろう。

そして、そのなかで、黒幕っぽいアレクシス・ケリヴ(稲田徹)とどのように対峙していくのか。アカネやアンチくんはそこにどう関わっていくのか。そして、街に「外がない」という問題は物語上どう扱われていくのか。

気になる要素はたくさんある。散々言ってきたが、そっちも楽しみなのだ。

 

ちなみに、グリッドマンが敵2体に襲われてピンチに陥っているのに、特撮あるあるだ! とテンションを上げている内海を見るときの六花の目が大変良い感じにゴミを見るような目であったことも念の為触れておこう。

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このシーンの六花の目が、特撮ネタに反応する視聴者=内海に対する外部の冷静な目として、そして6話の内海と話すアカネは、彼(ら)を踊らせるクリエイターとして機能するんじゃないか、というメタ構造についてちょっと考えたけど、まあたぶんそんな話じゃなさそう。

 

兎角、私は宝多六花さんが可愛くて仕方がないし、彼女を見られるだけで『GRIDMAN』には大満足なのだ。

ED映像の、机の上にぴょこんと座る六花さんがめちゃくちゃ可愛い。

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私が気に入るキャラは、その多くが暖色系の髪色だったから、少しばかり驚きではあった。

アストルフォとか一色いろはとか。

そんなこと泉鏡花(『文豪ストレイドッグス』)以来だから、思い切ってファンレター書こうかと思った*4レベルだ。

とか思ってたけどよくよく考えたら耳郎響香ちゃんとか激推しだったわ。まあ、この記事では都合が悪いのであえて気づかなかったことにする。

 

けれど、宝多六花のそもそものデザインコンセプトは「手が出せない無理めの女子(TRIGGER内男性基準)」らしいので、私も例に漏れず惨敗するか、あるいは手が出せないんだろう。

「あの子は彼氏候補の男とグループでスノボ」に行き、「残された」私は「つぼ八で飲」むしかないんだろう。最高かよ(錯乱)

 

もう宝多六花をすこるしかない。そこにしか、現代の救いは残されていない。

 

 

*1:ゴブリンに噛まれて大出血した女神官ちゃん、助かっても絶対に何らかの感染症もらってそう。

*2:俺が好きなのは妹だけど誰だお前。

*3:もっ先 (もっとさきへかそくしたくはないかしょうねん)とは【ピクシブ百科事典】」を参照のこと

*4:「そんなことブランキー以来だから 思い切ってファンレター書いた」(忘れらんねえよ「CからはじまるABC」)

『劇場版フリクリ オルタナ』感想: 僕たちはケバブ屋の女が見たかったわけじゃない

先日、『劇場版フリクリ オルタナ』を観た。これまでも散々、様々な方が感想文を書かれていると思うが、これもそれらに類する感想文である。

以降の記述は、『劇場版フリクリ オルタナ』およびOVAフリクリ』のネタバレを例のごとく含む。そういうことを気にされる方は、鑑賞後にお読みいただくことをおすすめする。

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会社を休んだ日、私はTOHOシネマ新宿で昼間からこの映画を観た。別にそのために有休を取ったわけではないが、図らずもそういう形になった。

この映画に期待していたわけじゃない。ディス記事と思しきタイトルの感想文がいくつか存在することは知っていたし、 PVを見たときから不安はあったからだ。

鑑賞後、下りエスカレーターに乗りながら、私は目尻が少し濡れていることに気づいた。それは感動のため涙ではなく、ただただ悲しかったから溢れてきた涙だった。当記事は、『劇場版フリクリ オルタナ』のディス記事である。

(なお以降は、『劇場版フリクリ オルタナ』を『オルタナ』、『劇場版フリクリ プログレ』を『プログレ』と呼称し、『フリクリ』とはOVAフリクリ』を指すものとする)

 

■ピザ屋の彼女じゃないからハル子をグレッジで打つベンジーはいない

いきなり自分語りで申し訳ないが、私が初めて『フリクリ』を観たのは今年の春である。幸いかなり楽しんで観ることができた。榎戸洋司による小説版に電子書籍童貞を捧げるほどにはハマった。けれども、『フリクリ』はもう私にとって「思春期に観て毒されてしまった作品」にはなりえないし、聖書や聖典のように君臨するマスターピースにもなりえない。

だから、仮に『オルタナ』の出来が酷くとも、これは『フリクリ』じゃない! と憤らないし、よくある凡作の一つとして軽く受け流せる……はずだった。しかし、実際はそうじゃなかったことは上述の通りである。

端的に言おう。私にはどうしても、『オルタナ』という映画においてハル子が根本的に邪魔にしか感じられなかった。

 

フリクリ』において、ハル子(新谷真弓)の登場シーンは劇的である。いきなりベスパに乗って高速で突っ込んできて、ナンダバ・ナオ太(水樹洵)を轢く。更にはギターで彼の頭を殴る。

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ハル子は、そんな滅茶苦茶な存在として描かれる。滅茶苦茶で、自由で、滅茶苦茶。大人ぶって、「特別なことなんてない」と達観するナオ太にとって、ハル子は〈特別〉な外部として映り、やがて彼女に強烈に惹かれていく。そして、1話開始時点以前から続いていた、サメジマ・マミ美(笠木泉)との、兄・タスクの代替品として求められる関係も変わっていく……。

フリクリ』のハル子は、いろいろなものが変わっていく契機となる存在であったし、滅茶苦茶な外部でありながら、メディカルメカニカ(MM)に捕らわれた海賊王・アトムスクを追うという目的に縛られた人間であったし、そして彼女抜きには物語が成立しない確かな存在感を放っていた。

 

対して『オルタナ』のハル子は、『フリクリ』の彼女とまったく異なっている。

もちろん、「フリクリ」の名を冠すからと言って、ハル子の造形をそのまま反復する必要は必ずしもない。「フリクリ」を改めて作ること、ハル子を作り上げることについて、新谷真弓は『オルタナ』の初日舞台挨拶でこう述べている。

新谷は「本来、監督さんに役者から意見を言うなんておこがましいことなんですけれど」と恐縮しながらも「もともと鶴巻さんが作られた『フリクリ』っていうのは、プライベートフィルムみたいなものなので。違う人が作ったら同じハル子にはならないですよねって。それに対抗するには、上村監督のプライベートフィルムにするしかないって話になって」と語る。

【イベントレポート】「フリクリ オルタナ」舞台挨拶に新谷真弓&上村監督「自分の中のフリクリを探して」 - コミックナタリー

 だから、多少彼女の造形が変わったとして、こちらが問題を指摘する余地などないのである。常識的な範囲であれば。しかし、フィルムにおいてハル子のいる意味が損なわれるならばその限りではない。

 

 『オルタナ』1話*1のあらすじは以下の通りである。

どこにもでもいるような女子高生・河本カナ(美山加恋)は、友人のペッツ(吉田有里)、ヒジリー(飯田里穂)、モッさん(田村睦心)と、休憩時間や放課後にダベる感じの日常を過ごしている。ある日、アルバイトしている蕎麦屋にハル子がやってくる。その夜、いつものようにハム館に集まっていた4人は、ペットボトルロケットを作ることにする。ロケットは完成するが、まだ可愛くない! から飛ばさない。翌日、みんなでロケットをデコり、いよいよ完成! となったところで、空からGoogleマップのピンみたいなやつが降ってきてロケットを破壊してしまう。更にはそのピンが、気色悪い何かに変形して……。

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オルタナ』におけるハル子の初登場シーンは、上述の通り、蕎麦屋にぬるっと入ってくる場面である。劇的な登場もないし、以降も彼女は物語にぬるっと入ってくる。カナはその後のハル子との遭遇において頭を殴られるのだが、その登場の仕方か彼女たちはハル子を自然と受け入れてしまう。

つまり、今作の彼女は外部ではありえない。

物語の始まりには、いつも〈事件〉がある。殺人事件も、人間関係の不和もすべて〈事件〉だ。ハル子という外部から例えばナオ太の頭に現れたツノのような形で問題がもたらされるのではないとすれば、それはカナたちという内部から噴出するほかない

これに関して象徴的なのは3話「フリコレ」だろう。ファッションデザイナーを目指すモッさんは、専門学校の学費を稼ぐためのバイトとコンテストの作品作りの末に過労で倒れてしまう。カナはモッさんを助けようとしヒジリーとペッツにも協力を求めるが、モッさんはこれを激しく拒絶する。

そう。オルタナ』の各話は、この3話がそうであったように、ハル子やMMなしでも十二分に始まりうる=〈事件〉が発生しうる話なのである。

大学生フォトグラファーと付き合うヒジリーは、彼がハル子に一目惚れしなくともどこかでフラれただろうし、カナにもどこかで進路についてちゃんと悩み決断を下さないといけないリミットが 来ただろうし、ペッツもどこかで母親との関係に限界がきただろう。

 

いやいや、1話でペットボトルロケットが破壊されたのは確実に外部からもたらされた事件だ、という指摘はあるかもしれない。確かにその通りだ。しかし、そのGoogleのピンが、そこに落ちてくる必然性はあっただろうか? そしてそれがその後の話に影響を与え得ただろうか?

答えは両方否である。ピンが落下してくるのはカナたちがハル子と交流を持つ前*2であり、彼女らにMMからのアクションがとられる謂れはない。また、5話「フリフラ」においてペッツがターミナルコアに出会い巻き込まれるのはピンの落下したハム館においてだが、これがなくともペッツは火星に旅立っただろうし、カナたちの問題を主眼に据えたとき、ピンが何かの決定的契機になったとは言い難い。

フリクリ』の問題だって多くはナオ太の問題だったじゃないか、としう指摘もあるかもしれない。その一面は確かにある。しかし、そのナオ太の内面の激流は、ツノや猫耳という頭部に現れる変化という形で確かにハル子と結び付けられていて、解消というカタルシスに至るための戦闘の開始と不可分になっていた。

オルタナ』において、MMのロボットは唐突に現れる。ロケットをデコっていたときに、体育館の倉庫でキスをしようとしたときに、ハム館を訪れたときに。この登場は、まるでそれがノルマだからと言うかのようであり、必然性が感じられない。

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物語の開始に絡めないならば、ハル子は本来〈事件〉と関係性の薄いはずのMMのロボットに対し大立ち回りを演じ破壊することで強引に〈事件〉が解決されたかのように見せ、人生訓を述べる便利な機械としての役割に堕すしかない。

だが、これはそもそもMMのロボットが暴走しなければハル子の出る幕すらなかったことを意味してしまう。人生訓を述べるだけならば蕎麦屋の店主であるデニス用賀(森功至)であっても良かったからだ*3

加えて、『オルタナ』におけるMM的表象が、MMという形をとっていけなればならない理由は、『フリクリ』の新作と銘打っているというプロデュース上の理由以外には存在しない。オルタナ』のハル子がMMを敵視する理由が一切分からないからだ。

フリクリ』において、アトムスクを捕らえたMMはその奪還を悲願とするハル子にとって敵であった。しかし、『フリクリ』の6話においてアトムスクはMMからの脱出を遂げている。だから『オルタナ』においては、MMと敵対する別の理由があるはずなのだ*4が、それが語られることは一切ない。

MMとハル子を結び付けるものがないならば、MM的表象つまり世界を滅ぼし、「明日が昨日の寄せ集め」みたいで永遠に続くと自分を騙すには十分なほどに単調な日常を終わらせるものの表象がMMである必然性はない。ならば、MMのロボットが暴れる必然性もない。

以上から導き出せるのは、オルタナ』においてハル子が不要であるという残酷すぎる結論に他ならない。

 

 不要であるはずの『フリクリ』の設定を使用するために必然性なく挟み込まれるMMのロボットの登場はいびつにならざるをえない。

フリクリ』6話「フリクラ」において、猫のタッくんを失い、ナオ太のタッくんが自分の御せない対象となったことで、マミ美は新たなタッくんを見出すことになる。それが実はターミナルコアで、そうとは知らず機械を与えて成長させてしまったせいでマミ美は最終決戦に巻き込まれる。

オルタナ』におけるターミナルコアの登場は5話である。ペッツはヤバい母親から逃げて放浪していた際にハム館へ行き、偶然ターミナルコアと出会う。ターミナルコアは自分で周囲の金属を捕食し始め、急成長しペッツを取り込んでしまう。ここには『フリクリ』にあったような、ターミナルコアにつながるためのドラマが存在しない。

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これに代表されるような必然性のないロボットの登場から始まる必要性のない戦闘シーンは、アクションとしても平凡なものに止まっており、はっきり言ってしまえばかなり退屈である。フィルムにおいて、これらのシーンは邪魔なのである。

また、目的を失った『オルタナ』におけるハル子の暴力性や奔放さは歯止めが利かなくなっている。例えば3話において、ハル子はコンテストの最優秀賞を獲得した衣装を着てランウェイを歩くモデルの座を奪い、「地味な服は着たくない」として勝手にモッさんの服を着てランウェイを歩く。警備員がやってきた時、彼女は警備員を倒すだけでなく会場の柱を倒し、多くの観客に混乱と恐怖を与える。これらの行動に理由も、隠された目的もない。ゆえにただただ多くの人が蔑ろにされてしまった不快なシーンとなってしまっている。

 

先ほどは不要と述べたが、これでは、『オルタナ』においてハル子が存在するのは、無益・無害であるどころか損害・有害である。そして、ハル子がそのような存在になってしまう時点で、オルタナ』は決定的に『フリクリ』ではない。

フリクリ』の新作を鶴巻和哉以外が作る以上、ハル子像がそっくりそのまま継承されることはあり得ないにせよ、こんなふうに蔑ろにされてしまったハル子を観たいと思ったものは一人もいないはずである。

世話焼きなお姉さんという凡庸な役割を担わされた『オルタナ』のハル子は、ベスパではなくワゴンに乗って、ケバブを焼いて売っている姿が異様によく似合う。しかし、私たちが見たかったのは、ケバブ屋の女ではないのである。

このような作品に対し「フリクリ」の名を冠すことは、『フリクリ』に対する冒涜・蹂躙以外のなにものでもないだろう。

 

さて、以上で私が『オルタナ』に対して思った大きな不満であるハル子の造形については語り終えたことになるのだが、まだ細かなものが残っている。the pillowsの楽曲の扱い方への不満、女子高生の造形に代表される脚本への不満、そしてカタルシスに至れない映画としての決定的欠陥への不満。

以降はそれらを少しだけ語っていきたい。

 

the pillows楽曲群のぞんざいすぎる扱い方

フリクリ』の楽しみ方はいろいろある。演出の奇抜さ、物語、セリフ、エトセトラ。

だからthe pillowsの贅沢なMVとして堪能する楽しみ方もできるけれど、すべての人がそれを望んでいるわけではないことは理解している。それでも、『フリクリ』が好きだという人に、the pilllowsが嫌いだ、という人はいないだろう。きっとthe pillowsが嫌いなら、あれだけ彼らの楽曲がBGMとして流される『フリクリ』の鑑賞には耐えられない。

オルタナ』や『プログレ』の楽曲をthe pillowsが担当し、それぞれに主題歌を書き下ろすと知ったときは嬉しかった。彼らの音楽が、劇場で聴けるのだ、ということも。これには上記の理由から、同意してくれる人も多いだろう。

 

しかし、蓋を開けてみて残ったのは、こんなはずじゃなかった、という落胆や失望であった。

 

1話「フラメモ」冒頭の、音楽プレイヤーで再生するのと合わせて「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」が流れる時点で、流し方のセンスに少し疑問は生まれていた。それでも、スクリーンでthe pillowsの曲が聴けることに少しだけ心は沸き立っていた。

 

しかし、困ったことにかからないのである。そして使われるにしても、なんだか「本当は使いたくなかったんだろ?」と言いたくなるような使われ方がなされるのだ。

名曲「Fool on the planet」に合わせてカナたちが動揺「海」を歌い始めたときは、戦闘機でてめえらの頭を打ちぬいてやろうかとさえ思った*5

 

それだけでもめまいがするのに、『フリクリ』におけるキメ曲であったはずの「LAST DINOSAUR」や「LITTLE BUSTERS」がかかったときに一切テンションが上がらないのも驚いた。いや、そもそも聴こえないのである。気づけばぬるっと流れ始めていて、まったく盛り上がらない。まるでハル子の登場シーンのように。

イントロを大きな音で流してシーンの転換を印象付けるとか、曲のメロの変わる瞬間に印象的なシーンを持ってくるなどの方法がいっさいとられない。ノルマだけどシーンを邪魔されたくないし……とでも言うかのように小さく始まるそれらは、その儚さゆえに、趣向とは本来異なるはずの涙を誘う。

とりあえず、誰が主犯なのかは知らないけれど、主犯には『フリクリ』4話の「Crazy Sunshine」と6話の「LAST DINOSAUR」と各話の「LITTLE BUSTERS」をそれぞれ100回見てほしい。

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この音響的センスの壊滅ぐあいは、あるいは4話「ピタパト」における、何の脈絡もなく挟まれる、最悪すぎるラップパートにも通じるのかもしれない。

しかしこれは、 むしろ脚本レベルにおける問題であるようにも思える。そのためこの部分についての言及は、ひとまず次の項目に譲りたい。

 

■凡庸さと安易さについて

オルタナ』がいかに『フリクリ』と異なっていたとしても、映画自体が面白ければ、それはそれで良いのである。いや、ファンとしては納得しかねるものがあるだろうし、やはり「フリクリ」という名を冠してほしくはないと思うであろう。

それでも、例えば『フリクリ』に感傷なんかない若い世代の思い出の一作になりうるのであれば、ジュブナイルとしては合格なのである。

しかし――ハル子という不要なキャラを暴れさせている、としているこの論調故におおよそこのあと何を言うかは察しがつくだろうが――、その基準にもやはり達していなかった。

 

オルタナ』の主題はわかりやすい。

「毎日が毎日毎日ずーっと続くとかって、思ってるぅーん?」

「わたし、気づかないフリしてた。そうしていれば、終わらない、変わらないってばかり思ってた」

「何もかもが変わっていく。だったらせめて、変わらない顔していろ」

まあ、会話形式にすればこんな感じだ。発言者はそれぞれ、ハル子、カナ、神田束太(青山穣)である。本当に、これだけである*6。少なくとも、私見では。

 

退屈な日常の疑似的な永遠性とその終焉。凡庸なテーマである。ここに目新しさはない。

いっそ「王道」と居直ってもいいのかもしれないが、ならば堂々と「王道」然としていればよいのに、ノイズとしてのハル子とMMが持ち込まれ、本来彼女たちによって解消されたはずの問題は、『フリクリ』的要素に持ち逃げされてしまう。

オルタナ』のストーリーやテーマ設定は、王道にもなりきれず、かといって変格としては凡庸という中途半端なものになってしまっている。

 

カナたち「女子高生」の造形にも疑問が残る。

悩みが凡庸であるように、彼女たちの造形もまたステレオタイプ的なのだ。もちろん、アニメやライトノベルのキャラクターが記号的なのは今に始まったことではない。しかしそのことを加味した上で見ても、彼女たちのキャラクターは凡庸である。

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彼女たちの会話の多くは、日常的な駄弁である。1話の、ゴミ出しを賭けて無邪気にジェンガを楽しむ場面や5話のプールでバレーボールに興じる場面など。これにより彼女たちの関係性が見え、そこから帰納的に人物像が立ち上がってくる――ならばよかった。しかし、残寝ながらそうはなっていなかった。

6話の中でアクションシーンをノルマのごとく挟みつつそれを行うのは、そもそも尺が足りていなかったように思える。

 

加えて、彼女たちの駄弁自体もまた凡庸なのである。

まるで大学生やそれより上の世代が、制服を着て頑張って女子高生の芝居をしているような、そんな風に思えて仕方がなかった。

女子高生がJKを意図的に演じる、社会的なイメージをあえて引き受けて見せることは、実際にはしばしばあることなのだろう。しかし、彼女たちが、彼女たちだけの会話のなかでそれを行う必要性は極めて薄い。だからやはり、会話には違和感が拭えない。

この違和感は、脚本を担当した劇作家・演出家である岩井秀人が自身で舞台を作るときには、小さな所作など身体表現を含めた演出を行うことで解消している類のものなのかもしれない。しかし少なくとも彼が脚本のみを担当した『オルタナ』においては、駄弁のセリフはうまく機能していなかった。

 

 

同様に違和感があったのは、ひたすらに上滑っていた安易なパロディである。

この使い方も、小劇場演劇にしばしば見られるものだ、と言えばそこまでだが、少なくとも『オルタナ』においてそれは滑っていた。

それをただ「つまらなかった」と唾棄し叩きのめしたいのではない。むしろ、つまらないだけならよかったのだ。問題は、この安易な引用が、おそらくあの問題のラップシーンにもつながっていることだ。あのダサすぎるラップに。

 

ハル子のラップは、4話にて唐突に披露される。カナが、佐々木(永塚拓馬)とイチャつくハル子を見て焼き餅を焼き、むしゃくしゃして帰り道でピンを蹴った後のことだ。

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しかし、そのシーンでラップを行う必然性や必要性はまったく感じられない

一応、蕎麦屋の店主のデニス用賀が元DJという説明はあったが、これも理由としては弱い。とはいえ、まったくその行動の意図が読めないわけではない。ラップ披露後、ハル子は「フリースタイル」と言っている。つまり、ハル子のラップに対抗して、カナにも思いの丈を叫んでほしい、だから佐々木に手を出してカナの嫉妬心をあおったし、ラップのフリースタイルを披露したのだ、そう解釈することもできる。

だが、その場で急にラップが思い浮かぶわけがない。つまり、カナの叫び=内面の激流からカナ自身を遠ざける振る舞いになってしまっている。それに、ラップの挿入は唐突であり、仮に意図があるならその場ではっきり分からないとそもそも私たち観客はノイズとしてしか受け取れない。

「フリースタイル」を加味した上でも、あのシーンの必要性が分からないのだ。

だからどうしても、ラップが最近流行っているから入れてみました、いろいろなものを取り込むのもフリクリらしさっしょ? とドヤ顔しているのが透けて見えて不快で仕方がなかった。また、極端に無能、傲慢として描かれる、カリカチュアライズされた政治家像も不快だった。いずれも、安易なパロディである。

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 ■とってつけたようなラストシーンじゃカタルシスは得られない

たくさんの違和感を抱えさせられたまま進行するストーリーは、6話におけるハル子の「バッドエンドは好きじゃない」というセリフと共にラストスパートをかける……はずだったのだろう。

「叫べ、17歳!」などの、PVにも収められたセリフがハル子の口から放たれ、カナ役である美山加恋の熱演がある。

しかし、その画面上の「これは熱いシーンだってことなんだろうなあ」という展開を前にした、そのように冷静に分析してしまうこちらのテンションの上がらなさはなんなのだろう?

 

カナがこのシーンで行うのは、ただ思いの丈を叫ぶだけなのである。

5話において、ペッツはカナに対して叫んでいた。正直、ペッツへの思い入れが抱けていなかったのであまり感動できなかったが、それでも二人の関係性が分かっていれば、少しは感動できたかもしれないシーンだった。

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対してこのシーンでは、カナはひたすら、誰かわからない対象に向かって叫ぶ。だから、いったい何を見せられているのか、という気持ちにならざるを得ない。「わたしは、友達が大好きでー」と、美山加恋が力を込めて演じていることは分かるが、カナが叫べば叫ぶほど、私たちはどのようにしてこのシーンを観ればよいのか分からなくなる。そして話はどんどんスケールが大きくなり、「この町」が大好きで、この町で暮らしていきたい、みたいなことを言い始める。

しかし、私たちはそのカナが名指す「この町」のことをほとんど知らない。

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カナたちの暮らす町には、少し前にテンカイッピンなるものが出来て、商店街も寂しくなったらしい。しかし、このテンカイッピンが何の施設であるのかが分からないのだ。話からすればショッピングモールだろうが、そこに行って何かを買った、という描写もない。このことに代表されるように、私たちには、その町の様子が一切見えてこない。その町がどのような規模の街なのかすら分からないのだ。たびたび舞台となる浜辺と彼女らの学校や家との距離感もまったく掴めない。

キャラクターたちにもあまりなじめず、町のこともイメージできていない状態で、カナの感情の叫びに寄り添いカタルシスを抱け、という話がそもそも土台無理な話ではないか。

これは、ストーリーテリング上の欠陥であると指摘せざるを得ない。

 

また、「この町」や「友達」らに対して観客側が思い入れを持てていないという欠点が仮に解消されていたとしても、最後にテーマに準じた事柄をずっとキャラクターに叫ばせて、それで大団円というのはやはりダサい。加えてテーマまで凡庸とくれば、本当につらいものがある。

 

■最後に

かなり長々と書いてしまった。

こんなに長い記事は『リズと青い鳥』の感想以来である。 

今回は延々とディス記事を書いてしまった。ディスばかりで少し疲れてしまったので、最後に少しだけポジティブなことを書いて締めたいと思う。

 

2話「トナブリ」において、カナはMMとのロボットとの戦闘に巻き込まれることになる。ハル子の車を無免許なのに運転する、しかも凶暴なロボットに襲われているという危機的な状況において、カナが「わたし、運転の才能あるかも~!」と笑いながら言うシーンは、たしかに彼女の主人公っぽさが表れていて、ちょっと良かった。

あのシーンの「Freebee Honey」はちょっと良かった。


 the pillowsの書き下ろしたED曲「Star Overhead」は素敵な曲で、またED映像に登場するカナはとてもキュートだった。

 一本の映画という形式にまとめた上映では難しかったのかもしれないが、もっとあの曲を聴いていたかったし、あのカナを観ていたかった。

 

また、カナたちの造形やストーリーについて散々言ってきたが、仮にこの作品に『フリクリ』要素がなく、そしてテレビアニメーションの形式で製作されていたならば、あるいは少しは化けてくれたのかもしれない。

テーマは凡庸と言ったが、裏を返せば確かにジュブナイルの予感の含むものであったし、キャラクターだってこの形式でなければもう少し印象づけられたかもしれない。

 

 正直あまり期待はしていないのだが、『プログレ』も映画館に観に行く予定だ。

「2人はフリクリ 1人はアメザリ」というクソみたいな名前のニコ生特番で、「2人はフリクリ~」と言いながら人差し指を上げる水瀬いのりが可愛かったからだ*7

プログレ』のED曲である「Spiky Seeds」も良い曲だったので、これを劇場で聴きたい。できるならもっと、素敵な気持ちで。

 

*1:オルタナ』は、6話分のアニメの一挙放送みたいな形式をとっている。これは、アメリカで『フリクリ オルタナ』と合わせた各6話全12話構成のアニメーションとして放映されるものを、日本では映画のフォーマットに合わせて上映しているためである。

*2:その時点で、カナとハル子も蕎麦屋の店員と客でしかないし、ハル子は蕎麦屋の常連ではない。

*3:実際、6話「フルフラ」における彼の姿勢は、『オルタナ』が核に据えようとしたものと沿うように見える。

*4:宇宙警察フラタニティという組織の目的がMMへの抗戦であると理由付けはできる。しかし、フラタニティが『フリクリ』のそれと同様である保証はなく、またそうであったとしても、組織に従順な牙を抜かれたハル子は、果たしてハル子と呼べるだろうか。

*5:念のため付記しておくと、「Fool on the planet」の歌詞には戦闘機が登場する。

*6:他にも実は大人/子供、大人の中の種類などがモティーとしては使われるが、物語全体を観たときにテーマにまで昇華できているとは言えない。

*7:こう書くと声豚みたいで普通にキモい。可愛いよ~いのりん~~~!

今更ながら『エロマンガ先生』について語ろう

あなたは、『エロマンガ先生』というアニメをご存知だろうか。

そんな恥ずかしい名前のアニメ知らない! って? まあまあ。

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エロマンガ先生』とは、伏見つかさによる同名のライトノベルを原作として、2017年4月クールに全12話で放送されたTVアニメである。

つまり1年前のアニメなのだが、今でも時々、HDDに残っているのを再度見ることがある。まあ、それくらいには気に入っている。

つい先日も、また最終話「エロマンガフェスティバル」を見てテンションが上がった。だからこそ、今こうしてその勢いに任せて文章をしたためているわけだが、ではいったいどう良かったのか。今回の記事はそれを書いていこうと思う。

 

まず、アニメ公式サイトから紹介文を引こう。

高校生兼ラノベ作家の和泉政宗には、引きこもりの妹がいる。

和泉紗霧。

一年前に妹になった彼女は、全く部屋から出てこない。

そんなある日、衝撃の事実が政宗を襲う。

彼の小説のイラストを描いてくれているイラストレーター『エロマンガ先生』の正体が、なんと妹の紗霧だったのだ!

一つ屋根の下でずっと引きこもっている可愛い妹が、いかがわしいPNで、えっちなイラストを描いていたなんて!?

俺の妹がこんなに可愛いわけがない』をしのぐ魅力的なキャラクターが多数登場!

ライトノベル作家の兄と、イラストレーターの妹が織り成す、業界ドタバタコメディ!

最近増えている業界お仕事ラノベの一種であり、そこにもはや伏見つかさの深い業*1である妹フェチが掛け合わされた一品。「引きこもり」という一筋縄ではいかない題材を扱っているが、あくまでドタバタラブコメである。そもそもタイトルからしてシリアスにはなれない。

 

そう。この作品はコメディなのだ。そして、可愛いヒロインたちがたくさん登場する、ラブでコメディなのだ。

この作品の凄いところは、まずヒロインたちがみんな何かしら可愛いことである。

 

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メインヒロインである和泉紗霧(藤田茜)は、わがままで、ツンデレで、しかしそれに応えれば確実に応えてくれる。それに、そもそも応えずとも彼女はその性質上、絶対に主人公である兄・政宗松岡禎丞)を見つめている。可愛い。

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隣人にして中学生ラノベ作家である山田エルフ(高橋未奈美)大先生は、絶対的に政宗に惚れている。しかし、政宗に思い人がいることは理解し、そしてそれを受け入れている。 何ならいろいろと世話も焼いてくれる。バブみを感じてオギャれる。可愛い。

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千寿ムラマサ(大西沙織)先輩は、大天才の中学生ラノベ作家だが、出会う前から政宗にべた惚れである。その理由は、WEB小説家時代から彼の作品を読み、心湧き立たされてきたから、という何とも作家冥利につきるもの。そんな彼女は、その実すぐ口車に乗せられたり、すぐ墓穴を掘ったりしてポンコツ可愛い。

 

前作と比べると、みんな、ちゃんと可愛い。実は、とかじゃなくて、どういうところがアピールポイントかがしっかりわかるし、それが魅力的に描かれている。可愛いの暴力。

そして、これだけみんな魅力的なのに、くっつく相手は絶対に紗霧であるとわかっていることがまた恐ろしい。これももはや、だって伏見つかさだし! と居直られている感じすらある。こうなるとたいていのものごとは手が付けられないので強い。

 

ここで少し前作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の話をしよう。アニメ2期は、ラノベ最終巻刊行と合わせるためにかなり駆け足だった挙句、全16話の変則構成となったせいで最後数話がWEB配信限定というイマイチ盛り上がらない終わり方だった。

だから不幸な面があることは認められるが、それでもやはりなかなかにひどいものがあった。

 

 『俺妹』の売りは、何といっても妹がメインヒロインであることだった*2

妹との恋愛つまり近親相姦的な欲望は、はるか古代から現在に至るまで禁忌である。そのため、どう考えても最後に勝つヒロインは桐乃なのに、それができない、という構造が生まれることとなった。

加えて桐乃には、ツンデレ+暴力という当時の流行属性が加えられることとなり、加えてスーパー超人オタクとくればいよいよ属性過多。これに負けじと登場するヒロインたちもいろいろと盛りすぎでキチガイのオンパレード。最終的には、平凡代表の顔をしていた田村麻奈実でさえ、その平凡さゆえに最後まで近親相姦的欲望を否定するコンフリクトの役目を一手に担うことになり、突然桐乃に腹パンを食らわせるキチガイとなってしまった*3

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それに比べると、『エロマンガ先生』は平和である。まず、政宗と紗霧に血縁関係がないことは冒頭から明かされている。また、ずっと一緒に住んでいたら性欲の対象じゃなくなる、とはよく聞く話だが、そもそも同居期間も短い。

何より、二人は家族になる以前からWEB小説サイトの作者とファンの関係であった。家族としての時間より、そちらの時間のほうが長いのだから、もはや政宗からすれば、家族になりたいとしきりに口にするけれど、紗霧を家族として見るより魅力的な女の子として見るほうがむしろ自然なんじゃないか、と思えるほどなのである。これはもちろん、紗霧視点からしても。

だから、ここには『俺妹』に存在したようなコンフリクトはない。ダイレクトにイチャイチャできる。ご都合主義といわれても、ぐうの音も出ない。だが、だからこそ、天才的な作家たちによる「戯れ」というユートピア的環境にはあっているし、私たち消費者も安心してブヒれるのである。ブヒい。

 

さて、ここまで言葉を散々弄して語ってきたことは、ヒロインたちがみんな可愛いよブヒィィイイイイイイイイ!!!!! という一点に尽きるのだが、このままだと、あくまで『エロマンガ先生』の原作の紹介という側面が強い。

しかし、今回私がしたいのは、アニメ『エロマンガ先生』が面白いぜ、ブヒィィイイイイイイイイ!!!! という話である。

 

まず、OPテーマが良い。

まず、歌詞とかどうでもいいから、イントロを聴いてほしい

ファーファファファfッファfッファfッファッファーファーファファファfッファfッファfッファッファッファ~

と鳴り響く、やや間の抜けるブラス。OP映像では、この音と共に「エロマンガ先生」というタイトルが表示される。

さあ! これからバカアニメが始まりますよ! という幕開けにはもってこいの一曲である。非常にあっている。

 

次に、EDが良い。

こちらがED映像である。モニタで再生したものを録画する直撮りらしいので画質音質共に劣悪だが、アニプレックスあたりが公開している公式版がないのでこれでご容赦願いたい。

TrySailの歌う「adrenaline!!!」自体の可愛さもさることながら、このEDで踊る紗霧の可愛さたるや。

さて、この紗霧だが、実は踊っている場所は風呂場と隣接する脱衣室であり、彼女は洗濯機が回りきるのを待っている。では何故そんなところで踊っているか、と言うと、自身の下着は自分で洗うから兄さんは触らないで……といったからである

 

事の次第を説明すると長くなるが、まあいわば思春期の娘と父親のようなものである。

しかし、アバンで政宗は独白として、「貴様を超える美少女である妹のパンツを日々洗っている俺が、今更女に一目惚れするものか」とやや良い声で言っている*4

だから大仰にショックを受ける政宗はやや気持ちが悪い。このラノベ特有の気持ち悪さを感じさせたところで、この自分で洗濯をするEDというギャグとしてそれを回収してしまっている。この手腕がまず素晴らしい。

 

そしてこのEDは、サビでのノリノリな紗霧を描くことで、以降の話でこれが使われればそれだけで可愛いというものに仕上がっている。だから、通してみると、確かに2話は飛び道具だったが、別段狙いすぎ/飛ばしすぎでもないので、あまり嫌な感じはしない。このバランス感覚がまた良い。

何より楽曲自体としてこの曲はものすごく可愛い。マイ・フェイバリットソング・オブ・2017。ちなみにMVは声優ソング独特の謎仕様。ただのキチガイ

ちなみにこういうタイアップは、そのアニメに出演している声優が一人でもいるなどすれば採用されやすい傾向にあるのだが、そもそも誰も出ていないというのが、かえって潔い。『エロマンガ先生』の前クールに放映されていた『亜人ちゃんは語りたい』に夏川椎菜雨宮天が出演していたのとは好対照である。

 

 兎角、ここまで『エロマンガ先生』の魅力を語ってきた。

この作品の魅力は、おおよそ以下の2点である。

・ヒロインたちがみんな可愛いよブヒィィイイイイイイイイ!!!!!

・アニメスタッフの頑張りでもっとブヒィィイイイイイイイイ!!!!!!!

 

身も蓋もないことを言えば、この作品が優れているのはあくまで「商品」としてである。「商品」として優秀、頭からっぽにしてブヒれる、頭からっぽにして楽しめる。

エロマンガ先生』が放映された2017年春は、実は私の仕事も忙しくて、だから『エロマンガ先生』を面白いと感じたときは、「疲れてるのかな」と感じたものだったが、改めて見てもちゃんと面白いから困ったものである。

ちなみに翌クールは『アホガール』にハマった。

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さて、そんな、激推しの、激烈効果ブヒりサプリメントである『エロマンガ先生』だが、なんと2018年10月からの、TOKYO MXとちぎテレビ群馬テレビABCテレビBS11での再放送が決定した。

祝・再放送。

みんな見てくれよな!

 

*1:同様の例に、細田守におけるケモショタがある。

*2:もちろん、妹を攻略対象とした美少女ゲームは90年代から枚挙にいとまがないが、それでもラブコメという誰とくっつくのか分からない(けど実際にはわかる)というフォーマットの上で、堂々と妹を出してきたことは衝撃だった。

*3:よく体重の乗っていそうな、良いパンチである。

*4:ちなみにこの2話で、一緒に住んでいる兄弟と恋愛はあり得ないと政宗は口にするのだが、こうして身内の女性と恋愛対象としての女性が同列に語られている時点で説得力はない。

一色いろは後輩が可愛い

いきなりで申し訳ないが、一色いろは後輩が可愛くて仕方がない。

可愛いよぉ~いろはすぅ。なんなら一万年と二千年前から愛していたまである。

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前回の記事で、最近映画を観ていないと書いたが、あれから半月ほど経った今もそれは変わらない*1

そんな中でもアニメは録画して、それを見ている。アニメは惰性で観れるからいいよね。『よりもい』とか超泣けるし。軽く死ねるし。

その一環として、先クールの途中からTOKYO MXで再放送されている『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』略称「俺ガイル」を見ている。

少し前から2期に入った。作品の主要人物である比企谷八幡江口拓也)、雪ノ下雪乃早見沙織)、由比ヶ浜結衣東山奈央)の所属する奉仕部の空気は最悪だが、それはそれとして、3話から登場した一色いろは佐倉綾音)後輩が可愛い。越えちゃいそう、いけないボーダーライン

 

事の次第はこうだ。

奉仕部とは、主に生徒からの依頼を受けて解決に動くことを目的とした部活動である。

その奉仕部に、生徒会長選挙に立候補させられてしまったが生徒会長はやりたくない、しかし惨めに落選というのも嫌だ、という一色いろはの依頼が舞い込んでくる……。

 

まず立候補「させられて」いるのがヤバい。何それ。どこの美少女コンテスト?

しかし、封筒一通のコンテストとは異なり、生徒会長選挙は一定数以上の推薦人が必要で、個人が陰でパッと行えるものじゃない。しかも生徒会長など、目立ちはするが評価されるポジションでもない。それに勝手な立候補させるなど、言わば晒しあげであり嫌がらせに近い

つまり、一色いろはには、彼女を貶めたいと思っている敵が一定数以上いるということだ。

 

上に貼った動画は、一色いろはの可愛いシーンを詰め込んだもの。可愛いですね、はい復唱。可愛い。誰だ、うざいって言ったの。さてはアンチだな、オメー。

でも、彼女を憎たらしく思う人が多いのも頷ける。タイトルからして「あざとい」って入ってるしね!

あざといよー、いろはすぅ。なにこの亜麻色の髪の暴君。なんならあざとさ爆弾で死者が出るまである。

 

そう。彼女はあざとい。それも、あざとい人たちに共通することだろうが、それをしておくことで自分に大いに利すると分かってやっているし、彼女の場合、自分の容姿によってそれがよりプラスになると踏んでやっている。

あー、もうウザいなー。ウザったらしいなー。分かってやってるんだもんなー。

憎まれっ子世にはばかる、という言葉がある。憎まれ役を買うようなやつほど、むしろ世間では幅を利かせるという意味だ。人のことをぶん殴っておきながら、えいえい、怒った? なんて訊いてくるやつほど、最初に人を殴れるって点で人より抜きんでてしまっているわけだ。ごとう きよはる てめェーだよ てめェー。

一色いろはが結局は生徒会長になってしまう様はまさにこの典型と言われそうだ。しかし、何にしたって可愛い。人目も憚らず言えちゃいそう。世界一可愛いよ! 何をしてもカワイイ。カワイイの前では服従って、それ前前前世から114514回言われてるから!

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どうにも私はこういうキャラに弱い。こういうってのはべつに「あざとい」ってことじゃない。いや、違うからね、本当だからね!*2 南ことりのこととか、その、ぜ、ぜ、全然、すすすすす好きなんかじゃ、ねーし!*3

「こういうキャラ」というのは、本来の意味のリア充っぽいというか、彼らが人間関係を築く際にも発揮されていたのであろう「器用さ」を持っているキャラのことである。

恋とは憧れに近しく、そして憧れという感情は理解から最も遠い、とよく言われるが、このリア充系=普通っぽいキャラクタを魅力的に思うのは、自分自身へのアンチテーゼとしての憧憬的感情がおそらく根幹にある。勿論、そのキャラ類型がオタクカルチャーにローカライズされた、非リアルなものであると知りながら。

私はいまだに、自己投影を--またはその逆を--基準にしてアニメを見ている。

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兎角そんなわけで、一色いろは後輩が可愛い。『ハイスコアガール』の日高小春もすっこしでも気を引きたい純情な乙女心で可愛いが、それとは別ベクトルでやっぱりいろはすが可愛い。

この「おっかしいなー。わたしに一目惚れしない男の子なんているわけないのに」とか言い出しそうな感じ、たまらない。ごめん、ヘルシェイク矢野のこと考えてる暇ない。

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2期はこれから生徒会長選挙、合同クリスマスイベント、葉山隼人近藤隆)の進路の話と進んでいき、そして、一色いろはの存在感も増してくる。結婚しよ。

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私は年甲斐もなく、佐倉綾音のあざといボイスを楽しみにして、こんな残念系(ぼっち系)+俺TUEE系*4なアニメを観ている。高校生活なんて遥か昔の話に思えるし、同じく俺TUEEするなら、そして主人公の物語開始時点の属性に「ぼっち」を求めるならば、それこそ異世界転生系を見ればよいのに、千葉の高校を舞台にしたアニメを観ている。

べつにアニメなんざ観たいものを観ればよい。『プリキュア』は朝から泣けるし、猫娘は可愛い。しかし、そうばかりも言っていられない。「俺ガイル」は、間違いなくメンタルに悪い。陰キャレベルの上昇が留まるところを知らない。なんなら自意識高まりすぎて他界するまである。

 

悪影響を自覚の上で、一色いろはを愛でるために「俺ガイル」のアニメを視聴し続けるか否か。愛はどんな困難も乗り越えられる、というクリシェはもちろん嘘っぱちなのだが、愛ですらそうなんだから況や――。こんだけ可愛い、可愛いって言ってきたけど、べつにいろはす、推しじゃねーし。まあ、可愛いんですけどね。

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先述の通り、アニメにおいて一色いろはの存在感はこれから増してくる。アニメスタッフはおそらく、意図的に彼女を3人目のヒロインとして扱おうとしている。とは言い条、物語の始まりからして「俺ガイル」は明らかに奉仕部の3人の物語であり、彼女は蚊帳の外にならざるを得ないのだが。まあ、だからこそ変に感情移入せず、漠然としたイメージだけでブヒれるってのはあるけれど。可愛いよ、いろはすぅ。

ヤバげな、面倒臭そうな空気を敏感に察知してこそっと逃げおおせるところとか、どうすれば自分が魅力的に見えるかわかった上で実践してみせるところとか、人への頼り方=押し付け方とか……なんだこの、実質的な逆説的な自分語りは。まあ、好意的な対象について語ることは自分自身について語ることとほとんど同義だとか言う気がするしね! わーい! すごーい! たのしー! きみはしたたかに生きるのが得意なフレンズなんだね!*5

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さて、アニメは原作11巻までを扱っている。現在、原作小説は12巻まで刊行されていて、今年の10月に13巻が刊行される予定だ。2年、1年というスパンでの新作刊行は、ライトノベルのシリーズとしては顕著に遅い。そろそろ畳みたいのだろう、と思いつつも、このペースを見ていると畳めるのだろうか、と勘繰ってしまう。「涼宮ハルヒ」シリーズとかね!

アニメを見たのも実は2期からだったのだが、今回の再放送で1期を見て、これで全話を一通り1回は見たことになってしまった。12巻は刊行後即座に買い、読んだ。つまり、一応は追ってきたシリーズということになってしまったので、今後シリーズがどうなっていくのかは気になるところではある。

この記事を読んだ方の中には、同様に今後が気になる方も、べつに興味ないけどとりあえず読み進めてきたという奇特な方もいらっしゃるだろう。

どちらをも満足させられた自信はないし、片方だけでも十二分に怪しい気はしている。だからこんなことを言うのは少々憚られるのだが、しかしどちらの方にも、ひとまず今日、これだけは覚えていただきたい。

一色いろはは、最強あざとい、したたかな後輩である。

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*1:書いている途中で実は2本(『龍の歯医者』『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE 二人の英雄』)観た。

*2:「激レアさんを連れてきた」の弘中綾香アナウンサーを見て爆笑している時点で説得力はゼロ。

*3:はい、チュンチュン(・8・)

*4:人間関係という彼らにとっての大きく解決困難な問題を、それまでに培った観察眼で、大きな努力の描写もなく解決してしまうのだから、俺TUEE系だろう。

*5:彼女のそのスタンスも、物語が進むにつれて比企ヶ谷らとの交流を経て、スクラップアンドビルドされる方へと変化していくわけだが。

『センセイ君主』の予告が飛ばしすぎてる

映画の予告編は面白い。時にこれを世紀の発見であるかのように誇らしげに喧伝する人が居るが、映画の予告編はわざわざ発見されるまでもなく面白いのである。

何故ならば、まず観客の興味を惹くために面白い見せ場のシーンだけを流すからである。面白さのコンデンスミルク。本編の良いところをすべて予告で出し切っていようと、本編を観に劇場に足を運ばせた時点で鑑賞料はもう懐にあるわけだ。憎いね、この。

 

予告が面白いと言うことは、当たり前のことを確認することに他ならない。

または、時にコミカルなシーンじゃないはずなのにちょっと笑えてしまうシーンが含まれていたときにそれを揶揄して言うに過ぎない*1

しかし最近、とある映画の予告編でたいそう度肝を抜かれた。これはシーンを面白シーン詰め合わせ的予告の域を出ているし、ちゃんと掛け値なしに面白いと言えるものだった。それがこれである。



幸田もも子センセイ君主』を、『君の膵臓をたべたい』『となりの怪物くん』の月川翔が監督した、まあよくある少女マンガ実写化作品である。というか月川翔ってなんだよ、ホストかよ。

そして今作の"イケメン"である弘光先生を演じるのは国民の彼氏を自称する竹内涼真。盤石の布陣すぎて怖い。

 

そんな『センセイ君主』の予告の凄さを説明する前に、少女マンガ原作映画の予告にありがちなことを挙げよう。

まずメインヒロインの女の子に彼氏ができる場面から始まる。多くはどこか性格に難がある*2。しかしなんだかんだ付き合っているうちに、距離が縮まってくる。

予告が半分すぎたあたりで一瞬静かになり、良い感じのミディアムバラードが流れはじめる。

迎える危機。そして静かなカット。

タイトルが読まれる*3

 

そういうタイプの予告は、主にメインヒロインとイケメンの人物像を提示し、二人の関係がどう変化していくのかを映すわけで、それはたしかに映画の情報を周知するものになりえているかもしれないが、長々とした物語の説明にすぎない。

 

改めて『センセイ君主』の予告を観ていく。

全体を通して、主題歌であるTWICEの「I WANT YOU BACK」を流しながらコミカルなシーンを繋げて見せていく構成になっている。そこに涙を誘うフックとなりそうなものの香りはしない。この「軽さ」は、主題歌のボリュームが大きくなって以降特に高まり、矢本悠馬川栄李奈が「ふーたりさくらんぼー」と歌い、それに浜辺美波が「いーやー」とリアクションする場面でその頂点を迎える。

しかし、この物語の説明を放棄したような予告が、実はものすごく巧みなのである。

 

竹内涼真がピアノを弾きながらジャケットを少し脱ぐシーン、これはもう冒頭から色気たっぷり。ね、この竹内涼真がイケメンなんっしょ。わかるわかる。んでお相手は? ってなタイミングで現れる浜辺美波。やたらクルクル回るなこいつ、と思っているタイミングで教壇に立つ竹内涼真

キャー! 今回の竹内涼真は先生なのね! そして先生と生徒の禁断の恋! ――とこの11秒でまずどの立場の二人が恋愛する映画なのかが分かる。

直後、ヒロインのやや怖い顔と音楽の変調から、この浮かれた恋*4が一筋縄ではいかないこと、どうやらこのヒロインにも少女マンガの恋愛における大きな問題が潜んでいそうなことが分かる。

 

直後、浜辺美波演じるヒロインの佐丸あゆはが、彼氏いない歴=年齢で、恋に恋する16歳であることが一瞬だけテロップで示されるが、それよりも特徴的なのは彼女の多弁さだ。その多弁さは、ゴシック体の過剰なテロップにより強調される。

「ドキドキときめいたりするのって二次元だけの話!?」

これに対し、川栄李奈演じる中村葵は「ばーろー」「ガチ恋したら胸ボンババぼんだっつーの」と応じる。このワンカットから、たぶん葵はあゆはの恋愛相談にアドバイスを返して物語を動かす狂言回し的な「いいやつ」なんだろうなということが分かる。

「だーよねっ」と振り返りざまに言うあゆは。あ、絶対にこいつアホだ。

 

あゆはがアホであると察された直後に出て来る竹内涼真演じる弘光由貴。こちらのテロップは情報量が少なく、また表示時間も長く読みやすい「数学教師 頭脳明晰」

そんな弘光先生が「運命の人」であると思ったあゆは。先の「二次元だけ」のフレーズも相まって、恋に恋するタイプであることが、テロップを見落としていてもここで分かる。

イメトレをしながら走るシーンや多弁さから、アホさに加えて猪突猛進さも備えておりまた危なっかしいことも分かる。その証拠に彼女は赤信号に突っ込んで自動車に轢かれかけている。それを弘光先生がバッグを掴んで止めてあゆはは九死に一生を得るのだが、その際の「ゔっあぶねっ」という野太い声は、やはり彼女が少女マンガの恋愛においてかなり恋愛偏差値の低いキャラであることを雄弁に主張する。

 

道路に飛び出しかけたあゆはを止めた弘光は、「危ないだろ」などと怒鳴るのではなく冷静に「赤は『止まれ』って教わらなかったですか?」と丁寧語で、問いかける形で言う。

ここでは、超ドSな俺様系イケメンのように横暴ではなく、またあゆはのことをパッと止められるように周りが見えており冷静である弘光の性格が表現されている。

そして、猪突猛進/冷静、アホ/頭脳明晰、教師=教える側/生徒=教えられる側という複数の二項対立がこのイケメンとヒロインの間には存在していることがここで分かる*5。ちなみにここまで41秒である。

 

つまり、「物語の説明を放棄」と言ったが、むしろこの予告は、分かりやすいナレーションこそ入らないが、ちゃんと物語を説明していたのだ。

ブコメの物語の説明に必要な要素は、男と女の性格、二人の立場、出会い方、そして最初の関係性である。

これらは上述したように、すべてナレーションなどの過剰な説明を挟むことなく極めてコンパクトに、そしてそれゆえに非常にテンポよく語られていた。

これは、私がこの予告を高く評価したポイントその1である。

 

続きを見ていこう。

弘光の「赤は『止まれ』」のセリフを受け、「甘いですよ、先生!」とあゆはは応える。

そしてラジカセのボタンを押すのに合わせてBGMのボリュームが上がる。

「好きが踊ると、恋が始まる」

続けて出て来るのは、弘光先生と肉体的に接近し、それこそ胸が「ボンババぼん」しそうなシーンを短めにいくつも映し込み、「俺を落としてみなよ」とぶっこむ。

え!? マジっすか!? そんなこと言っちゃうんすか、マジで!?

と、国民の彼氏まさかの爆弾発言にビックリしている間に、カーステのつまみが捻られ、またもBGMのボリュームが上がる。

ここから予告はキャスト紹介になるが、そのあとは、くだんの「ふーたりさくらんぼー」につながっている。

 

BGMのボリュームが上がって以降は、この映画がどんな雰囲気の映画かをアピールすることにより注力した構成となっている。

もちろん、こういう映画に大事な、イケメン役たる竹内涼真にキュンときそうなシーンのチラ見せは欠かさないが、それよりも特徴的なのは、BGMと全体を覆う「軽さ」だろう。

先述したが、中村葵の「この恋愛バンビちゃんがー」以降にその傾向はピークを迎える。それはもはや露悪的とすら言ってもいいくらいだ。「ふーたりさくらんぼー」の後にあゆはは耳を塞ぎながら「いーやー」と叫んでおり、それが何やら聞きたくない、耳が痛いことであることは分かるが、どうしてなのかがぶっちゃけ分からない。

 

しかし、そのことはこの予告編の良さを貶めるものではない。

その前にまずBGMの話をするが、「I WANT YOU BACK」は言うまでもなくジャクソン5のカバー*6であり、R&Bルーツの曲らしくリズムに乗りやすい曲となっている。だからこそ予告編の「軽さ」が強調されるわけだが、より大事なのはアーティストだ。

TWICEは韓国発の女性アイドルグループだが、このファン層がガチで若くて女性に偏っている。

 上に引用した記事ではLINEアンケートが行った好きな女性アイドルグループ調査の統計データが紹介されているが、ファンの内女性は66%で、年齢層で言えば10代が34%、20代が27%である、という。

 

有名曲のカバーなので巧妙に隠されているが、この予告は全編そのTWICEの曲がかかっているのである。これは西野カナが冒頭からかかる『となりの怪物くん』の予告より本来ならば人を選びそうな事態である。



そう。人を選ぶのだ。これはきっとその後の、あゆはの猪突猛進すぎるノリもそうだし、全体的に「軽い」感じもそうだろう。

センセイ君主』の予告が全体的にその雰囲気で伝えるのは次のようなことだ。

これはエンタメに振り切っています、こういうテンションです、主題歌はTWICEでこんなノリのシーンが出て来ます、この感じがハマる人はどうぞお越しください。

 

そのようにして、この予告は、これでもかとターゲットを絞りにきている。きっと10代女子に。

予告があくまで映画館やYouTubeで見れる広告である、と考えればむしろこれは正解の手法なのである。全方向を向いて、ぼんやりとした広告を打つよりよほど良い。

この振り切り具合が、私がこの予告を高く評価したポイント2である。

 

多くの予告編では、ここまでテンションを伝えようとはしていないし、またここまで振り切ってはいない。こと少女マンガ原作の実写映画においては、「伝説の少女マンガ」のようなテロップやナレーションを入れることによって、あとはどういうものか分かるでしょ、と観客の予備知識に丸投げしている部分でもある。

これをちゃんとこれだけやった、という「ポイント2」の方に、私はむしろ驚いた。

これがあるから「ニッポンの恋を明るくします」というキャッチコピーに説得力が出る。

 

さて、「きっと10代女子に」と上述したのは何も当てずっぽうではない。

それは統計データが示すTWICEのファン層にもよるが、以下の記事も参考にできる。

こちらでは、明確に「10代女性」がメインターゲットになりうる旨のことが書かれている。

つまり、主題歌担当アーティスト*7のファン層やノリ、学園もので先生との恋愛という設定から10代女子向けと言ったが、そこにはそうであってもおかしくない背景がある、ということである。

実際、『センセイ君主』は特異にも、通常の映画が土曜日または最近は金曜日と週末に合わせて封切を迎えるのに対し、週の中日である8/1(水)が公開日となっている。

これは、もう夏休みに入っている学生を狙いにいっていると邪推しても、そう相違ないのではないかと思えてしまう*8

 

今回は、情報の詰め込み方が上手く、またテンションを伝え、ターゲッティングを行えていた(ように思えた)という2点において素晴らしい『センセイ君主』の予告を紹介した。正直、もうほとんど満点なんじゃないか、と思う。

つい先ほども書いたが、『センセイ君主』は8/1(水)に東宝系ほかで公開される。

陸王』『過保護のカホコ』などの竹内涼真、『君の膵臓をたべたい』『崖っぷちホテル』などの浜辺美波という旬の2人をダブル主演に迎えた一作。

この夏、観たい映画の一本に加えてみてはいかがだろうか?

 

 

 ……あ、私ですか?

見に行かないですよ、TWICE、全然分かんないですもん。

 

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*1:OVER DRIVE』の「ビビった瞬間負けなんだよぉ」とか。

*2:そしてたいてい俺様系で超ドS。

*3:メインヒロイン単独の場合もあれば、イケメンと声を合わせるときもある。またワーナー系は、それいつも同じ女性の声。

*4:この推測は無論BGMから成り立つ。

*5:先述した弘光の「赤は~」のセリフはテロップが出ない。これもあゆはとの対比になっている。

*6:当時の邦題は「帰ってほしいの」。

*7:アーティストが、新曲は○○のタイアップだと紹介するとき、アーティストもまた広告となる。

*8:ファーストデイ料金は、高校生料金より高いのでおそらくあまり関係ない。

ダリフラ、もうこれRADWIMPSの歌詞だろ

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自分でいきなりこういうことを言い出すのもなんだが、私は陰キャ側の人間であり、体育会系か文化系かを問われれば間違いなく後者である。そうすると必然、周りにも文化系の人間が多くなり、時に観ているアニメの話になることもある。そこではさまざまなアニメの名が出る。

しかし、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』(以下、「ダリフラ」と呼称)の名を聞くことはほとんどない。

 

ダリフラ」は、TRIGGER・A-1 Pictures*1共同制作のオリジナルロボットアニメーションである。

高エネルギー効率を持つ「マグマ燃料」の採掘により、地殻変動や環境破壊が進み、また地底から現れる謎の巨大生物叫竜きょりゅうにより生活を脅かされた人類は、巨大要塞都市を建設しその中で暮らしている――物語は、そんな世界を舞台としている。

上述した内容と被る部分もあるが、公式サイトのイントロダクションを引こう。

遠い未来。人類は荒廃した大地に、移動要塞都市"プランテーション"を建設し文明を謳歌していた。

その中に作られたパイロット居住施設"ミストルティン"、通称"トリカゴ"。コドモたちは、そこで暮らしている。外の世界を知らず、自由な空を知らず。教えられた使命は、ただ、戦うことだけだった。

 

フックは大きかった。TRIGGERが満を持して送り出すロボットアニメ、匂わせがすぎる意味深な設定の数々エトセトラ。

実際、最序盤はツイッターまとめサイトでも感想を見かけた。しかしまあ、正直言ってちょっと釣り針が大きすぎた。下図はコドモたちが男女二人組で乗り込む巨大ロボット・フランクスの操縦シーンなのだが、まあなんとも露悪的である。

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特にこの操縦法が初めてお披露目となった第二話は、RCサクセションの「雨あがりの夜空に」ばりにダブルミーニング全開で、セックスのワンシーンを思わせる言葉がこれでもかと散りばめられていた*2。これによりお色気枠やエロバカアニメ枠と早合点されてしまった感は否めない。

また過去のロボットアニメやガイナックスアニメ*3の意図的な反復は、当然過去作との比較を呼び、そして結果的には表面的な模倣に過ぎないとして落胆を生んでしまった。

そして本来の釣り針であったはずの不穏な設定は、 それが物語内で伏線として現れたり回収される頃には、もうあまり話題にされなくなってしまっていた。

 

そんな「ダリフラ」だが、最新話では実はこんなことになっている。

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主人公であるヒロ(上村祐翔)とメインヒロインであるゼロツー(戸松遥)の機体であるストレリチアは火星付近まで飛翔し、叫竜ではなくむしろ彼らと共に宇宙からの侵略者VIRMと戦闘しており、その過程で上図のような姿になった。わけがわからないよ……。

どうしてこうなった……感は正直否めない。しかし一つ言えることがある。これが愛の力の為せる業だということだ。そしてそれ故に、「ダイミダラー」だの「エヴァ」だの過と言われていた本作は人気ロックバンド・RADWIMPSの初期曲の歌詞みたいになってしまった。

どういうことか。それを述べる前に、まずは「ダリフラ」内の勝利のロジックについて記述を通じて「愛の力」について書こう。

 

多くの作品には、目標達成ためのロジックが内部的に用意されている。あるいは「勝利条件」と言い換えてもよいかもしれない。

作劇では基本的に、直接それが大事と語らずともこのロジックを以て、作品が伝えたい価値観やテーマを表現する。

例えば上に引いた記事で紹介した映画『ちはやふる 上の句』においては、瑞沢高校かるた部が北央高校に勝利したのは、瑞沢が「本当のチーム」になったからだった。

ダリフラ」において勝利の鍵は「愛の力」だった。 

描かれるのが人類が到底太刀打ちできそうにない相手との戦闘である以上、なかなか一筋縄では行かずピンチに陥ることもある。しかしそのたびに、メインで描かれる13部隊のコドモたちは愛の力で以て危機を脱した。

当然ヒロとゼロツーにも危機は訪れた。二人の仲は幾度も引き裂かれそうになったが、最後は和解して愛を囁き合った。そう。二人は幾度も愛の力を発揮したのだ。これは他のコドモたちには見られない特徴である。そしてそれ故に、ストレリチアはあんなことになってしまったのだ。

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作品的には危機を次第に大きくして盛り上げる必要があるので、危機に陥るたびそれは次第に解決が難しいものになっていく。その度に、解決のために発揮される愛の力は大きくなる。ゴムの先にボールを付けて投げると、強く投げた方が遠くに飛び、そして勢いよく戻ってくるように。この愛の力のインフレが、その発揮に伴って生じるストレリチアのパワーアップをこれほどまでのものにしたのだ。

 

ここでようやくRADWIMPSの話に入れる。

RADWIMPSの魅力はなんだろうか。リズム隊、技巧的な楽曲など。売れているバンドだけにいろいろ実際にはあるのだろうが、その中でも私が注目したいのは歌詞である。

しかし歌詞が魅力と述べた際に付きまとう「共感できる」というフレーズに反し、フロントマン野田洋次郎の書く詞は安易な共感を拒絶するが如く尖りまくっている。

上に引いた記事で上田啓太氏が述べているように、野田の歌詞は「恋愛でベロベロに酔っぱらった状態で書かれている」。これは特に、自身のバンド名をアルバム名に冠していた4thアルバムまでの「初期」において顕著である。

野田の恋愛詞において、恋愛対象(主に女性)は過度に感情移入され崇拝されるかもしくは人類の敵であるかのように語られる。

だって君は世界初の 肉眼で確認できる愛 地上で唯一で会える神様

誰も端っこで泣かないようにと君は地球を丸くしたんだろ? だから君に会えないと僕は 隅っこを探して泣く 泣く

RADWIMPS- 有心論

途中から恋人を勝手に「神様」にしたのに、その直後からそれは当たり前のこととして「地球を丸くした」と語られる。この暴走っぷりは、しかし恋の病の状態を詞に落とし込んだらこうなるという形そのものだし、だから若者の人気を掴んだのだろう。

 

ダリフラ」において幾度も愛の力を発揮したヒロとゼロツーは、どんどんその親密さを深めていったが、そのことに起因するストレリチアのパワーアップは正直言って常軌を逸している。

最初から極端に強いことは除いても、他のフランクスが二足歩行をしている――最新話では特に説明もないまま宇宙空間で戦闘できるようになっていたが、あくまで常識的なサイズの人型を保っている――のに対して、ストレリチアは最新話に置いて上に貼った図のように超巨大になり――他のフランクスは目ほどの大きさしかない――ケンタウロスのようなフォルムになりかつ思いっきりゼロツーの顔になっている。

このフォルムは、明らかにほかのフランクスたちと異なっており、そのパワーにも歴然とした差がある。これを「常軌を逸している」と言わずして何と言おう。

 

愛の力が危機を乗り越える力を与える=パワーアップをもたらすならば、これだけのパワーアップを齎したヒロとゼロツーの愛もまた常軌を逸しているということになる。

ここで第15話において、ストレリチアの新フォームが登場した回の会話の一部を載せよう。

「ゼロツー!」

「ダーリン!」

「ゼロツー!」

「ダーリン……ダーリン、ダーリン! ダーリン!!」

「ダーリン……ボクは君と出会えてよかった! 大好きだ!」

「ゼロツー! 僕もだよ! 君が大好きだ!!」

「ゼロツー! あのドームだ。行ける?」

「もちろん! ダーリンとなら!」

ダーリン・イン・ザ・フランキス』第15話「比翼の鳥」より

ゼロツー、ダーリンうるせえよ。お前は「しるし」の桜井和寿か。

そして「あのドーム」まで「行ける」=届くか、と問われた際に「もちろん」と答え、その根拠に「ダーリンと」一緒であることを挙げる恋を根拠とした万能感は、気持ちが燃え上がるあまり周囲が見えなくなってしまったカップルのそれである。

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新フォームのパワーは雲を晴らし青空が顔を出す。青はセカイ系の色ですね。

上述のセリフだけではベタ甘なだけで、凡庸なラブソングと変わらないじゃないか、と思われるかもしれない。

しかし作中においてコドモたちは性愛の知識を禁忌とされ、「好き」という言葉も感情もゼロツーとの接触なしには知り得なかったのだから、あのベタ甘は私たちが通常感じる以上にベタベタの甘々なのだ。そして、ほかのコドモたちは、男女二人がメインで扱われる回であっても「好き」という言葉を交わすことはほとんどない。

これに対して、16話以降のヒロとゼロツーはスキあらばイチャついているし、何よりストレリチアのパワーアップ回においては、たびたびイメージの世界で交流し、お互いに「好きだ」と再告白し合い、濃厚なキスをしている。そもそも、火星付近になんか魂があるらしい恋人と「迎えに行く」と約束したから、と宇宙に行くことを即決できている時点でぶっ飛んでいる。

六星占術だろうと 大殺界だろうと 俺が木星人で君が火星人だろうと 君が言い張っても

俺は地球人だよ いや、でも仮に木星人でも たかが隣の星だろ?

一生の一度のワープをここで使うよ

(RAWIMPS- ふたりごと

 

私は二人の恋愛/愛の力の熱量を前にして、物語が進むたびに「いや、お前もはやこれRADWIMPSの歌詞やろ」と言いながらたじろぐほかない。

イメージの世界で睦言を変わり始めた瞬間、頭のなかでは「スパークル」が大音量で流れ始める。

運命だとか未来とかって 言葉がどれだけ手を 伸ばそうと届かない場所で 僕ら恋をする

時計の針も二人を 横目に見ながら進む こんな世界を二人で一生、いや何章でも 生き抜いていこう

RADWIMPS- スパークル

 「二人で……絵本の最後を書き換えよう」

「ダーリン……」

「誓うよ……永遠に離さない」

ダーリン・イン・ザ・フランキス』第23話「ダーリン・イン・ザ・フランキス」より

 

ぶっちゃけ作劇上の瑕疵とか言いたいことはいろいろあるが、ここまでくると、二人が幸せならそれでいいや、みたいな気分になって来る。

振り切れた恋愛物語の強みは、案外そんなところにあるのかもしれない。

二人の来るべき幸せなシーンの上には、これまでがそうであったように曇りなき青空が広がっているに違いない。

恋してるんだ。恋空……*4

 

*1:A-1 Pictures高円寺スタジオが2018年3月からClover Worksと改名しブランド化されたことに伴いクレジットも変更。

*2:乱暴にしないで」「中に入っていく」「下手くそ」など。

*3:TRIGGERにはガイナックスから独立したアニメーターの多くが在籍している。

*4:これが言いたかっただけ。ちなみに『恋空』の主人公は美嘉でその彼氏がヒロ。「ダリフラ」のOP主題歌を担当するのは中島美嘉である。まさか、ね。

ジョンソン&ジャクソン「ニューレッスン」感想

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6/27水曜日、仕事帰りに渋谷に行った。

ジョンソン&ジャクソン「ニューレッスン」を観るためである。

 

ジョンソン&ジャクソンは、ナイロン100℃の俳優・大倉孝二と劇作家・演出家のブルー&スカイによる演劇ユニットだ。

このうちブルー&スカイは、元々猫ニャー(のちに改名し、演劇弁当猫ニャー)の旗揚げメンバーで、全作品の作・演出をしていたのだが、猫ニャーの特徴はナンセンスコメディ、このレビューによると、ブルー&スカイ*1は「小劇場で"ナンセンス"と言えばこの人」という存在だったようだ*2

その彼と、これまたナンセンスや不条理を出自とするナイロン100℃の大倉がわざわざユニットを組むのだから、必然ジョンソン&ジャクソンもナンセンス志向になる。

ナンセンスと口で言うのは簡単だ。あの芝居はナンセンスだよ、と評すのも簡単だ。しかしその魅力はその場で体験してみないことには伝わらないし分からない。果たしてどんなものなのか、そう思って足を運んでみた。

これはその感想文だ。上記の内容を踏まえるならば、ナンセンス劇の感想文はほとんど意味をなさないということになるが、都合の悪いことは忘れていくのが社会でうまく渡っていくコツであるらしいのでその練習がてら書き進めることにする。

 

 

まずは「ニューレッスン」のあらすじを書こう。

柳田(大倉)は、社長の息子(ブルー&スカイ)の紹介でとある仕事に就き、彼はそこで最ベテランである白川妻(池谷のぶえ)の指導を受けながら仕事を覚えていく。薄給で彼も貧乏だが、それでも彼は大いなる野望のためにそれをなさねばならなかった。

物語にはこのほかに、雑誌「まなりき」の創刊を目指す白川夫(いとうせいこう)、白川妻の兄(池谷のぶえ、2役)、白川夫の新しい妻(小園茉奈)が絡んでくる。

 

柳田の野望は「金も大事だが、愛も大事である」という言葉が世に浸透し、世の中の人が愛に目覚めるような効果を持つ「愛の館」を建築することである。そのために、彼は館の構想を練らねばならず、またお金を稼ぐ必要があった。

そんな彼の夢は、世のあらゆる愛をまとめた雑誌「愛の力」創刊を目指す白川夫に一笑に付される。柳田は白川夫を最初は軽蔑するが、柳田が白川妻の大腸から取り出した15年前の雑誌に白川夫が柳田と同様のテーゼを幾度も繰り返す論文を掲載していたことを知り、感銘を受け、是非とも弟子入りしたいと思う。

だが、実は白川夫は借金で首が回らなくなっており、「金も大事だが愛も大事」の先を行く「金も大切だが愛も大切」を説く愛のレッスンをしてやりたいが、先立つもの=金がなくては……という状況。しかし柳田にも金はない。そこで柳田は、世の人の大腸から金品を盗み取る大腸専門の掏摸をすることでレッスン代を稼ごうとする。

 

このあたりで一旦やめよう。

上述のあらすじは、その芝居を見ていない人には一切意味がわからないと思うので、主に大腸のくだりを説明していこうと思う。

そのためにまずは、物語最序盤の話をする。

 

客入れ音楽が大きくなり暗転する。開演である。明転したとき、舞台上には書割の熊がある。また白川妻が板付きでおり、熊の肛門と思しき位置に手を突っ込んでは、ぐちゅぐちゅというSEと共に「何か」を取り出し、バケツに投げ込んでいる。

そして話は、上述した、柳田が新しい仕事に就き白川妻の指導を受けるシーンに続いていく。

白川妻がしており、また柳田が従事することになる仕事とは「書割の熊の大腸を掃除する仕事」*3である。

 

この情報をもとに、再度物語を見てみよう。

柳田は、書割の熊の大腸を掃除する仕事で身につけたスキルで、書割の熊に挟まれた白川妻の大腸から15年前の「愛の力」を取り出した。白川妻は非業の死を遂げるが、仕事およびその白川妻の際の経験をもとに、大腸専門の掏摸となる。通行人の大腸から金品を盗み取ることで、15年前の「愛の力」誌上に愛の論文を執筆した白川夫のレッスン代を何とか捻出せんとしたのである。そして、柳田は一度掏摸の現場を押さえられるなどしたが、最終的に何とかレッスン代を手に入れる。

 

物語には2つのレッスンが登場する。白川妻による大腸の掃除のレッスンと白川夫による「金も大切だが愛も大切」のレッスンである。そして、物語のより後半で出て来る後者を受けるため、前者で得たスキルを用いるという構造をとっている。だからニューレッスン*4

この構造だけを見るならば、かなりしっかりした作品にも見えて来る。実際、私も観劇直後はそう思った。しかし数秒後、芝居の内容を振り返ろうとした途端に、頭がぐらぐらするような感覚に襲われることとなった。

何しろ、肝心なことは何一つとして説明されていないのである。説明されることなく事態は進行していき、そして皆が静かに狂っていた。

 

作品中のキーワードは、以下が挙げられるだろう。

書割の熊、愛の館、「金も大事だが愛も大事である」(「金も大切だが愛も大切」)

 

書割の熊だが、これは脚注3のとおり、あくまで「書割」として扱われる。

だから非生物である書割の熊の大腸を掃除して何が出て来るのかが分からないのだが、これについては一切言及がない*5し、それどころかそもそも誰も気にしていない。途中、池谷のぶえが、大腸から取り出しバケツの中に溜めた「何か」をパン生地のようにこねるシーンがあるが、何のためにこねているのかは微塵も分からない。

ちなみにこいつは、何年も前に白川妻兄が作成したものだが、その当時から社長の息子のパパ=社長(ブルー&スカイ、2役)の言う新事業に関わっているらしい。しかし、書割の熊が事業とどう関係するのかは一切語られない。なおこれは、最ベテランである白川妻も知らないそうで、物語開始当初は少し気にしているのだが、社長の息子が説明しようとすると柳田と白川妻から明確に拒否され、結局最後まで語られることはない。

 

愛の館の構想は、最後まで語られることはない。

語られるシーンは、そこだけピンク色の照明が入り、柳田が、愛の館が存在しないという謝罪⇒存在するんです! を繰り返して言うだけでそれ以上の情報は出てこない。

しかし、彼の中で着実に構想はできつつあるらしい。

だが、これよりも謎なのが「金<愛」である。

 

この説を唱えるのは柳田と白川夫だが、2人とも金がなくて困ることになる。

つまり彼らにとっては、金が何より大事な状態が訪れ、そして実際にそれを何とかすべく金策に走るのである。

柳田は大腸専門の掏摸をすることで、白川夫は老人の寝汗と水あめを掛け合わせることで。

また「金も大事だが愛も大事」から「金も大切だが愛も大切」へと白川夫の哲学は変遷するのだが、この差異がイマイチわからない。これに対し柳田は、「なんかこう、一段と深みが、増したような気が、する」と言っている。

しかし愛を語るには、柳田には社長の息子意外に親しい人がいない(社長の息子には、一緒に妖精が何色かを考える恋人がいる)し、白川夫は妻の死後4,5日で新しい妻に田舎のヤンキーみたいなプロポーズをしている。

つまり彼らにそれを説く資格は物語上存在しておらず、また肝心のテーゼについても、わざとらしく面を切ってセリフを言っていたり、論文中で策もなく7回も連続で繰り返していたりと、かなり茶化されて使用されている。だが、彼らはどうやらそれを堅く信じてしまっているらしいのである。

 

私は、何もこれらの点を批判したいわけではない。

むしろこの説明を一切せず(むしろ作中で明確に拒否し)、またそれ故に登場人物がそれをある意味では受け入れてしまっている、ツッコミを入れる段階が、客席にいる私たちより少し上であるという点、つありどこか静かに狂っている点にこそがナンセンスの矜持なのだろうと感じ、驚き、またそれを堪能したのだった。

この驚きは、実際にどのような会話がなされるのかを目にいしていただくのが、一番お分かりいただけると思う。

それでも読者の皆様のために何とか言葉にするとすれば、なんだかよく分からないが気づけばじわじわと笑いがこみ上げ常駐していたといった感覚である。スピード感があるわけじゃないし、明解な論理があるわけじゃない。しかし、なんだか気づけば笑いだしていて止まらないのである。それは楽しかったし、また少し恐ろしい体験でもあった。

 

私は今回、ナンセンスとはどんなものか、と思って観劇したが、一見まとまったようなストーリーの裏に静かに横たわる狂気に当てられてしまった。

大いに笑った。涙が出そうになった。

「書割の熊」は何度思い返しても卑怯だし、加えてほかの、初めて見るような可笑しさやなじみ深い可笑しさも楽しませてもらった。

 

芝居の感想で難しいのは、基本的に芝居は足が速いことだ。だから感想を書いても、当の公演が既に終わっていて、また映像化や再演の予定がないという場合も多い。

これを書いたところでどうなるというんだ。公演関係者がエゴサーチして観に来る以外に意味はあるのか、などと訝ってしまうのは正直否めない。ナンセンス芝居の感想を~と上述したが、そもそも劇評そのものが詮無いことなのかもしれない。

ね。楽しかった*6けどさ、やっぱり「書割の熊」って言われてもさ、なんのことやらね。

 

■公演データ

ジョンソン&ジャクソン「ニューレッスン」

出演者 大倉孝二 ブルー&スカイ 池谷のぶえ いとうせいこう 小園茉奈

上演時間 約1時間45分

東京 6/21~7/1 @CGBKシブゲキ‼︎

大阪 7/6~7/8 @ABCホール

 

 

 

*1:レビュー中では改名前なので「ブルースカイ」と表記。改名は2012年。

*2:日本現代演劇においてナンセンス(不条理)を行ったのは別役実であった。また別役の手法は80年代以降、ケラリーノ・サンドロヴィッチKERA)による劇団健康(のちにナイロン100℃)にナンセンスコメディとして引き継がれている。このためナンセンスはブルー&スカイの専売特許ではないことを念のため付記しておく。

*3:「書割」の部分は、社長の息子の口から明言される。

*4:たぶんそんな意図はないか、後付け。

*5:台詞によると、こけしが出てきたのは異常事態らしい。

*6:面白かったというより、やはり楽しかったというのが一番しっくりくる感想である気がしている。