ヤンキーになりたかった

食う寝る遊ぶエビデイ

『劇場版フリクリ オルタナ』感想: 僕たちはケバブ屋の女が見たかったわけじゃない

先日、『劇場版フリクリ オルタナ』を観た。これまでも散々、様々な方が感想文を書かれていると思うが、これもそれらに類する感想文である。

以降の記述は、『劇場版フリクリ オルタナ』およびOVAフリクリ』のネタバレを例のごとく含む。そういうことを気にされる方は、鑑賞後にお読みいただくことをおすすめする。

f:id:ifyankee:20180916043049j:plain

 

会社を休んだ日、私はTOHOシネマ新宿で昼間からこの映画を観た。別にそのために有休を取ったわけではないが、図らずもそういう形になった。

この映画に期待していたわけじゃない。ディス記事と思しきタイトルの感想文がいくつか存在することは知っていたし、 PVを見たときから不安はあったからだ。

鑑賞後、下りエスカレーターに乗りながら、私は目尻が少し濡れていることに気づいた。それは感動のため涙ではなく、ただただ悲しかったから溢れてきた涙だった。当記事は、『劇場版フリクリ オルタナ』のディス記事である。

(なお以降は、『劇場版フリクリ オルタナ』を『オルタナ』、『劇場版フリクリ プログレ』を『プログレ』と呼称し、『フリクリ』とはOVAフリクリ』を指すものとする)

 

■ピザ屋の彼女じゃないからハル子をグレッジで打つベンジーはいない

いきなり自分語りで申し訳ないが、私が初めて『フリクリ』を観たのは今年の春である。幸いかなり楽しんで観ることができた。榎戸洋司による小説版に電子書籍童貞を捧げるほどにはハマった。けれども、『フリクリ』はもう私にとって「思春期に観て毒されてしまった作品」にはなりえないし、聖書や聖典のように君臨するマスターピースにもなりえない。

だから、仮に『オルタナ』の出来が酷くとも、これは『フリクリ』じゃない! と憤らないし、よくある凡作の一つとして軽く受け流せる……はずだった。しかし、実際はそうじゃなかったことは上述の通りである。

端的に言おう。私にはどうしても、『オルタナ』という映画においてハル子が根本的に邪魔にしか感じられなかった。

 

フリクリ』において、ハル子(新谷真弓)の登場シーンは劇的である。いきなりベスパに乗って高速で突っ込んできて、ナンダバ・ナオ太(水樹洵)を轢く。更にはギターで彼の頭を殴る。

f:id:ifyankee:20180916045117j:plain

ハル子は、そんな滅茶苦茶な存在として描かれる。滅茶苦茶で、自由で、滅茶苦茶。大人ぶって、「特別なことなんてない」と達観するナオ太にとって、ハル子は〈特別〉な外部として映り、やがて彼女に強烈に惹かれていく。そして、1話開始時点以前から続いていた、サメジマ・マミ美(笠木泉)との、兄・タスクの代替品として求められる関係も変わっていく……。

フリクリ』のハル子は、いろいろなものが変わっていく契機となる存在であったし、滅茶苦茶な外部でありながら、メディカルメカニカ(MM)に捕らわれた海賊王・アトムスクを追うという目的に縛られた人間であったし、そして彼女抜きには物語が成立しない確かな存在感を放っていた。

 

対して『オルタナ』のハル子は、『フリクリ』の彼女とまったく異なっている。

もちろん、「フリクリ」の名を冠すからと言って、ハル子の造形をそのまま反復する必要は必ずしもない。「フリクリ」を改めて作ること、ハル子を作り上げることについて、新谷真弓は『オルタナ』の初日舞台挨拶でこう述べている。

新谷は「本来、監督さんに役者から意見を言うなんておこがましいことなんですけれど」と恐縮しながらも「もともと鶴巻さんが作られた『フリクリ』っていうのは、プライベートフィルムみたいなものなので。違う人が作ったら同じハル子にはならないですよねって。それに対抗するには、上村監督のプライベートフィルムにするしかないって話になって」と語る。

【イベントレポート】「フリクリ オルタナ」舞台挨拶に新谷真弓&上村監督「自分の中のフリクリを探して」 - コミックナタリー

 だから、多少彼女の造形が変わったとして、こちらが問題を指摘する余地などないのである。常識的な範囲であれば。しかし、フィルムにおいてハル子のいる意味が損なわれるならばその限りではない。

 

 『オルタナ』1話*1のあらすじは以下の通りである。

どこにもでもいるような女子高生・河本カナ(美山加恋)は、友人のペッツ(吉田有里)、ヒジリー(飯田里穂)、モッさん(田村睦心)と、休憩時間や放課後にダベる感じの日常を過ごしている。ある日、アルバイトしている蕎麦屋にハル子がやってくる。その夜、いつものようにハム館に集まっていた4人は、ペットボトルロケットを作ることにする。ロケットは完成するが、まだ可愛くない! から飛ばさない。翌日、みんなでロケットをデコり、いよいよ完成! となったところで、空からGoogleマップのピンみたいなやつが降ってきてロケットを破壊してしまう。更にはそのピンが、気色悪い何かに変形して……。

f:id:ifyankee:20180917020313j:plain

 

オルタナ』におけるハル子の初登場シーンは、上述の通り、蕎麦屋にぬるっと入ってくる場面である。劇的な登場もないし、以降も彼女は物語にぬるっと入ってくる。カナはその後のハル子との遭遇において頭を殴られるのだが、その登場の仕方か彼女たちはハル子を自然と受け入れてしまう。

つまり、今作の彼女は外部ではありえない。

物語の始まりには、いつも〈事件〉がある。殺人事件も、人間関係の不和もすべて〈事件〉だ。ハル子という外部から例えばナオ太の頭に現れたツノのような形で問題がもたらされるのではないとすれば、それはカナたちという内部から噴出するほかない

これに関して象徴的なのは3話「フリコレ」だろう。ファッションデザイナーを目指すモッさんは、専門学校の学費を稼ぐためのバイトとコンテストの作品作りの末に過労で倒れてしまう。カナはモッさんを助けようとしヒジリーとペッツにも協力を求めるが、モッさんはこれを激しく拒絶する。

そう。オルタナ』の各話は、この3話がそうであったように、ハル子やMMなしでも十二分に始まりうる=〈事件〉が発生しうる話なのである。

大学生フォトグラファーと付き合うヒジリーは、彼がハル子に一目惚れしなくともどこかでフラれただろうし、カナにもどこかで進路についてちゃんと悩み決断を下さないといけないリミットが 来ただろうし、ペッツもどこかで母親との関係に限界がきただろう。

 

いやいや、1話でペットボトルロケットが破壊されたのは確実に外部からもたらされた事件だ、という指摘はあるかもしれない。確かにその通りだ。しかし、そのGoogleのピンが、そこに落ちてくる必然性はあっただろうか? そしてそれがその後の話に影響を与え得ただろうか?

答えは両方否である。ピンが落下してくるのはカナたちがハル子と交流を持つ前*2であり、彼女らにMMからのアクションがとられる謂れはない。また、5話「フリフラ」においてペッツがターミナルコアに出会い巻き込まれるのはピンの落下したハム館においてだが、これがなくともペッツは火星に旅立っただろうし、カナたちの問題を主眼に据えたとき、ピンが何かの決定的契機になったとは言い難い。

フリクリ』の問題だって多くはナオ太の問題だったじゃないか、としう指摘もあるかもしれない。その一面は確かにある。しかし、そのナオ太の内面の激流は、ツノや猫耳という頭部に現れる変化という形で確かにハル子と結び付けられていて、解消というカタルシスに至るための戦闘の開始と不可分になっていた。

オルタナ』において、MMのロボットは唐突に現れる。ロケットをデコっていたときに、体育館の倉庫でキスをしようとしたときに、ハム館を訪れたときに。この登場は、まるでそれがノルマだからと言うかのようであり、必然性が感じられない。

f:id:ifyankee:20180917014543j:plain

 

物語の開始に絡めないならば、ハル子は本来〈事件〉と関係性の薄いはずのMMのロボットに対し大立ち回りを演じ破壊することで強引に〈事件〉が解決されたかのように見せ、人生訓を述べる便利な機械としての役割に堕すしかない。

だが、これはそもそもMMのロボットが暴走しなければハル子の出る幕すらなかったことを意味してしまう。人生訓を述べるだけならば蕎麦屋の店主であるデニス用賀(森功至)であっても良かったからだ*3

加えて、『オルタナ』におけるMM的表象が、MMという形をとっていけなればならない理由は、『フリクリ』の新作と銘打っているというプロデュース上の理由以外には存在しない。オルタナ』のハル子がMMを敵視する理由が一切分からないからだ。

フリクリ』において、アトムスクを捕らえたMMはその奪還を悲願とするハル子にとって敵であった。しかし、『フリクリ』の6話においてアトムスクはMMからの脱出を遂げている。だから『オルタナ』においては、MMと敵対する別の理由があるはずなのだ*4が、それが語られることは一切ない。

MMとハル子を結び付けるものがないならば、MM的表象つまり世界を滅ぼし、「明日が昨日の寄せ集め」みたいで永遠に続くと自分を騙すには十分なほどに単調な日常を終わらせるものの表象がMMである必然性はない。ならば、MMのロボットが暴れる必然性もない。

以上から導き出せるのは、オルタナ』においてハル子が不要であるという残酷すぎる結論に他ならない。

 

 不要であるはずの『フリクリ』の設定を使用するために必然性なく挟み込まれるMMのロボットの登場はいびつにならざるをえない。

フリクリ』6話「フリクラ」において、猫のタッくんを失い、ナオ太のタッくんが自分の御せない対象となったことで、マミ美は新たなタッくんを見出すことになる。それが実はターミナルコアで、そうとは知らず機械を与えて成長させてしまったせいでマミ美は最終決戦に巻き込まれる。

オルタナ』におけるターミナルコアの登場は5話である。ペッツはヤバい母親から逃げて放浪していた際にハム館へ行き、偶然ターミナルコアと出会う。ターミナルコアは自分で周囲の金属を捕食し始め、急成長しペッツを取り込んでしまう。ここには『フリクリ』にあったような、ターミナルコアにつながるためのドラマが存在しない。

f:id:ifyankee:20180916043241j:plain

これに代表されるような必然性のないロボットの登場から始まる必要性のない戦闘シーンは、アクションとしても平凡なものに止まっており、はっきり言ってしまえばかなり退屈である。フィルムにおいて、これらのシーンは邪魔なのである。

また、目的を失った『オルタナ』におけるハル子の暴力性や奔放さは歯止めが利かなくなっている。例えば3話において、ハル子はコンテストの最優秀賞を獲得した衣装を着てランウェイを歩くモデルの座を奪い、「地味な服は着たくない」として勝手にモッさんの服を着てランウェイを歩く。警備員がやってきた時、彼女は警備員を倒すだけでなく会場の柱を倒し、多くの観客に混乱と恐怖を与える。これらの行動に理由も、隠された目的もない。ゆえにただただ多くの人が蔑ろにされてしまった不快なシーンとなってしまっている。

 

先ほどは不要と述べたが、これでは、『オルタナ』においてハル子が存在するのは、無益・無害であるどころか損害・有害である。そして、ハル子がそのような存在になってしまう時点で、オルタナ』は決定的に『フリクリ』ではない。

フリクリ』の新作を鶴巻和哉以外が作る以上、ハル子像がそっくりそのまま継承されることはあり得ないにせよ、こんなふうに蔑ろにされてしまったハル子を観たいと思ったものは一人もいないはずである。

世話焼きなお姉さんという凡庸な役割を担わされた『オルタナ』のハル子は、ベスパではなくワゴンに乗って、ケバブを焼いて売っている姿が異様によく似合う。しかし、私たちが見たかったのは、ケバブ屋の女ではないのである。

このような作品に対し「フリクリ」の名を冠すことは、『フリクリ』に対する冒涜・蹂躙以外のなにものでもないだろう。

 

さて、以上で私が『オルタナ』に対して思った大きな不満であるハル子の造形については語り終えたことになるのだが、まだ細かなものが残っている。the pillowsの楽曲の扱い方への不満、女子高生の造形に代表される脚本への不満、そしてカタルシスに至れない映画としての決定的欠陥への不満。

以降はそれらを少しだけ語っていきたい。

 

the pillows楽曲群のぞんざいすぎる扱い方

フリクリ』の楽しみ方はいろいろある。演出の奇抜さ、物語、セリフ、エトセトラ。

だからthe pillowsの贅沢なMVとして堪能する楽しみ方もできるけれど、すべての人がそれを望んでいるわけではないことは理解している。それでも、『フリクリ』が好きだという人に、the pilllowsが嫌いだ、という人はいないだろう。きっとthe pillowsが嫌いなら、あれだけ彼らの楽曲がBGMとして流される『フリクリ』の鑑賞には耐えられない。

オルタナ』や『プログレ』の楽曲をthe pillowsが担当し、それぞれに主題歌を書き下ろすと知ったときは嬉しかった。彼らの音楽が、劇場で聴けるのだ、ということも。これには上記の理由から、同意してくれる人も多いだろう。

 

しかし、蓋を開けてみて残ったのは、こんなはずじゃなかった、という落胆や失望であった。

 

1話「フラメモ」冒頭の、音楽プレイヤーで再生するのと合わせて「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」が流れる時点で、流し方のセンスに少し疑問は生まれていた。それでも、スクリーンでthe pillowsの曲が聴けることに少しだけ心は沸き立っていた。

 

しかし、困ったことにかからないのである。そして使われるにしても、なんだか「本当は使いたくなかったんだろ?」と言いたくなるような使われ方がなされるのだ。

名曲「Fool on the planet」に合わせてカナたちが動揺「海」を歌い始めたときは、戦闘機でてめえらの頭を打ちぬいてやろうかとさえ思った*5

 

それだけでもめまいがするのに、『フリクリ』におけるキメ曲であったはずの「LAST DINOSAUR」や「LITTLE BUSTERS」がかかったときに一切テンションが上がらないのも驚いた。いや、そもそも聴こえないのである。気づけばぬるっと流れ始めていて、まったく盛り上がらない。まるでハル子の登場シーンのように。

イントロを大きな音で流してシーンの転換を印象付けるとか、曲のメロの変わる瞬間に印象的なシーンを持ってくるなどの方法がいっさいとられない。ノルマだけどシーンを邪魔されたくないし……とでも言うかのように小さく始まるそれらは、その儚さゆえに、趣向とは本来異なるはずの涙を誘う。

とりあえず、誰が主犯なのかは知らないけれど、主犯には『フリクリ』4話の「Crazy Sunshine」と6話の「LAST DINOSAUR」と各話の「LITTLE BUSTERS」をそれぞれ100回見てほしい。

f:id:ifyankee:20180916050328j:plain

 

この音響的センスの壊滅ぐあいは、あるいは4話「ピタパト」における、何の脈絡もなく挟まれる、最悪すぎるラップパートにも通じるのかもしれない。

しかしこれは、 むしろ脚本レベルにおける問題であるようにも思える。そのためこの部分についての言及は、ひとまず次の項目に譲りたい。

 

■凡庸さと安易さについて

オルタナ』がいかに『フリクリ』と異なっていたとしても、映画自体が面白ければ、それはそれで良いのである。いや、ファンとしては納得しかねるものがあるだろうし、やはり「フリクリ」という名を冠してほしくはないと思うであろう。

それでも、例えば『フリクリ』に感傷なんかない若い世代の思い出の一作になりうるのであれば、ジュブナイルとしては合格なのである。

しかし――ハル子という不要なキャラを暴れさせている、としているこの論調故におおよそこのあと何を言うかは察しがつくだろうが――、その基準にもやはり達していなかった。

 

オルタナ』の主題はわかりやすい。

「毎日が毎日毎日ずーっと続くとかって、思ってるぅーん?」

「わたし、気づかないフリしてた。そうしていれば、終わらない、変わらないってばかり思ってた」

「何もかもが変わっていく。だったらせめて、変わらない顔していろ」

まあ、会話形式にすればこんな感じだ。発言者はそれぞれ、ハル子、カナ、神田束太(青山穣)である。本当に、これだけである*6。少なくとも、私見では。

 

退屈な日常の疑似的な永遠性とその終焉。凡庸なテーマである。ここに目新しさはない。

いっそ「王道」と居直ってもいいのかもしれないが、ならば堂々と「王道」然としていればよいのに、ノイズとしてのハル子とMMが持ち込まれ、本来彼女たちによって解消されたはずの問題は、『フリクリ』的要素に持ち逃げされてしまう。

オルタナ』のストーリーやテーマ設定は、王道にもなりきれず、かといって変格としては凡庸という中途半端なものになってしまっている。

 

カナたち「女子高生」の造形にも疑問が残る。

悩みが凡庸であるように、彼女たちの造形もまたステレオタイプ的なのだ。もちろん、アニメやライトノベルのキャラクターが記号的なのは今に始まったことではない。しかしそのことを加味した上で見ても、彼女たちのキャラクターは凡庸である。

f:id:ifyankee:20180916043200j:plain

彼女たちの会話の多くは、日常的な駄弁である。1話の、ゴミ出しを賭けて無邪気にジェンガを楽しむ場面や5話のプールでバレーボールに興じる場面など。これにより彼女たちの関係性が見え、そこから帰納的に人物像が立ち上がってくる――ならばよかった。しかし、残寝ながらそうはなっていなかった。

6話の中でアクションシーンをノルマのごとく挟みつつそれを行うのは、そもそも尺が足りていなかったように思える。

 

加えて、彼女たちの駄弁自体もまた凡庸なのである。

まるで大学生やそれより上の世代が、制服を着て頑張って女子高生の芝居をしているような、そんな風に思えて仕方がなかった。

女子高生がJKを意図的に演じる、社会的なイメージをあえて引き受けて見せることは、実際にはしばしばあることなのだろう。しかし、彼女たちが、彼女たちだけの会話のなかでそれを行う必要性は極めて薄い。だからやはり、会話には違和感が拭えない。

この違和感は、脚本を担当した劇作家・演出家である岩井秀人が自身で舞台を作るときには、小さな所作など身体表現を含めた演出を行うことで解消している類のものなのかもしれない。しかし少なくとも彼が脚本のみを担当した『オルタナ』においては、駄弁のセリフはうまく機能していなかった。

 

 

同様に違和感があったのは、ひたすらに上滑っていた安易なパロディである。

この使い方も、小劇場演劇にしばしば見られるものだ、と言えばそこまでだが、少なくとも『オルタナ』においてそれは滑っていた。

それをただ「つまらなかった」と唾棄し叩きのめしたいのではない。むしろ、つまらないだけならよかったのだ。問題は、この安易な引用が、おそらくあの問題のラップシーンにもつながっていることだ。あのダサすぎるラップに。

 

ハル子のラップは、4話にて唐突に披露される。カナが、佐々木(永塚拓馬)とイチャつくハル子を見て焼き餅を焼き、むしゃくしゃして帰り道でピンを蹴った後のことだ。

f:id:ifyankee:20180917013020j:plain

しかし、そのシーンでラップを行う必然性や必要性はまったく感じられない

一応、蕎麦屋の店主のデニス用賀が元DJという説明はあったが、これも理由としては弱い。とはいえ、まったくその行動の意図が読めないわけではない。ラップ披露後、ハル子は「フリースタイル」と言っている。つまり、ハル子のラップに対抗して、カナにも思いの丈を叫んでほしい、だから佐々木に手を出してカナの嫉妬心をあおったし、ラップのフリースタイルを披露したのだ、そう解釈することもできる。

だが、その場で急にラップが思い浮かぶわけがない。つまり、カナの叫び=内面の激流からカナ自身を遠ざける振る舞いになってしまっている。それに、ラップの挿入は唐突であり、仮に意図があるならその場ではっきり分からないとそもそも私たち観客はノイズとしてしか受け取れない。

「フリースタイル」を加味した上でも、あのシーンの必要性が分からないのだ。

だからどうしても、ラップが最近流行っているから入れてみました、いろいろなものを取り込むのもフリクリらしさっしょ? とドヤ顔しているのが透けて見えて不快で仕方がなかった。また、極端に無能、傲慢として描かれる、カリカチュアライズされた政治家像も不快だった。いずれも、安易なパロディである。

f:id:ifyankee:20180917014625j:plain

 

 ■とってつけたようなラストシーンじゃカタルシスは得られない

たくさんの違和感を抱えさせられたまま進行するストーリーは、6話におけるハル子の「バッドエンドは好きじゃない」というセリフと共にラストスパートをかける……はずだったのだろう。

「叫べ、17歳!」などの、PVにも収められたセリフがハル子の口から放たれ、カナ役である美山加恋の熱演がある。

しかし、その画面上の「これは熱いシーンだってことなんだろうなあ」という展開を前にした、そのように冷静に分析してしまうこちらのテンションの上がらなさはなんなのだろう?

 

カナがこのシーンで行うのは、ただ思いの丈を叫ぶだけなのである。

5話において、ペッツはカナに対して叫んでいた。正直、ペッツへの思い入れが抱けていなかったのであまり感動できなかったが、それでも二人の関係性が分かっていれば、少しは感動できたかもしれないシーンだった。

f:id:ifyankee:20180917020149j:plain

対してこのシーンでは、カナはひたすら、誰かわからない対象に向かって叫ぶ。だから、いったい何を見せられているのか、という気持ちにならざるを得ない。「わたしは、友達が大好きでー」と、美山加恋が力を込めて演じていることは分かるが、カナが叫べば叫ぶほど、私たちはどのようにしてこのシーンを観ればよいのか分からなくなる。そして話はどんどんスケールが大きくなり、「この町」が大好きで、この町で暮らしていきたい、みたいなことを言い始める。

しかし、私たちはそのカナが名指す「この町」のことをほとんど知らない。

f:id:ifyankee:20180917020223j:plain

 

カナたちの暮らす町には、少し前にテンカイッピンなるものが出来て、商店街も寂しくなったらしい。しかし、このテンカイッピンが何の施設であるのかが分からないのだ。話からすればショッピングモールだろうが、そこに行って何かを買った、という描写もない。このことに代表されるように、私たちには、その町の様子が一切見えてこない。その町がどのような規模の街なのかすら分からないのだ。たびたび舞台となる浜辺と彼女らの学校や家との距離感もまったく掴めない。

キャラクターたちにもあまりなじめず、町のこともイメージできていない状態で、カナの感情の叫びに寄り添いカタルシスを抱け、という話がそもそも土台無理な話ではないか。

これは、ストーリーテリング上の欠陥であると指摘せざるを得ない。

 

また、「この町」や「友達」らに対して観客側が思い入れを持てていないという欠点が仮に解消されていたとしても、最後にテーマに準じた事柄をずっとキャラクターに叫ばせて、それで大団円というのはやはりダサい。加えてテーマまで凡庸とくれば、本当につらいものがある。

 

■最後に

かなり長々と書いてしまった。

こんなに長い記事は『リズと青い鳥』の感想以来である。 

今回は延々とディス記事を書いてしまった。ディスばかりで少し疲れてしまったので、最後に少しだけポジティブなことを書いて締めたいと思う。

 

2話「トナブリ」において、カナはMMとのロボットとの戦闘に巻き込まれることになる。ハル子の車を無免許なのに運転する、しかも凶暴なロボットに襲われているという危機的な状況において、カナが「わたし、運転の才能あるかも~!」と笑いながら言うシーンは、たしかに彼女の主人公っぽさが表れていて、ちょっと良かった。

あのシーンの「Freebee Honey」はちょっと良かった。


 the pillowsの書き下ろしたED曲「Star Overhead」は素敵な曲で、またED映像に登場するカナはとてもキュートだった。

 一本の映画という形式にまとめた上映では難しかったのかもしれないが、もっとあの曲を聴いていたかったし、あのカナを観ていたかった。

 

また、カナたちの造形やストーリーについて散々言ってきたが、仮にこの作品に『フリクリ』要素がなく、そしてテレビアニメーションの形式で製作されていたならば、あるいは少しは化けてくれたのかもしれない。

テーマは凡庸と言ったが、裏を返せば確かにジュブナイルの予感の含むものであったし、キャラクターだってこの形式でなければもう少し印象づけられたかもしれない。

 

 正直あまり期待はしていないのだが、『プログレ』も映画館に観に行く予定だ。

「2人はフリクリ 1人はアメザリ」というクソみたいな名前のニコ生特番で、「2人はフリクリ~」と言いながら人差し指を上げる水瀬いのりが可愛かったからだ*7

プログレ』のED曲である「Spiky Seeds」も良い曲だったので、これを劇場で聴きたい。できるならもっと、素敵な気持ちで。

 

*1:オルタナ』は、6話分のアニメの一挙放送みたいな形式をとっている。これは、アメリカで『フリクリ オルタナ』と合わせた各6話全12話構成のアニメーションとして放映されるものを、日本では映画のフォーマットに合わせて上映しているためである。

*2:その時点で、カナとハル子も蕎麦屋の店員と客でしかないし、ハル子は蕎麦屋の常連ではない。

*3:実際、6話「フルフラ」における彼の姿勢は、『オルタナ』が核に据えようとしたものと沿うように見える。

*4:宇宙警察フラタニティという組織の目的がMMへの抗戦であると理由付けはできる。しかし、フラタニティが『フリクリ』のそれと同様である保証はなく、またそうであったとしても、組織に従順な牙を抜かれたハル子は、果たしてハル子と呼べるだろうか。

*5:念のため付記しておくと、「Fool on the planet」の歌詞には戦闘機が登場する。

*6:他にも実は大人/子供、大人の中の種類などがモティーとしては使われるが、物語全体を観たときにテーマにまで昇華できているとは言えない。

*7:こう書くと声豚みたいで普通にキモい。可愛いよ~いのりん~~~!