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『リズと青い鳥』感想

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4/22の日曜日、『リズと青い鳥』を見に行った。いつもは何の予告も警告もなしにネタバレばかりの記事を書くのだが、今回は公開から日も浅いこともあるので、あらかじめ注意換気しておこう。

以降の記述には『リズと青い鳥』およびテレビアニメシリーズ『響け!ユーフォニアム』のネタバレを含む。

 

リズと青い鳥』 (以下では、『リズ』と呼称し、作中の登場人物リズとは二重鉤括弧の有無で区別する)だが、素晴らしい映画だった。傑作だったと言ったも良いだろう。

 

続編作品でありながら山田尚子のフィルムであるということ

『リズ』を語る際には、スタッフがテレビシリーズと大きく変わっていることから入るのが良いだろう。『リズ』のスタッフは『映画 聲の形』と同様になっており、むしろ宣伝でもそのことが強調されていた。

スタッフの変更に伴い、キャラクターデザインも大きく変化しているが、ここからはテレビシリーズの池田晶子と『リズ』の西屋太志のセンスの違いだけでなく、『リズ』を、『響け!ユーフォニアム』のテレビシリーズ(以下、『ユーフォ』と呼称)とは異なる山田尚子のフィルムにするという意気込みも読み取れてしまう。

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しかし、当然ながら『リズ』は『ユーフォ』のキャラクターたちを使い、その後の時系列の話を描くため、続編でないはずがなく、『ユーフォ』を観ていなくとも楽しめる作りにしたとしても、続編であるということ又は『ユーフォ』の磁場から完全に離れることはできない。

以上2点から、『リズ』を評価するに当たっては、『ユーフォ』とは手ざわりの異なるフィルムでありながら『ユーフォ』でなければならないという矛盾した要求に応えられているかどうかが大きな焦点となるが、私見だがそれは達成できていた。

では、どのように上述の要求に応えられていたのだろうか。以下ではそれを書いていくことになる。

 

『リズ』の時間軸は『ユーフォ』の翌年の京都府大会前にあたり、3年生の鎧塚みぞれ(種崎敦美)と傘木希美(東山奈央)の2人の関係性が最後のコンクールを前に変わっていく様が、コンクールの自由曲「リズと青い鳥」および曲のモティーフとされる同名の童話に重ねられながら語られる。「リズと青い鳥」の些細な物語の紹介は公式ホームページに譲るとして、まずここでは簡単にあらすじを紹介しよう。

湖畔の家で一人暮らすリズ(本田望結)は、嵐の翌朝、家の外で青い髪の少女(本田望結(2役))が倒れていることに気づき介抱する。恢復した少女はリズと暮らし始める。その少女は果たして青い鳥であり、そのことに気づいてしまったリズは愛ゆえに少女を逃す。

童話の2人の関係は、みぞれと希美のそれに似ていると作中で幾度か言及される。また自由曲「リズと青い鳥」には、リズと青い鳥の2人の別離が描かれる第3楽章においてオーボエとフルートの掛け合いとなるソロパートが存在する*1。先ほどは童話に重ねられながらと書いたが、実際には、物語はこのパートをどう演奏(表現)すればよいのかという問いと共に進行する。

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静かな語り口と起こらない事件

だが、吹奏楽をモティーフとしかつ特定の楽曲をキーアイテムとしていながら、物語全体は静謐さに覆われている。台詞は少なく、画面映えする動きのあるシーン*2もない。人間関係を描写する際に便利なのは、ぶつかり合い互いに本音を言い合うことで理解が深まるというストーリー*3や独白による内面の吐露だが、『リズ』においてそれはほとんど存在しない。

台詞やアクションの代わりに雄弁なのは、言いよどみ発されなかった台詞や細かな動き(作画による演技)である。

 

例えば冒頭のシーン。みぞれは校門から少し入ったところの階段で、希美がやって来るのを待っている。合流した2人は、先を歩く希美を追ってみぞれが着いていくように、ほとんど言葉を交わさないまま廊下を歩き、階段を登り、誰もまだ来ていない音楽室に入る。2人は少し離れた席に座るが、希美が絵本「リズと青い鳥」を取り出し譜面台に置き距離を詰める。

このシーケンスにおいて雄弁なのは、2人の歩く足音と距離感そして距離を詰めるという行為である。2人は仲良さそうに歩くが、しかし妙にずれ、地面や床と擦れるような音を立てる。これは2人の関係性をまず提示する。みぞれは希美の後ろを歩くので、階段を登るときみぞれは希美を見上げる形になる。これもまた2人の関係性を示す。自由曲のモティーフとなった童話の絵本を前に詰められたみぞれと希美との距離。みぞれが希美の肩に寄り掛かろうとするのは、音楽を通じて希美と繋がれるというみぞれの想いの提示であり、しかし童話の物語は、それがこれから変容しうることを示唆している。

フィルムはおおよそこんな調子で進む。つまり、台詞量は少なく、目立ったアクションもなく、ひたすら微かな動きと言いよどみを含みつつ進行していく。

 

また触れなければならないのは、フィルム上から《事件》が極力排除されていることだ。ここで言う《事件》、イベントぐらいの意味合いだ。

例えば劇中では、オーディションやプールといったイベントの存在が台詞で明かされるが、そのシーンそのものは描かれず、ただそれが終わったという結果のみが言及される。特にオーディションは、『ユーフォ』ではその制度の導入初年度だったということもあって部内分裂に至りかける大きな出来事として描かれたし、そこまで行かずともそこには当落という非情さのドラマがあるはずだ。しかし先述の通り、そのシーンはフィルムから排除されている。

 

以上、静謐さと《事件》の排除という2つの特徴は、『ユーフォ』とは明らかに異なっており、その意味において『リズ』を台詞でなく表情や仕草、風景描写から内面を描く手法に秀でていると評価される山田尚子のフィルムたらしめている*4

ここからは、『ユーフォ』がどのようなアニメだったのかを少し振り返る。

 

黄前久美子という探偵と頻発する事件

『ユーフォ』は2期に渡って製作・放映され、1期が黄前久美子黒沢ともよ)ら1年生の入部および滝昇(櫻井孝宏)の吹奏楽部顧問就任から京都府大会まで、2期が京都府大会後から関西大会を挟み全国大会そして3年生の卒業式までの物語となっていた。

1期冒頭は、久美子や高坂麗奈安済知佳)の在籍していた中学校の吹奏楽部の、コンクール結果発表の場面から始まる。吹奏楽部は金賞ながら上位大会に進出できない「ダメ金」という結果に終わる。部員らが金賞に歓喜するなか「悔しい」と涙する麗奈に対し、久美子は「全国、本気でいけると思ってたの?」と失言してしまう。

 

このシーンが象徴するというわけではないが、久美子はしばしば失言する。この失言が周囲の人間からの「証言」を誘発し、彼女のもとには多くの情報が寄せられることになる。

また久美子は、しばしば《事件》に遭遇する立場も担う。例えば、吹奏楽部への復帰を望む希美が初めに話しかけたのは久美子だったし、普段はしていない結婚指輪を着け亡き妻のためイタリアンホワイトの花*5を買う滝と遭遇したのも久美子だった。

 

作中で起こる《事件》の影響は、いつも合奏のクオリティが下がるという形で現れる。みんな集中を欠いた演奏をしてしまう、とかそんな風に。

そしてその《事件》は、本音のぶつけ合い自体やそれを重要な契機として起こる出来事によって解決に至り、北宇治高校吹奏楽部はコンクールで抜群の演奏をし、素晴らしい戦果を得る*6

『ユーフォ』において素晴らしい演奏とは、メンバーが全員で一つの生命体であるかのように統合されることによって可能になるものとして描かれる。作中で幾つか起こる《事件》は、この一体感のカタルシスに向かうための困難として用意されているのだ。

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『リズ』においては、2つのアイテムがフィーチャーされている。足音と希美の腕時計だ。足音については先ほども触れたが、これは足音に付随する歩くという行動および歩幅や移動といったものから「距離」と結びつく。

では、腕時計はどうだろうか。

『リズ』と『ユーフォ』の差異の1つに、画面上で《事件》が起こらないことがあると先述した。時計とは無論、時間と結びついている。時間について、2人の捉え方が異なっていることを示す箇所が2つある。

1つは、『リズ』劇中の3年生(みぞれたちの代)の多くが部の方針に反発し大量に退部した事件についてだ。このとき希美も退部したのだが、みぞれには声をかけなかった。『ユーフォ』劇中で《事件》となり、みぞれのトラウマとして描かれたのはまさにそのことだった。これについて希美は、昔のこと、と言うのだが、みぞれは、私にとっては今、というような旨のことを述べる。クライマックスも近いシーンのやりとりであり、この付近でピンクの腕時計がアップで映る。

だが、大事なのはもう1つの、コンクールに対する思いの違いだ。

 

《事件》なしに時間は進む。又は彼女たちに許された特別な時間の終わり

希美は自由曲「リズと青い鳥」を演奏できるコンクール本番が楽しみであると語るが、みぞれは内心、本番なんて来なければいいと考えている。先ほどは時間の長さへの認識のズレだったが、ここでは来るべきある時間に対する認識のズレがある。

このズレは2人の心情の差異を示すだろう。とはいえ、楽しみ/来なくていいという思いはほとんど意味をなさない。何故ならば、楽しみにしていようがいまいが、時間が経てば本番はやってきてしまうからである。

先ほど、『ユーフォ』の特徴として続けざまに起こる《事件》を挙げたが、《事件》自体のシーンが排除された『リズ』を覆うのはこの否応ない時間の経過というテーゼである*7。時間は流れ、オーボエパートの後輩・剣崎梨々花(杉浦しおり)はオーディションに落ちるしみぞれたちと一緒にプールに行く。

 

コンクールの終わりは、3年生の部活引退を意味している。その後に待つのは次の進路に向けた活動(受験や就活など)と卒業式だ。

学校というのは不思議なところだ。ほとんど試験結果で測れる学力のみによって均質性を保証された生徒らが、同じような教育を受ける場であり、その他の要素は切り捨てられる。これは、特別なものと凡庸なものが同じように見せかける詐術の働く場を提供することになる。そして、特別/凡庸の対比は、『ユーフォ』で幾度となく繰り返されてきたテーマである。このテーマをハッキリと引き継いでいた故に、『リズ』は『ユーフォ』の正当なる続編であった。

 

高坂麗奈は、プロのトランペット奏者を父に持ち、彼からの英才教育を受けて育った。彼女のトランペットの腕前は超高校生級であり、1年生でありながら3年生で部のエースであった中世古香織茅原実里)を差し置いてトランペットソロの座を掴むほどだった。

そんな彼女の口癖は「特別」である。それが初めて明確に口に出されるのは『ユーフォ』1期8話である。

「私、特別になりたいの。他の奴らと同じになりたくない。だから私はトランペットやってるの。他の人と同じにならないために。」

これに対し、久美子は「トランペットやってると特別になれる?」と訊く。麗奈はこう返す。

なれる。もっと上手くなれば、もっと特別になれる。

自分は特別だと思ってるだけの奴じゃない、本物の特別になれる。

(『響け!ユーフォニアム』8話「おまつりトライアングル」より)

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『ユーフォ』にはもう1人、麗奈とは反対に「特別」であることに対する思いを口にしないが、周囲から「特別」と評される人物がいる。3年生で低音パートリーダー田中あすか寿美菜子)である。本心が見えず、何でもそつなくこなしてしまう万能の天才。だが彼女の話は今回の主眼でないので触れるだけに留める。

この「特別」というキーワードが、『リズ』においては童話「リズと青い鳥」の、青い鳥の人間にはない空を飛ぶ才に重ねられながら語られていく。

 

青い羽根を持つ=特別であるということ

『リズ』は当初、みぞれの視点に寄り添いながら進んでいく。これは冒頭で階段に腰掛ける姿がやたらと長く描かれることや、希美と2人で歩く際も2人を引きで収めたカメラから不意にみぞれ視点にカメラが切り替わることからも明示されている。

「私たちみたい」であるとして「リズと青い鳥」の物語が2人に重ねられるとき、孤独だったリズの生活に光を与えた青い鳥は希美に重ねられる*8。これには2人の過去が関係している。希美は、中学時代に友達のいなかったみぞれに声をかけ吹奏楽部に誘った。だからみぞれは吹奏楽部に入ったし、音楽を続けている。

物語の最後でリズは、青い鳥を逃がしてしまう。この別離は、みぞれのなかでは彼女が1年生のときの大量退部事件と重ねられる。知らされぬまま不意の出来事として希美=青い鳥を失ってしまった記憶と。そしてこの記憶ゆえに、自分をリズと重ね合わせていたみぞれは、青い鳥を逃がす気持ちが分からないからソロパートをどう吹けばいいのかわからないと苦悩する。

 

ここでは、みぞれの内に存在している、リズか青い鳥を分けてるものは人間関係を構築できるかどうかであるという論理が提示されている。南中時代は部長を務めた希美とそうでないみぞれ。部活帰りにフルートの後輩たちと一緒にファミレスに寄っていく希美とそうでないみぞれ。

私にとって希美は特別。大切な友達。私、人が苦手。性格暗いし、友達もできなくてずっと1人だった。

希美はそんな私と仲良くしてくれた。希美が誘ってくれたから、吹奏楽部にも入った。嬉しかった。毎日が楽しくて。でも希美にとっては私は友達の中の1人。沢山いる中の1人だった。

(『響け!ユーフォニアム2』4話「めざめるオーボエ」より)

しかし、本当にそうだろうか。希美が退部して以降も、みぞれは同じ南中出身の吉川優子(山岡ゆり)と仲良くしていた。少なくとも麗奈の目にはそう映っていた。みぞれが希美と遭遇し思わず逃げ出したときも、彼女を見つけた優子は「私には希美しかいない」と言うみぞれに、「なんでそんなこと言うの……そしたら、みぞれにとって私は何なの!?」と激怒している。

また『リズ』においてもみぞれは、希美の仕方とは異なるだろうが、仲良くしたいとアプローチをかけてくる後輩の梨々花と徐々にではあるが友好的な関係を築いている。多分、卒業式のときには抱きつかれて泣かれそうなくらいには。

だからみぞれの心の内にある論理は破綻しているし、実際、青い鳥は希美ではない。

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リズの孤独を救った青い鳥を逃がそうと考え始める契機は、青い髪の少女が青い鳥であり、自分にはない空を自由に飛んでいける才のあることに気づくことである。だからリズと青い鳥を分かつのは、誰かにとっての特別というのでなくもっと明確なもの、能力を持つ/持たないの差、『ユーフォ』の言葉で言えば「特別」かそうでないかの差である。

そして吹奏楽において特別なのは、2人の間であれば間違いなくみぞれに軍配が上がる。希美とみぞれは、示し合わせたわけではないが進路希望調査を白紙で提出していた。しかし、滝が外部指導員として呼んでいる新山聡美(桑島法子)が、白紙で提出したことを聞いたとして音大を勧めパンフレットを渡したのはみぞれだけだった。

『ユーフォ』においても、希美が特別でないことは触れられている。田中あすかに許可を求めたい理由を「特別だから」と、特別の領域から少し引いたように答える場面もそうだし、何より花火大会のときの麗奈の発言が最も象徴的だろう。

辞めた方が悪い。辞めるってことは逃げるってことだと思う。

逃げたのが、嫌な先輩からか、同級生からか、自分からか分からないけど、とにかく逃げたの。私だったら絶対逃げない。嫌ならねじ伏せればいい。

私達は全国に行こうと思ってる。特別になるって思ってるんだから。

(『響け!ユーフォニアム2』1話「まなつのファンファーレ」より)

この台詞はこう言い換えられるだろう。「特別」であったなら、当時の部の空気がどうであったとしてもそれをねじ伏せられるはずであり、それができなかった時点で希美は「特別」ではなかったのだ、と。

 

また『ユーフォ』を持ち出すまでもなく、希美が青い鳥でないことは『リズ』から冒頭されていた。彼女は校門からすぐ近くの階段を登ったところで、綺麗な青い羽根を1枚見つけて拾いあげ、みぞれにそれを渡す。

このシーンは、青い鳥である希美がリズであるみぞれに施しをするシーンにも見えるが、それはミスリードだ。童話「リズと青い鳥」において、部屋に落ちている青い羽根に気づき拾いあげるのはリズであり、この行為により希美はむしろリズと重ね合わされているのだ。

 

断絶を顕在化する演奏

みぞれは新山との会話のなかから、青い鳥の視点でソロパートを解釈し表現することを思いつく。そしてある日の練習で、みぞれは第3楽章をやってみたいと滝に進言し、彼女の新解釈による第3楽章が披露される。

この演奏が、また何とも素晴らしい演奏となっている。演奏後に、複数名の部員が駆け寄り「感動しました」といった旨を伝えるぐらいには。しかしこれは、この上なく残酷な場面でもある。

 

直前に希美が「わたし、音大行きたいのかなあ」と吐露するシーンがある。希美は、みぞれだけが新山から声をかけられた、みぞれが上手いことは分かっていると口にする。この発言を引き出したのは、麗奈と久美子が違うパートなのにおそらく遊びのようにやってみせた第3楽章の演奏を聴いたことである。

希美は音大に行かない理由として、フルートは好きだが好きとそれで生きていくのは違うというものを挙げる。特別であるということは、それで食べていくということ、つまりそれを「実弾」に出来るということ。それが自分には出来そうにない、と希美は口にする。

のびのびとしたみぞれのオーボエソロは、希美のほのかに感じていたみぞれとの差を顕在化する。『ユーフォ』において一体感の訪れる瞬間であったはずの演奏は、『リズ』においては分断・断絶を象徴する《事件》として表れてしまう。そしてこれが、『リズ』においておそらく唯一と言ってもいい《事件》である。

 

みぞれのオーボエは確かに私たちの感情を揺さぶる。しかしその感情は既に、みぞれが壁を打ち破れたことへの祝福でも、演奏そのものの素晴らしさへの賛辞でもない。圧倒的な断絶を軽く提示されてしまったことへの物悲しさである。第3楽章のソロパートは、オーボエとフルートの掛け合いが大事だ。しかし、こんな演奏をされては、そこにどんなフルートの音色を乗せられよう。

残酷な現実そのものとも言えるオーボエの音色を前に、希美は震える息でフルートを吹き抵抗するが、それはもう何の慰めにもならず、彼女は涙し、音楽室を抜け出すほかない。

 

テレビシリーズで有耶無耶にされたもの

みぞれは希美のもとを訪ねる。希美は、「わたしに遠慮して本気出してなかったんだね」とみぞれに言う。みぞれを遠ざけるように。

これは別に、くだんの演奏だけのせいではない。彼女がみぞれに嫉妬しているというのは、原作ではたびたび言及されてきたことらしい*9し、嫉妬していると思しき場面は『リズ』の中でも描かれている。具体的には、みぞれが新山から音大を勧められたことを聞いた場面がそうだ。つまり、前々から思っていたことがとうとう言語化されただけに過ぎない。

その言葉を受けてもみぞれは、希美が自分にとっていかに特別かを話す。そして、ハグしてお互いの好きなところを言い合う大好きのハグを求める。

さまざまな箇所を挙げながら「希美の全部が好き」というみぞれに対し、希美は「みぞれのオーボエが好き」とだけ答える。

 

みぞれはずるい。自分には飛ぶ才があり、それは誰しもが欲するものであるのに、本人はそれに対しあまりにも無頓着だ。

優子や梨々花といった人たちにも囲まれているのに希美を特別視し、彼女にあまりにも多くを期待し、持たせようとしすぎている。はっきり言ってしまえば「重い」。「希美のしたいことが、私のしたいこと」とまで言う。

 

上述のような性格や発言から、みぞれの闇がフォーカスされがちだが、希美のそれもかなり深いものと思われる。

何故ならば、そんな重いみぞれは自分に比べ物にならないーーと希美は思うだろうーー才能を持っていて、しかしあまりにも自分にベッタリしている。そのみぞれは、内心で何を思っているかわからない。

希美は梨々花に「のぞ先輩って、鎧の……じゃなくて、鎧塚先輩と仲良いですよね?」と訊かれ、「だと、思う」と曖昧な返事をするし、どこかでみぞれがまだ退部事件とその後の復帰を許していないんじゃないかと恐れている。

しかしながら同時に、希美はみぞれが今のままならいいとも考えている。自分を置いていくほどの上手さを発揮するのでもなく、また交友関係を広げるのでもなく。希美は、みぞれをプールに誘った際、みぞれが「他に誘ってもいい?」と訊いたことを受けて、一瞬顔が曇る。また、みぞれがフグに餌をあげていると言った際、「リズと青い鳥」中でリズが動物にパンをあげていることから希美は「リズみたい」と言う。不自然なほどに間髪入れず。

 

このフィルムが素晴らしかったのは、はっきりとしたセリフでなく世界観や人間関係を物語っていき、圧倒的な断絶である演奏シーンを描くことができたというのは言うまでもなくある。

しかしそれだけでなく、『ユーフォ』においては最終的に良い話だったよね、と有耶無耶にされていた2人の内面その暗い部分にもしっかり触れていた、いやだからこそ上記の演奏シーンになったということもまた素晴らしかった。

またこれらを黄前久美子という探偵なしに成り立たせたことも。

 

ラストシーンを前に、2羽でくっついたり離れたりしながら飛ぶ鳥が映る。またエンディング曲には、2本の線がくっつりたり離れたりという歌詞が存在する。あのような断絶のあとには、そんなありきたりな言葉はあまりにも軽く聞こえてしまう。

しかし、だからと言ってこのまま2人が悲しい別れを迎えると考えるのもまた早計なのだろう。

 

帰り道、2人はスイーツを食べようという話をしている。何が食べたいか。パフェ、パンケーキ、お団子。2人は「コンクール楽しみ」と同じタイミングで口にする。

音楽室の床に毛布を敷いていたとき、加藤葉月朝井彩加)と川島緑輝豊田萌絵)の会話。2人が同じタイミングで同じことを言ったとき、先に「ハッピーアイスクリーム!」と言った人は言わなかった人からアイスをご馳走してもらえるというゲーム。

みぞれは「ハッピーアイスクリーム!」と叫ぶ*10が、その会話を知らない希美は「アイス食べたいの?」と訊き、ここでもまた単に希美とそのゲームをしてみたかったみぞれと思いはすれ違っている。

だがこのすれ違いは、前のそれとは違う。

・みぞれの発言が元であり、それが帰ってくる前に希美が早合点したものではないということ

・みぞれもその勘違いを微笑みながら受け入れていること

この2点は、2人が模索してまた築いていく今までとは別の関係性の萌芽でもある。

 

 

*1:自由曲「リズと青い鳥」は、このパートばかりが演奏される。まるで他の部分は主眼でないことをアピールするかのように。

*2:例えば、『ユーフォ』1期12話の久美子の疾走。

*3:例えば、元ももいろクローバーZのメンバーである有安杏果Wikipediaページには次のような記述がある。

「グループへの加入が最後であったことや、キッズダンサー時代から表舞台での"オン"と楽屋での"オフ"を意識してきたことなどが影響し、ももクロの自由奔放な雰囲気に対しては距離を置くことが多かった。/しかし2012年の鳥取県米子市でのライブ終了後、「もっと輪の中に入ってきてほしい」と思っていた他のメンバーたちは有安と話し合いの時間を持ち、互いの気持ちをぶつけ合った。これがきっかけで、お互いがパーソナリティを深く理解し合えるようになり、有安も自分のペースで自然とグループの雰囲気に溶け込んでいった。この出来事は「米子の夜」としてファンに知られている。」

物語性を強く望まれるアイドルのページにこのような記述があることは、本音をぶつけ合い理解し合うストーリーがいかに好まれるかの証左になりうるのではないか、と思う。

*4:山田尚子の評価については、次のリンクを参照。「天才」の呼び声高く......『聲の形』山田尚子監督は『けいおん!』も手がけたヒットクリエイター - トレンドニュース

*5:花言葉は「あなたを想い続けます」。

*6:全国大会で北宇治は同賞に終わるが、全国大会編で重要なポジションを担う田中あすかは、審査員でもあった日本を代表するユーフォニアム奏者である父から最大限の賛辞ととれる言葉を贈られる。

*7:この「時間の経過」というテーゼ又はモティーフは、図書館で借りた「リズと青い鳥」の返却期限が過ぎていて、みぞれが図書委員に怒られるシーン又は同じ本を借りようとして前回の延滞を蒸し返されるシーンにも通じるだろう。

*8:だからこそ最初、先を歩く希美は階段でみぞれより高い位置におり、そのさまがみぞれ視点のカメラで映されるのだろう

*9:原作は未読なので憶測でしか書けないのは、私の勉強不足の結果でしかない。

*10:このシーンは、『ユーフォ』2期1話において麗奈が「3秒ルール!」と嬉しそうに叫ぶシーンの反復でもあるだろう。

蟄居のすすめ、本のすすめ

ゴールデンウィークがやってきた。

5月1、2日を休めば9連休。その上で4月27日を休んでいれば夢の大台10連休である。

 

嬉しい楽しい連休だけれども、旅行の予定を立てたくもなるけれど、休日はどこも人が多い。人混み。人混み。人がゴミのようだ。連休なら尚のことそうだろう。

こんなときは蟄居ちっきょするに限るーーと言いたいところだが、そんなことを言われても、何をすればいいのか困るというのが正直なところかもしれない。

昼間から酒を飲むにしても、酒と肴のみで時間を潰すのは余程の酒飲みでなければ難しかろう。昼間から酒を飲むのはぐーたらしたいからであって、そのぐーたらを演出するためのアイテムが他にもいるはずだ。

 

そういうときに相性が良いのは映像コンテンツだろう。DAZNでスポーツを観ながら、あるいはNetflixAmazon Prime Videoで映画やアニメを観ながら酒を飲む。大いに結構だ。しかし私はそれらの内1つも契約していないので、オススメを紹介することができない。

また酒自体を紹介しようにも、そもそもの酒に弱い体質ゆえに「開拓」というものをしないから、紹介できるストックがない。

そこで今回は、同じくコンテンツであることにかこつけて、本を何冊か紹介したいと思う。本選びやこの既にスタートを切った連休の過ごし方選びの助けになれば幸いである。

 

なお今回は、普段そんなに読書しない人を対象としている。いわゆる読者家たちは、こういう記事を読まずとも自分で読みたい本を選び勝手に読みふけっているだろうからだ。自分がどちらに属するか分からないと思うなら、当記事の最初の数冊(又は1冊)のコメントを読んで判断してもらってもよいだろう。なんというか、「ああ、そんな感じね」となる気が、なんとなく、する。

そのようなコンセプト故に、短めでかつ価格帯も安めの本を選んだ。「全部読み切るぞ」などと気張らない限り、そこまでの出費にはならないし、読みきれないこともないはずだ。

 前置きが長くなった。では、紹介していく。なお紹介は、「文庫編」と「単行本編」に分けて行ない、文庫編では、文庫本とコミックを、単行本編ではハードカバーの本を扱う。

 

文庫編

 

住野よる『君の膵臓をたべたい』双葉文庫、720円)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

はい、いきなりヒット小説乙~wwwと骨董品みたいなネット用語での罵倒が聞こえてきそうだが、始めにこれを紹介したい。2017年に浜辺美波北村匠海のダブル主演で実写映画化され、2018年にはアニメ映画が公開予定の「キミスイ」。

これはいわゆる「難病モノ」だ。恋愛と難病/死というのはいつも人気を集める題材だが、ゼロ年代は特に多かった。「乙~w」なんて言っていた頃の話だ。

ネット小説発で、難病モノで、Mr.Childrenが主題歌というとケータイ小説『恋空』が頭をよぎる。ケータイ小説には、J-POPの歌詞や雑誌の投稿欄におけるエピソード告白からの色濃い影響がみられる*1。しかし「キミスイ」の場合、ヒロイン桜良さくらの口調や「僕」の視点での地の文などからはむしろライトノベル、キャラクターノベルからの影響がみられる。文体としても、詩のような形でなく、小説風のまとまった散文形式になっている。だから読みやすい。印象に残りやすいタイトルも含め、よくできている。

似ているとしたらアレに近い。「ゲーセンで出会った不思議な女の子の話

 

中沢健『初恋芸人』ガガガ文庫、640円)

初恋芸人 (ガガガ文庫)

初恋芸人 (ガガガ文庫)

 

25歳童貞の怪獣オタク芸人佐藤が市川理沙に初恋をする、ただそれだけの話だ。ピュアと意気地なしはどうやら紙一重らしく、そのウジウジさにもやもやする。読んでいて気分が晴れるものじゃない。

佐藤は、良くある初恋と同じく舞い上がり落ち込む。しかし理沙は学生ではないし、舞台も学校ではない。格上のライバルはごまんといる。恋愛に不慣れなことの残酷さと悲しさが描かれている。芸人と冠しつつ明るいコメディではない。

滝本竜彦とか銀杏BOYZとかにハマったことがある人は、一度読んでみてはいかがだろうか。

ちなみに『初恋芸人』は2016年に柄本時生主演でドラマ化されている。市川理沙役は元SKE48松井玲奈。『100万円の女たち』といい、彼女は童貞を殺せそうな役が多いのか……?

 

宮崎夏次系『変身のニュース』(モーニングKC(講談社)、669円(Kindle版540円))

変身のニュース (モーニング KC)

変身のニュース (モーニング KC)

 

少し趣向を変えて漫画を紹介しよう。宮崎夏次系の短編集だ。 

まず表紙がキュートだ。タイトルも素晴らしい。何が起こる=変身の予感はあるが、実際にあるのは一報ばかりであり、それは身の回りに訪れない。そんな平凡な残酷さがが短いタイトルに表れている。

桐島、部活やめるってよ』にも似たエモさがある。この「エモ」を他の言葉に置換しようとするとそれだけで記事が1本できてしまうのでここでは「エモい」という安易な言葉に逃げこませてほしい。特に「成人ボム、夏の日」がエモい。エモエモだ。

 

綿矢りさ勝手にふるえてろ(文春文庫、594円)

勝手にふるえてろ (文春文庫)

勝手にふるえてろ (文春文庫)

 

松岡茉優主演で映画化もされた作品。映画も原作からうまく脚本に落とし込んでいて大変に楽しめたが、小説にも小説の魅力がある。

綿矢りさの魅力の1つにあるのは、デビュー作『インストール』(河出文庫、410円)の頃から、自己省察と他者の観察の過程をはっとする言葉で提示する、その言葉の力だと思う。痛々しいヨシカの暴走の中に乗っかっていると、そんな言葉に出会い、そのページから目が離せなくなる。これは小説でなければ味わえない。

 

町田康パンク侍、斬られて候(角川文庫、691円(KIndle版、465円))

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

 

諸国を流浪する凄腕剣士が、悪徳新興宗教「腹ふり党」が跋扈して困っているとある藩で雇われ、邪教の蔓延を阻止すべく頑張る――これだけ見ると普通の時代小説なのだが、タイトルがいかんせんパンク侍なのだ。パンク侍とはこれ如何に。

そして上記のあらすじだが、そもそも「腹ふり党」は主人公・十之進の虚言であり、しかしそれは実在し数年前に解体されていたことが発覚する。死刑になりかけた十之進は偽の「腹ふり党」をでっち上げることにする……と、まあむちゃくちゃだ。挙句、江戸時代の話のはずなのに、「夏目漱石の『吾輩は猫である』は読んだか?」なんて会話が出て来るのだから、時代考証もなにもあったものじゃない。

では、つまらないかというとそうではない。抜群に面白い。会話一つをとっても面白いし、嘘が嘘を呼ぶドタバタっぷりも面白いし、それ自体が壮大な皮肉になっているのも面白い。

流行り言葉で言うと「クセが強い」ため、あまり人に勧めるような小説ではないと思う。けれど紹介したのは、6月30日に綾野剛主演、宮藤官九郎脚本、石井岳龍(聰互)監督で実写映画が公開されるからだ。流行には乗っていきたいところだ。

 

単行本編

 

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』KADOKAWA、1,350円)

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬
 

 斜に構えていたという若林が、一歩そこから踏み出し、出来事や人に寄り添うように書いたようなそんな旅行記に仕上がっている。行き先は、資本主義国日本の首都であり広告の溢れる街・東京とは大きく異なる共産主義国キューバ。だから、どんな旅行記も日常を相対化するものだが、その度合いが否応にも大きくなる。

しかし彼は、そんなキューバに変に肩入れをするでもない。革命博物館を見て、魅了されそうだと書きつつ、「そうだ」と書く時点でそこから距離をとっていることが分かる。やはり斜に構えているのか、と思えば、しかし現地の人と食卓を囲い、くだらない失敗談でガイドと大笑いする。そこには確かに、等身大の血の通った交流がある。

このバランス感覚や肩ひじ張らなさが見事な旅行記。1章が短いから小分けにしても読みやすい。

 

文月悠光『臆病な詩人、街へ出る』(立東舎、1,728円)

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

 

八百屋に行ったことがない、「臆病な詩人」の「私」(著者)が、編集者に乗せられ様々な体験をするなかで感じたことを文章にしていく――という形をとった連載。まずこのコンセプトが面白い。

だがこれは、出歯亀的精神を慰めるためだけの文章ではない。若い女性の珍道中ではない。1人の人間が悩み、発見していく営みである。

それを先ほども述べた面白い形式で、リーダビリティ高く作品化してくれている。

 

海猫沢めろん『キッズファイヤー・ ドットコム』講談社、1,404円) 

キッズファイヤー・ドットコム

キッズファイヤー・ドットコム

 

これは子育て小説である。ホストの。

物語は、歌舞伎町にあるホストクラブ店長の白鳥神威の家の前に赤ん坊が捨てられていたことから始まる。母親に心当たりはないが育てることを決意した神威は、クラウドファンディングで育てることを思いつき実践していく。

荒唐無稽な話だ。ホストのキャラ造形から赤ん坊との出会い方、その後の展開まで。しかし馬鹿らしさを薄皮一枚めくれば、現代における子育ての苦悩や問題がしっかり描かれている。

また、ホストの荒唐無稽さだけで終わらぬよう姉妹編として少し大きくなったくだんの赤ん坊の話が併録されているのも、批評性があって良い。

深刻な諸問題を扱いつつも、物語に乗せて読みやすく、そして心に染みやすくできるのは、フィクションの力である。

 

 

以上、文庫編5冊と単行本編3冊の計8冊を紹介した。いかがだっただろうか?

自分自身で振り返ってみると、文庫編については、「メディア化作品挙げとけばええやろ」というような一種の開き直りが透けて見える。まあね、刷られるからね、本屋でも見つけやすくなるからね、とか自分に言い訳して……。

 

ゴールデンウィークに、という趣旨は何処へやら。思いのほか投稿が遅くなった。

ビジネスにはスピード感が肝要とはよく言われるが、私もKindleでビジネス書を読み、こうそくいどうで素早さをぐーんとあげるべきなんだろうか?  なんて考える今日この頃。

今日この頃、みなさんはいかがお過ごしだろう?

この記事で蟄居勢が増えたらば、私も人が減ったことに乗じて外出できるので、幸いである。

 

 

*1:速水健朗(2008)『ケータイ小説的。――"再ヤンキー化"時代の少女たち』原書房

ちはやふる「上の句」「下の句」感想: 須藤のDは大爆笑のD

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「結び」が公開されてしばらく経った今日このごろ、映画『ちはやふる』の「上の句」「下の句」をようやく観た。漫画もアニメも触れたことがなかったので、今回が初『ちはやふる』となった。

全体的な感想をまず先に言うと、それなりに楽しく観ることができた。

青春映画、スポーツ映画、エンターテインメント映画、そして広瀬すずのアイドル映画として超高水準だった。

ちょっととは言えない文量になる予感はするが、この映画についてちょっと記事を書いてみようと思う。

 

この作品のメインを問われれば、綾瀬千早(広瀬すず)たち瑞沢高校競技かるた部(以降、かるた部)部員のキャラクターそのものや成長、千早vs若宮詩暢しのぶ松岡茉優)、チームちはやふるの3人などになるだろう。

それらについて語れることはいくつもある。しかしここでは、そこから少し傍流になるが、作品を確かに彩ってくれたもののあまり言及されない人たちについて語りたい。

北央高校かるた部のみなさんである。

 

北央高校は東京都の中高一貫校の高等部だ。映画の前編開始時点では5年連続で全国大会出場を果たしており、都立高校である瑞沢高校のライバル校という立ち位置になる。

だから、人気作品であればあるほどそのライバル部員たちのキャラクターも立っていて当然なのだが、それにしても映画での彼らは凄まじかった。

北央高校の部員は数多く登場するが、映画中で名前があるのは2人だ。
(前編の東京都大会決勝で名前を呼ばれるレギュラーメンバーや千早が出稽古した際の対戦メンバーは除外している)

部長の須藤暁人(清水尋也)とその信奉者である木梨浩(坂口涼太郎)である。
ここからは、彼らの活躍を、シーン順に振り返っていこう。

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北央高校の面々が初めて登場するのは前編「上の句」の中盤。ゴールデンウィークに実施した合宿で、千早が須藤と対戦するシーンだ。
千早は最初のあいさつで須藤の顎に頭をぶつけてしまう。「すみません」と謝るが、須藤は千早に「ごめんなさいは?」と執拗に「ごめんなさい」を要求する。
このとき、隣では木梨と瑞沢高校の机くんこと駒野勉(矢本悠希)が同様に対戦前なのだが、木梨はいきなり割って入ってきて、聞いてもいないのに「須藤のSはドSのS!」と他己紹介する。この割って入って来るときの躍動感が素晴らしい。 

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少女漫画のドSキャラはそのSっぷりが誇張される傾向にあり、たいていのやつは頭がおかしいことになっているのだが、須藤も例外ではない。しかし、千早との対戦中に見せたヤバいドSっぷりの上を行くヤバさを隣で対戦していた木梨は見せてくれる。
試合終了後、完敗し呆然としている千早の顔を覗き込むようにし、
「須藤さん、彼女いるから。勘違いすんなよ」
いや、なにを以て勘違いすると思ったんだ……教えてくれ……。
そしてたびたびカメラに映り込むけれど、決してピントが合うことはない机くん。すべてが最高だった。

 

次の出番は都大会の決勝戦
全国常連の前評判は伊達じゃなく、くだんの机くんが激萎えモードで気が気でなく試合に集中できない瑞沢高校かるた部は、次々と札を取られていく。

すると須藤「ナメた真似しやがって」となんだか正論。あれ?  こいつ、ドSとか言いつつただの熱いやつなのでは?  という疑念がここで湧いてくる。ちなみにこれが、後編のある展開の伏線になっている。

試合の方は劣勢にあった瑞沢だが、途中から息を吹き返し、特に千早は猛然と札を取り始める。広瀬すず無敵映画の所以たるシーンのひとつだ。

西田優征(矢本悠馬)と千早が勝ち、机くんと大江奏(上白石萌音)負けの2-2。試合は、真島太一(野村周平)と木梨の運命戦*1までもつれ込む。今まで運命戦で自陣の札が読まれたことは一度もない太一は、読まれないなら――とばかりに相手陣の札を取りに行き、それが木梨のお手つきを誘い、太一の勝利そして瑞沢高校の全国大会出場が決定する。

この一戦で印象的なのは木梨の号泣である。たしかに、甲子園でエラーでサヨナラになった選手の泣きっぷりに相当するくらい泣く権利が彼にはある。しかし、前の須藤の腰ぎんちゃく的なお茶目っぷりしか知らないから、彼の泣きっぷりは正直ビビる。

ここで映画が初ちはやふるの私は、木梨が使い捨ての謎キャラでなく血の通った人間としてちゃんと描かれるキャラなのだな、と気づくことになるのだが、これ以降、特に彼の活躍するシーンがあるわけではない。頑張れ、木梨。

(木梨メインで触れたが、このシーンは瑞沢視点でも当然めちゃくちゃ名シーンであり最高のシークエンスだ。これについては、あとで触れる)

 

後編「下の句」に入り、千早は師匠の原田(國村隼)から現クイーンである若宮詩暢の話を聞く。詩暢もまた高校生であり、全国大会団体戦の翌日に行われるA級個人戦に出場するだろうから、同じくA級の千早は彼女と対戦できる可能性がある。

このことに気づいた千早は部活そっちのけで詩暢対策に熱中し、いろいろなところに出稽古に行く。その流れで北央高校にも顔を出す。練習試合。千早の最初の相手は須藤。

千早は5人を相手に試合をし、全敗。左利きの詩暢対策に熱を上げ過ぎた結果、彼女のかるたはガタガタに崩れていたのだ。そんな千早に対する、めっちゃ怖い目をしてわらわらと並ぶ北央高校男子部員のみなさま。 このシーン、ヤンキー映画やヤクザ映画のヤバげなシーンみたいでぶっちゃけかなり怖い。須藤の左後ろの坊主とかKA-TUNにいたJOKERさんこと田中聖に見えるしK.O.劇になりそう。

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須藤が怒る。「ヒョロ、あれ持ってこい!」。

この台詞に反応する木梨……え、お前、ヒョロってあだ名だったの!? と映画が初ちはやふるの私がここで知ることになる衝撃の事実*2

「あれはマズいですよ」といった反応と須藤のキャラをドSであるってことくらいしか知らないということから、え……これ、エロマンガだと特異な拷問器具とか変な薬とか出て来そうな展開じゃん、大丈夫かよ少女漫画……とか心配になったが、もちろんそんなことはなくて大丈夫じゃなかったのは私の頭だった。

持ってきたのは「全国大会対策資料」――歴代の先輩が、会場近隣のホテルの情報や読手どくしゅのクセ、各学校の特徴などをまとめ、つないできたファイルだった。

「自分だけでかるたしてると思うのはお前の自由だ。でもお前はこれからもずっと瑞沢かるた部だ。東京の代表が果たすべき責任は、お前らだけのもんじゃないってこと忘れるな」

え……須藤、やっぱりお前めっちゃ熱くていいやつじゃん……ドSキャラどうしたんだよ……。

ちなみにこのあと千早は、ファイルを受け取ると、走って太一の家まで行く。遠くの大会に出ていた太一は夜遅くまで帰ってこず、雨も降ってくる。それでも千早は太一の家の前で座り込んだまま傘もささずに彼を待つ。だから、あんなにも感動的に渡されたファイルはたぶん一度ここでびしょ濡れになっている。頑張れ、北央……。

 

このあと団体戦等があるが、北央高校は出てこないのですっとばして個人戦A級戦。

 瑞沢高校からA級戦に出場するのは千早、太一、西田の3人。このうち詩暢に敗れた西田を除いた2人は順当に勝ち上がり、とうとう千早は詩暢と当たる。

そして太一の対戦相手として目のまえに現われたのは――須藤だった。

いや、分かるよ。千早の対戦相手だけ映して太一のを映さないのは不自然だし、映すならそれまでに登場しているキャラじゃないと興ざめ感あるもんね。強豪校でメインを張っている須藤ならばA級戦にいても不思議じゃないし。

前のシーンで株を急上昇させたそんな須藤は、太一に対して、静かな声でこう言った。

「この世に言い残したことはないか?」

……は?  え、須藤さん、何イキってんすか?

もはやそのセリフに、ドS要素はなく、ただのイタイ人だった。なんか一人だけ闇のゲームを始めようとしている。たぶん近江まで来る電車の中が暇すぎて遊戯王とか見てたら影響を受けちゃったんだと思う。遊戯王に影響受ける高校生、可愛いかよ、と思ったけどやっぱりそんなことねえわ。ただのイタイ子だわ。

ちなみに、劇中の須藤のセリフはこのイキリセリフが最後。太一との対戦結果も明かされない。頑張れ、須藤……。

 

以上、前後編2シーンずつ計4シーンで笑いを提供してくれた北央高校のみなさんの紹介だった。北央、ファイト。

さて、このままでは『ちはやふる』を延々とディスって終わったみたいになってしまうので、最後に褒めて記事を締めたいと思う。

 

まず前編。これが完璧。

冒頭はキャラや競技かるたをコミカルかつテンポ良く紹介してくれる。これが小気味良い。特に西田の「モテ部」「エア・K!」は、このシークエンスをどのようなテンションで見れば良いか明示してくれるのでストレスがない。これがエンタメとしては非常にありがたい。

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前編は瑞沢高校かるた部の面々がチームになるまでの物語であり*3かつ凡人たる太一(と机くん)の物語でもある。

東京都大会で机くんは全然勝てない。不甲斐なさ故に彼は「いてもいなくても同じ」だとして帰ろうとする。千早の説得も暖簾に腕押しと言った中、彼を止まらせたのは太一の「俺だって才能なんかない。必死にやってる」という言葉だった。

試合が始まっても地蔵のように動かない机くんは、しかし千早が意図的に飛ばした「はなよりほかに しるひともなし」*4の札から、かるた部との思い出が脳裏をよぎる。そして登山のとき千早から伸ばされた手。これを機に机くんは地蔵モードをやめ、そして全員で札を取る。このシーンの気持ちよさったらたまらない。

 

だが、このシークエンスおよび前編の主人公はなんといっても太一である。運命戦までもつれ込んだ勝負で、太一は相手陣にある「からくれなゐに みずくくるとは」の札を取るべく素振りを始める。実は影響中盤で、太一は素振りをしない、と机くんから指摘を受けていた。彼がかるた部に役立つよう自主的に行った分析がここで活きてくるのがまず熱い。

また、「からくれなゐ」の上の句は「ちはやふる かみよもしらず たつたがわ」つまり「ちはや」の札でもある。だからこれは、何としても「ちはや」を取るというダブルミーニングになっている。

そもそも彼が運命戦で札を読まれないのは、過去の罪により神さまから見放されているからである、とされる。そしてその罪とは、小学生の頃に授業の一環で行われたかるた大会で綿谷新(真剣佑)という永世名人の孫で鬼強い天才に負けたくない、千早にカッコ悪いところを見せたくない一心で、新のメガネを隠してしまったことだとされる。つまり、彼が運命戦で負けることそれ自体が彼の凡人性(天才でない、才能がないこと)と分かち難く結びついている。

文章にするとこれだけ長くなる、この作中のあらゆる部分が、読手の「ち」の音が聞こえた瞬間に動き出した太一の手に集結し、その気迫がヒョロのお手付きを誘ったというのは、物語的にも作品の出来的にもすこぶる素晴らしく、感動的だ。前編が太一の「今の俺には"ちは"しか見えない」で終わるのはやはり完璧。

 

後編はどうしても前編ありきになる。単体で見るとやや冒頭が静かすぎる部分もある。今ならばストリーミングなりレンタルなりで見られるから、時間が確保できるときに間髪入れず見ることをオススメする。

前編が太一の物語だとすれば、後編は完全に千早の物語だ。

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前編の感想を長く書きすぎたのでここでは軽く触れるに止めるが、「繋がる」というテーマが、後編内で提示され、それが後編だけでなく前編も含めて回収される手さばきはやはり震えるものがあるし、これがあるからこそ、瑞沢高校かるた部は主人公格であり、かつ出番の少ない新も確かに主人公格たりえている。そしてその中心たる千早は完全に主人公なのだ。

あとはなんといっても松岡茉優が本当に良かった。詩暢の残酷なまでの強さ、それゆえの孤独、時々見せる残念さ。どの顔をとっても素晴らしかった。このあたりは、実際にご覧いただくのが手っ取り早い。

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以上が、後編にはほとんど触れていないが、前後編通じての感想だ。

あと、あえて触れずに来たが、広瀬すずは素晴らしかった。やや下を向いて眼球がめっちゃ動くシーンとかめっちゃ可愛かった。何を言っているか自分でも分からないし、言ってることは普通にキモいと思う。

吹奏楽部の演奏を聴きながらピョコピョコ動くシーンのあざとさったらすごいし、そんなんでありながら声が少しネチっと出るところ、これは男性の名前を呼ぶときに顕著で特に「太一」がヤバく*5、これが女性から嫌われがちらしい広瀬すずか、と思った。あざとい。

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兎角、先述したとおり、青春映画としてもエンタメ映画としても広瀬すずのアイドル映画としても文句ないので、これらに挙げたジャンルで何か見たい方にはオススメする。

また大々的な恋愛要素はないが、水面下でめっちゃ恋愛映画してると思うので、その辺が好きな人にも外れない映画だと思う。

スポーツ映画が好きな方にも、競技かるたは「畳の上の格闘技」と呼ばれるほど熱い競技であり、この映画はその点でもオススメできる。

 

ただ、「畳の上の格闘技」って、それ、柔道がまさにそれすぎて、あまり適切な別名じゃないんじゃないですかね……。

 

 

 

*1:互いに自陣にある札が一枚であり、どちらが先に読まれるかによって勝敗が決定する局面になった場合のことを言う。

*2:ここまであえて木梨と表記してきたが、彼に言及する際ほとんどの人はヒョロと呼んでいるようだ

*3:先述した通り、これには後編で千早の詩暢対策への熱中という形で揺さぶりがかけられる。

*4:「もろともに あはれとぞ思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」前大僧正行尊。「一緒に愛しいと思ってくれ、山桜よ。この山奥では桜の花以外に知り合いもおらずただ独りなのだから」という寂しさの歌とされるが、劇中では、あなたがいるから強くなれるという絆の歌と読み替えられる。

*5:これは、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のなづなの演技における「典道くん」でも確認できる。

ポプテピピック、蒼井翔太のヤバい〇〇だった説

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狂気、狂気。クソアニメ、クソアニメと評判だったTVアニメ『ポプテピピック』12話で、これまでとは比較にならない狂気が発生してしまった。

本稿は、その12話の感想文だ。以下、ネタバレを多分に含む。

 

TVアニメ『ポプテピピック』は、声優がコロコロ変わること、制作者が異なるいくつものパートから成立していること、AパートとBパートの内容が同じであることなどから、1話放送時点から話題になっていた。

そのことは、このニコニコ動画の1話再生回数が物語っている。

www.nicovideo.jp

 

その特異な構成やパロディ元、主題歌「POP TEAM EPIC」の歌詞から、このはちゃめちゃなアニメには裏があるのではないか。実はこの様式それ自体が伏線なのではないかという憶測をする人たちが現れた。

彼らは自分たちを「ポプテピピック考察班」と名づけ、放映後に自身の説をツイッター上で発表するようになった。

togetter.com

 

私は、正直言って彼らの説が当たるとは思っていなかった。

むしろ、そのような予想に対し「中指を立てる」ような展開こそが起こると期待していた。

 

けれど、3/24 25:00からTVアニメ『ポプテピピック』の12話(最終話)が放映され、その結果、果たして彼ら考察班の考察は、当たらずも遠からずな、いい線をいっていたことが判明した。

とある決定的な一点を除いては。

 

彼らの考察によれば、TVアニメ『ポプテピピック』は壮大な百合アニメであり、どのような選択肢を選んでも幸せになれないポプ子を救うべくループを繰り返すピピ美の物語であった。

つまり『魔法少女まどか☆マギカ』になぞらえれば、ポプ子=鹿目まどか、ピピ美=暁美ほむらという構図が成り立ち、そしてループはピピ美の能力によってもたらされていると考えられていたわけだ。

だが実際には、そのループは蒼井翔太の能力によってもたらされているものだった。予想できるわけねえだろ、こんなもん。馬鹿かよ。

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しかし、最終話まで見てしまった私たちは、この展開がまったくの突飛なものではないと言えてしまうし、むしろ蒼井翔太の登場は必然であるとまで言えてしまう。どういうことか。それがこの記事の主眼でもある。

 

私たちは、TVアニメ『ポプテピピック』のループ説を考える際、順当に方法順で作品世界も進行していると考えていたはずだ。

つまり、1話Aパート→1話Bパート→2話パート→…→11話Bパートというように。

そして、ピピ美は同じ「世界をリメイク」し、しかし2回以上うまくいかなかった場合、別の「パラレルワールド(に)旅して」いたのだと。

しかし12話で、世界をループさせていたのは蒼井翔太であることが判明した。そして蒼井翔太が初めて登場したのは12話Aパートであった。そのため、むしろループはここから始まったのではないかという仮説が立てられる。

つまり、1話Aパート→2話Aパート→…11話Aパート→12話Aパート→1話Bパート→…12話Bパートというように。

 

ここで、声優リセマラについて考えていこう。リセマラ回と言われた1話(Aパート: 江原正士大塚芳忠、Bパート: 三ツ矢雄二日高のり子)を除いて、AパートとBパートの声優は、女性声優ペア→男性声優ペアという形をとっていた。これは2話以降のエンディングテーマも同様である。

これにより、Aパート/Bパート=女性(声優)/男性(声優)という二項対立が導出される。作品世界は、蒼井翔太の力を借りて女性声優世界から男性声優世界に移行したのだ。

(以下に、担当声優リストの一部を貼る。WIkipedaのスクリーンショットである)

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だがここで問題が生じる。この世界の移行自体は、何の解決ももたらさないということだ。

男性が女性より優位であると言える根拠は何もない以上、男性声優世界に移行したとしてそれがよりより解決に寄与する根拠も同様にないからだ。

このままでは、女性声優世界と男性声優世界を繰り返し続けるループの監獄に陥る可能性が高い。村上春樹「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)におけるかえるくんとみみずくんのせめぎ合いのように。*1

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

だから本当に望まれるのは、この古びた二項対立を脱構築することであり、それこそがループを脱出する=ハッピーエンドを迎える条件だ。そしてそれが出来るのは、性別蒼井翔太である蒼井翔太しかいない。

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そう考えていくと、新たな狂気の可能性が浮上する。

まさか、

「ループしていることにしよう」

「なら、男性声優と女性声優それぞれで組みを作って半分ずつやらせよう」

「だったら蒼井翔太がぴったりですね!」

という会議が開かれることがあるだろうか。

おそらくない。そんな都合よく事が進むわけがない。

むしろ順番が逆で、蒼井翔太ありきで12話が作られたと考えたほうが自然だ。

 

つまり、TVアニメ『ポプテピピック』は全編を通じて、漫画『ポプテピピック』(竹書房)のアニメ化という形をとった、蒼井翔太のアニメ化(実写)だったのだ!!

そしてここにこそ、最大の狂気が潜んでいる。

 

パロディの数々、AC部、世界最速再放送、1キャラに24人以上の声優をあてること、中指を立てることなんて目じゃない。
この狂気がいちばんヤバい。

 

 

TVアニメ『ポプテピピック』の企画・プロデューサーを務めた須藤孝太郎は、声優バラエティ番組『上坂すみれのヤバい〇〇』の企画・プロデューサーを務めた人物でもある。

あちらの番組も、なかなかに狂気的であった。

nuwton.com

 

上坂すみれのヤバい〇〇』が12話に渡って上坂すみれを使って遊ぶ番組であるとするならば、TVアニメ『ポプテピピック』は、蒼井翔太(が持つとされる能力)を使って12話を遊んだ、正確に名付けるならば『蒼井翔太のヤバい〇〇』であった……。

 

【最後に】

ちなみに、12話Aパートで登場した蒼井翔太は、多くの方が指摘されているが、おそらく映画『KING OF PRISM』シリーズに登場する如月ルヰのパロディになっている。

TVアニメ『ポプテピピック』の歌パートで活躍した武内駿輔が大活躍するので是非見てほしい。

 

www.youtube.com

 

*1:魔法少女まどか☆マギカ』における、TVシリーズで出現した女神としての鹿目まどかと劇場版(『叛逆の物語』)で出現した悪魔としての暁美ほむらが、互いの結論を否定し合うことがほのめかされた、現時点でのシリーズの結末もまた想起される。

アンナチュラル最終話感想: いくつもの再利用と(職業)倫理

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3月16日(金)に放映されたTBS系ドラマ『アンナチュラル』(22:00~)を見た。

このドラマはSNSでも大きな評判を呼んだ*1ようだが、実際、ものすごく面白い、素晴らしい作品だった。

 

『アンナチュラル』の魅力を一言で表すこと、どこかのセクションに集約して語ることは難しい。どこをとっても良かったからだ。

役者、主題歌、演出――しかしやはり、野木亜紀子の脚本に触れぬわけにはいくまい。

日本ドラマ界には幾人もの素晴らしい脚本家がいると聞く。「聞く」と書くのは、私が普段あまりドラマを見ず、その手腕を堪能する機会がないからだが、元々筆力があると思われていた彼女も間違いなくそのリストに名を連ねたことだろう。

いや、御託を並べるのはよそう。

そのような言葉は、並べるまでもない。

 

 

 コインは幾度も裏返される

『アンナチュラル』は各話、コインの落ちる音と共に「アンナチュラル」という字幕が「アンナチュラる」と置き換えられる短い映像からスタートする。この音は、1話に出て来る三澄ミコト(石原さとみ)の「コイントス」という言葉からの着想だという。

コイントスは、言うまでもなくコインの表裏を当てるゲームだ。だからここでコインには、通貨としての意味のほかに、表裏があるものという意味が与えられている。その音に合わせて、音節文字であるひらがなとカタカナのる/ルがひっくり返される。

これは、これから裏と表が引っくり返りますよという作り手からの宣言として機能する。

実際、『アンナチュラル』では幾度もどんでん返しが起こったし、シナリオとしてその部分を評価する声も多い。

 

もちろん、どんでん返しのためには伏線をあらかじめ張っておき、それを適切に回収することが必要だ。そうでなくては、ひとりよがりの「超展開」になってしまう。

 伏線回収とは、前に出てきたガジェットやセリフを再利用することに他ならない。何気ないものとして登場していた事柄が、後々になって、物語を推進させるための糸口としての意味を帯びるのだ。

そして『アンナチュラル』は、使えるものは何でも貪欲に(再)利用していた。

 

例えば1話だ。詳しく見ていこう。虚血性心疾患で亡くなったと思われていた男性・高野島渡(野村修一)が、実はMERSに感染し死亡したことが判明する回だ。

当初、高野島は腎不全の症状から毒殺されたと見られていた。彼の恋人である馬場路子(山口紗弥加)は、高野島と同じ会社のR&D部門に所属していたが、高野島が外部デザイン会社の敷島由果(田中こなつ)と「いい雰囲気」であるという噂が立っていたこともあり、作中では一度毒殺犯であるという疑惑がかけられる。しかし彼女が扱っていたエチレングリコールは高野島の遺体からは検出されず、彼女が犯人であるという線は潰される。つまり、痴情のもつれによる殺害という分かりやすいストーリーはミスリードであり、恋人の存在はミスリードのためのガジェットであったと明かされるのだ。

だが野木は、ミスリードであると判明した時点で捨て置かれそうな恋人を幾度も物語に登場させ、最後には、その話の最後のどんでん返しに必要なピースとして再利用してみせた。高野島との濃密な粘膜接触の有無という恋人関係でないと疑いえない事柄から、感染経路を暴き、それにより犯人候補扱いされた彼女自身、そして全国民から非難の目で見られることになってしまっていた高野島の名誉回復を行った。これはなんとも見事な手腕であった。

 

私たちが無意識のうちに考慮の外に置いてしまうものを(再)利用して物語を思わぬところにまで進めるその手法は、ミステリの常套手段と言えばそこまでだが、しかし私たちが普段見ないものらによる復讐劇であると考えればなんとも痛快である。

この捉え方は、何も突飛なものではないだろう。

野木は『逃げるは恥だが役に立つ』において、幾度も〈呪い〉を解こうとしたし、今回も同様にそれを行おうとした。ミコトが法廷に証人として立った3話を思い出そう。

3話ラストにおいて神倉保夫(松重豊)は「I have a dream. いつかあらゆる差別のない世界を」と宣言する。差別・偏見とは、往々にして、差別対象をそのように「見る」ことではなく、そのようにしか「見ない」ことによって生じている。*2

またこのドラマが法医学にモチーフを採っていることを思い出せば、このようなことも言える。そもそも私たちの社会においては、遺体や死は穢れとして巧妙に隠蔽されているのだ、と。

 

 異なる性格を見せ始めた「再利用」

だが、物語を畳み始めた9話の廃ビルに捨て置かれたトランクケースに詰められた遺体の話以降、その再利用は異なる新たな性格を見せ始めた。過去のエピソードのセリフやモチーフの再利用だ。それは、物語を進めるために使われるだけでなく、メッセージとして明確に反復された。

大切なことは何度でも語られなくてはならないのだ。

 

9話がこれまでと異なるのは、解剖される橘芹那(葉月みかん)の遺体が8話時点で登場していることだ。これにより、以前の話と明確なつながりのある話であることが暗示される。そしてその暗示のとおり、9話では、以前のエピソードに登場したものが幾つか登場する。

まず何より、「赤い人魚」と呼ばれる口腔内に魚の形をした痕が見られる遺体。そして、糀谷夕希子(橋本真実)の2冊の絵本と中堂による彼女の解剖シーン。また凶器は、医療ドラマ故にこれまで何度も登場していたホルマリンだった。何より衝撃的だったのは、8話の火災の生存者で、火事の様子を証言した高瀬文人(尾上寛之)が一連の「赤い金魚」事件の真犯人として再登場することだ。

だが、再利用はこれだけに止まらない。A,B,C...Zと頭文字のアルファベットが26文字並ぶように殺人を犯していくのは、死因とイニシャルという違いこそあれど、アガサ・クリスティABC殺人事件』のパロディであることは明白である。さて、ここで7話を思い出そう。同級生Y(横山伸也(神尾楓珠))を殺したと生動画配信で話す男子生徒S(白井一馬(望月歩))がミコトと死因当てゲームをする回だ。7話でも、とある小説のパロディが行われていた。同じくイギリスの小説家アーサー・コナン・ドイル『ソア橋』である。

Yの死因は刺傷による、他殺に見せかけられた自殺であった。動画配信は、イジメの加害者という「法で裁けない殺人犯」を糾弾するために仕組まれた芝居だった。この「法で裁けない殺人犯」というモチーフは、9話ラストに出頭した死体損壊罪でしか罪に問えない殺人犯高瀬として最終回である10話に登場するのだから、まったく憎い作劇である。

 

1話からの再利用が目立った10話

このようにして以前の話との結びつきを強くした『アンナチュラル』は、10話において更にその結びつきを強くし、物語を畳みにかかる。

詳しく見て行こう。

 

10話で焦点となるのは、殺人犯であることは明白なのに、殺人罪で罪に問えない高瀬が最終的にはどう裁かれるのか、ということだ。そのため裁判の話は必須であり、3話に登場した烏田検事が登場するのは必然であった。そして烏田からミコトは鑑定書をねじ曲げろ、と言われる。この構図も3話で見られたものだった。

違うことは、今回は背後に権力があることだ。26件もの殺人を犯した高瀬を、死体損壊罪だけで、2~3年で外に出すわけにはいかないし、これを裁けないことは大失態であるからして、何としても彼の殺人罪としての有罪を勝ち取りたい。しかし高瀬は、橘芹那は食中毒で死んだ。ボツリヌス菌が検出されたことがその証拠だ。ホルマリンは死後に投与したと主張している。だから、ミコトには、ボツリヌス菌が出たという高瀬に有利になりうる鑑定書を改ざんしてもらわないといけないわけだ。

なぜ高瀬が、ボツリヌス菌が検出されたことを知っているのか。ミコトがその疑問を口にしたとき、神倉は内通者の存在とそれが九部六郎(窪田正孝)であると言う。東海林夕子(市川実日子)は怒り、六郎は俯き謝ることしかできない。宍戸理一(北村有起哉)が犯人だと思い問い詰めたときに口にした、と。それが善意からの行動であることは皆が分かっているが、それは悪手だった。1話でも指摘されていた彼の「危うさ」が出たシーンだ。

中堂は鑑定書を偽装する。これは1話で公文書偽装を行ったことの反復である。そして「いつか言ってたな。敵は不条理な死。殺人者を裁けない。これ以上の不条理があるか」と言う。この「不条理な死」は1話におけるミコトの台詞の反復である。

ミコト: 私たちが組めば無敵ですよ。

中堂: 無敵――敵とはなんだ?

ミコト: 不条理な死

アンナチュラル第1話「名前のない毒」より

 家に帰ったミコトは悩んでいる様子で、すき焼きを前にしてもあまり食が進まない。

「私、悲しむ代わりに怒ってた気がする。負けたくなかった。不条理な死に負けるってことは、母に負けることだから」

 

ミコトが敵と名指す不条理な死とは、ミコトの母が試みミコトだけが助かった一家心中の「被害者」でありサバイバーであることから始まっている。彼女の生い立ちは、母(薬師丸ひろ子)や弟(小笠原海)との会話に、明確な言葉にされず顔をのぞかせる程度で、物語の表面には出てこなかった。1話のラストで、六郎が末次(池田鉄平)からそのことを知らされるシーン、そして練炭自殺を扱った2話を除いては。しかしここで野木は、それを重要なピースとして再利用すると宣言したことになる。

翌日、神倉は烏田のもとに鑑定書を持っていく。しかしそれは、改ざんされた中堂鑑定書ではなく、ボツリヌス菌の記述がされたミコトの鑑定書だった。そして神倉は啖呵を切る。

神倉: UDIラボは中立公正な機関です。お上におもねり、解剖結果を捻じ曲げるようなことは致しません

烏田: 高瀬を有罪にできなくてもいいのか

神倉: それはそっちの仕事でしょう! うちはうちの仕事をきっりとやってる!責任転嫁しないでいただきたい!

この啖呵は、森友学園をめぐりニュースが飛び交うここ最近に対し非常にタイムリーだったと賞賛されているが、この台詞も実は1話の反復になっている。高野島と敷島、路子の関係を洗おうと聞き込み調査を始めかねない様子の六郎にミコトが「そういうのは警察の仕事」と釘を刺すのだ。これは、ともすればセクショナリズムと揶揄されてしまうのかもしれない。しかし、プロフェッショナルとしての仕事をするためには、自分がプロとして責任を持てる範囲を明確にしなければならないという強い倫理観が顕れた台詞であるように感じられて、非常に心地が良かった。

偶然出会った六郎に連れられ、夕希子の父親の和有(国広富之)がUDIを訪ねて来る。ずっと犯人だと誤解し続け、毎年「罪を償え」とファックスを送っていたことを中堂に謝罪したいという。しかし中堂はいない。中堂は、宍戸を脅迫して高瀬を裁くための証拠を手に入れようとしていたのだ。

木林(竜星涼)から中堂の居場所を聞いたミコトと六郎は宍戸の家に急ぐ。二人が到着すると宍戸は倒れ、呻いていた。テトロドトキシンの解毒剤だと偽り、毒を飲ませたと中堂は言う。

ミコト: 何を飲ませたのか教えてください。法医学者として戦ってください。私が嫌なんです。見たくないんです。同じように不条理なことをしてしまったら、負けじゃないんですか。中堂さんが負けるところなんか見たくないんです。私を絶望させないでください。

 六郎は毒を舐め、それがエチレングリコール*3であることを突き止める。中堂は解毒剤を渡す。

 

 絶望という言葉が出てきた。これは2話において、六郎が東海林に「三澄さんは、絶望ってしないんですか?」と訊いたときにも登場したワードである。これを訊いたミコトは、「絶望しているなら、美味しいご飯食べるかな」と答える。*4

ミコトにとって、絶望することは負けることだ。そして、負けそうになっているから、美味しいものであるはずのすき焼きを前にしても食が進まなかったのだ。しかしそれでも、中堂に「法医学者として戦ってください」と、神倉の「うちはうちの仕事」という言葉を反復するかのようにして訴える。ミコトの信念やバックボーンが、これでもかと露出する名セリフだ。

 

一方、和有はアメリカのテネシー州に戻るという。夕希子も高校生まではそちらに住んでいたことが初めて明かされる。アメリカと聞き、東海林は「ウォーキングできないデッドの国かー」とつぶやく。これは、日本は火葬してしまうが、アメリカは土葬文化だから掘り起こして解剖できるという旨で1話において発された「ウォーキングできないデッド!」というブラックなジョークの反復であり、これが夕希子の再解剖および追起訴という展開を生む。

糀谷夕希子殺害にかんする裁判で、ミコトは証言台に立つ。8年前になかった技術により、微細な細胞からもDNAが採取できるようになった。夕希子の歯の裏から高瀬のDNAが検出された、と。それでも高瀬は犯行を認めようとしない。一転、ミコトはこう話す。

ミコト: 私たちの仕事は事実を鑑定書に書くことです。犯人の気持ちなんてわからないし、動機だってどうだっていい。でも、かわいそうだと同情してしまいます。誰も彼を救えなかった。あなたの孤独に心から同情します。

高瀬: やりたくてやった。殺したくて殺した。母親は関係ない。26人。俺はやり遂げた。俺は、かわいそうじゃない!

ミコトは、感情的にさせることで、あえて同情という感情論のフレーズを持ち出すことで高瀬の自白を引き出した。*5これは「女は感情的」などと法廷で言われた3話の意匠返しになるだろう。また、「私たちの仕事は」と続く言葉は、またもや『アンナチュラル』全体を覆う職業倫理観に通じる。

 

こうして「赤い金魚」事件は幕を閉じた。中堂は和有に、夕希子の描いた「ピンクのかば」の絵を渡そうとするが、それはあなたが持っていてください、と言われる。そして、夕希子は、二匹のカバが一緒に旅を続けていく話にするのだと語っていたと告げる。それは、宍戸から「夕希子を殺したのはお前だ」と言われた言葉からの救済である。

「あなたは、生きてください」。これは7話で、Yの後を追い自殺しようとしたSを止めようとしたシーンと通じる。ミステリのパロディを行った2つの事件がこうも通じ合うとは、まったく驚嘆せざるを得ない。

エピローグ。1話冒頭のようにミコトは更衣室で天丼を食べている。UDIには坂本(飯尾和樹)が復帰した。中堂のことは「スナフキンだと思えば愛せる気がする」と語り、分かるという東海林と、首をかしげるミコト。UDIには六郎も再度バイトとしてやってくる。「法医学は未来のためにある」。これは1話でミコトが口にした言葉である。そして視聴者がこの10話で実感させられた言葉でもある。1話で見事だった、ネームプレートをホワイトボードに貼っていくことでキャラクター名を視聴者に知らせる演出を踏襲し、新たな不自然な遺体が現れたことを示し、物語は幕を閉じる。

 

大切なことは冒頭ですでに語られていた

長々と10話のあらすじを追ってしまった。ここから分かるように、実は10話で登場した数々は、すでに序盤の話数で登場していたのだ。大切なことは冒頭・序盤で語られていた。そしてそれは、明確な形でないにせよ物語内できっと反復されていた。だからこそ最後、私たちは違和感なく受け入れることができた。

大切なことは何度語られてもよいし、何度も語られなくてはならないのだ。

 

生きている限り、負けないことができる

10話において、宍戸を襲った中堂の行為は、不条理に対する「負け」として名指された。

「負け」とは何だろう? 不条理な死と名指されるのは、誰かの手にかけられた死のことであり、またどうしてそうなったのか分からない死でもある。中堂は、溺死した婚約者を解剖してほしいと依頼を受ける5話において、「永遠の問い」というフレーズを持ち出す。遺された者は、その「永遠の問い」に悩まされ続ける、と。

5話において、依頼者である鈴木巧(泉澤祐希)は、真相を知り、恋人の鈴木果歩(青木美香)を突き落としたまゆ(城戸愛莉)を刺傷した。これが「不条理な死」を前にして、自らもまた「不条理な死」をもたらす側に回る――不条理に負けることのひとつだ。

先ほど、ミコトにとって負け=絶望である、と述べた。ミコトは悩みながら、法医学にできることはとても少ない、と述べる。ここにあるのは無力感である。そして、「永遠の問い」を前にして堂々巡りを繰り返すしかない当事者たちが抱えるのも、その問いをどうにもできないという無力感ではないだろうか。

ミコトが中堂に「法医学者として戦ってください」とまず言っていたことを思い出そう。そして、巧が明確な殺意を持ってまゆに刃物を突き立てたことも。ここで言う負けとは、自分の(職業)倫理や信念といったものを投げ捨て、自分の人生すら投げ捨ててしまうことではないか。そして絶望とは、そういったものを投げ捨てたくなる敗北感や無力感ではないか。

そう考えたときに、7話においてミコトがSに語り掛けた台詞が思い出される。

「あなたの人生は、あなたのものだよ」

 

法医学は未来につながる医学である。

彼らは死の際に何があったのかを明らかにし、時に彼らの生に意味を再度与える。そうして遺された者たちを「永遠の問い」から救い出す。

救い出された者たちは、また新しい道を歩むことができるだろう。時に仲間と語らいながら、時に美味しいご飯を食べながら。

人生が旅に喩えられるならば、その旅路を自らの足で踏みしながら歩いているとき、それは人生を手放していないという意味において負けではない。人生を歩んでいるとき負けていないならば、生きている限り、負けないでいることができるのだ。*6

 

 ネタバレに対する注意書きをすることなく、ネタバレ全開でここまで書いてきてしまった。ネタバレ嫌いの方がいらっしゃったなら申し訳なく思う。しかし、あえて開き直らせてもらえるならば、大切なことは何度も語られるべきであるのだから、ここでセリフや展開を見たとしても、それでも本編を視聴するということは、何も間違ったことじゃない。

それに、良い本は何度読んでもいいのだ。*7良いドラマは何度観ても良いに決まっている。

 

 このような素晴らしい作品が観られるなら、ドラマを観るのも悪くない。

 

*1:こちらの記事に詳しい

*2:3話における「男vs女」という構図は「偏見vs事実」という二項対立へと見事に変換される。「人なんてどいつもこいつも切り開いて皮を剥がせばただの肉の塊だ。死ねば分かる」という中堂系のセリフは象徴的だし、今にして思えばこれが後に明かされる彼の過去を想起させるのもまた憎い。

*3:1話で路子が毒殺犯として疑われた際に使用したと考えられていた薬物である。

*4:この台詞は、個人的には『STAR DRIVER 輝きのタクト』第4話「ワコの歌声」におけるアゲマキ・ワコの台詞「泣くだけ泣いて、夜中に食べたご飯が美味しかったときに思ったの。世界は私を苦しめるためだけにあるんじゃないって」を思い出す。「Their journey will continue.」はニアイコール「人生という冒険は続く」だし、『アンナチュラル』は実質スタドラ。

*5:余談だが、『ABC殺人事件』において、連続殺人は主目的のとある犯罪を忍び込ませるために行われた。高瀬にとっては、それが母親の殺害だったのかもしれない。

*6:最後に中堂系は、坂本からスナフキンに喩えられる。スナフキンは、旅人である。彼もまた、ようやく「永遠の問い」から解放され、歩きはじめることができた。なんとも美しい救済の話だ。

*7:TVアニメ『文豪ストレイドッグス』第1話「人生万事塞翁が虎」における太宰治のセリフより。

R-1ぐらんぷり2018決勝の感想

3月6日(火)に行われたR-1ぐらんぷり決勝について、思ったことを書いてみようと思う。まあ思ったことと言っても、物申すとかそんな感じじゃなくて、感想を、つらりつらりと。

お笑いの感想を書くとなると、「素人がえらそうに」みたいな感じになってしまうことが多いし、私もその「えらそう」常習犯なのでなんとかしたいところだが、こればかりは手癖もあるので一朝一夕とはいかない。

形式としては、各ブロックごと、そしてファイナルステージといった単位で書いていくことにする。なお敗者復活戦は見ていないから何も書かない。

 

■Aブロック

 

ルシファー吉岡は、息子のパソコンのエロ画像用フォルダにあった画像が生姜の画像だったことを責める父親を演じるコントだった。艶めかしい野菜の画像SNSにアップされることは度々あるが、そこで大根などでなくむしろカサカサしてそうな生姜に行くあたりのチョイスが良い。だが、大学生の息子という設定が様々な無理を生じさせていた気がする。大学生の息子のパソコンを心配だからって覗くのか? 大学生の息子の性的嗜好について(何歳ならしてもいいというわけではないが)家族会議を開くのか? 誰にも迷惑をかけたわけじゃないのに?  という違和感の源泉はたぶんそこだった。

 

カニササレアヤコは、一瞬にしてワールドを展開できたことが素晴らしかった。ネタは、雅な格好をした彼女が見慣れぬ楽器を吹きながら登場するところから始まる。その後「皆さま、ご機嫌麗しゅう。雅楽演奏家カニササレアヤコと申します」と自己紹介した彼女は、雅楽に使われる楽器のしょうについて説明する。直後に彼女は、それまでの展開からはまったく想像もつかない「モノマネをします」という一言を発する。「モノマネ⁉︎」という驚きから、思わず胸襟を開いてしまう。そしてその瞬間、もう会場の空気は彼女のものだ。この掴みっぷりが上手いったらない。モノマネのくだりも最高。

 

おいでやす小田は、宿泊客からの電話にキレるフロント。あまりにも初歩的なことを訊かれていること、そして忙しいことという2点のキレポイントはあるが、あまりにも沸点が低いように見えてしまう。こうなると、あまりにも常識のことをイチイチ訊いてくる宿泊客というボケに対するツッコミの小田に共感したいはずなのに、小田が共感するには危ないやつに見えてしまってつらい。

 

 おぐのネタは『君の名は。』パロディ。ハゲに偏見しか持っていない女子高生の視点を持ち込むことで、よくある自虐ネタとはまた少し異なった自虐を見れたのが良かった。「ハゲなのに1階じゃない」とかのフレーズは素晴らしい。

 

■Bブロック

 

レンタル彼女をやっている女性の、彼女を演じる状態とそうじゃない(精算時の)状態での変貌ぶりを演じた河邑みくのネタは、彼女のキャッチコピー「大阪ナリキリ娘」にたがわぬものだったが、いかんせん最初の笑いまでが長いのと、そのわりにレンタル彼女という設定に意外性がないことが、どうしても弱く感じてしまった。

 

小道具を自作するというチョコレートプラネット長田のネタは、その小道具の効果をあまり感じられなかった。もちろんネタはあのセットありきなのだが、それが彼のお手製でなくともよいんじゃないかと思ってしまったのだ。ネタは笑いどころも分かりやすかったが、審査員席に陣内智則がいてはどうしても比較して見てしまう。

 

 ゆりやんレトリィバァは、昭和の日本映画に出てくる女優特有の喋り方をパロディするというコント。クオリティはそこそこだが、その喋り方のまま同じようなシーンを、バリエーションを増やしながら延々と繰り返していくスタイルが面白い。

 

セ、セ、セイヤと言い続けるネタをしたのは霜降り明星せいや。あのリズムが癖になる。けれどもそれ自体が面白いわけじゃない。あのネタの笑いどころは、突きの時間の合間に挟まれるショートコントだ。そのコント自体も、それなりの長さの、ツッコミ不在のシュールな時間があり、それをせいやが一言でツッコみ笑いにつなげるという形式をとっている。だからもうネタ全体で、笑うポイントに当たる時間があまりにも短いのと、あとは合間合間のあえて作られるだれたシュールな時間のせいか、バタバタ感が拭えない。勿体ない。「誰の何~!」とか好きなのに。

 

■Cブロック

 

濱田佑太郎の喋りの上手いこと。視覚障碍者である自分が言われたことのある、何の気ないけど(これに悪意があったら笑い話じゃなくなるので、このあたりのチョイスは当然ながら外してこない)ビックリした話という漫談。街で会った人、友人といった非専門家の話をして、そればかりか盲学校の教師という同様の境遇の生徒とそれなりに接した経験があるであろう専門家に近い立場の人もうっかり「野球を見に行く」って言ったのだというオチに持ってくる構成は見事。

 

男運が上がって来るはずだから2年待ってほしい、2年待ってあなた以上の人がいなかったらあなたで腹をくくる、というトンデモ理論を持ち出す女性を演じた紺野ぶるまだが、さすがにちょっと彼女ひとりでそのキャラクターはきつい。「こうちゃん」がいないと、ただただやべえやつと直接対峙しないといけなくて、ちょっときつい。けど「フリーのシステムエンジニア2人挟んで」っていうくだりはクスりときた。

 

霜降り明星粗品のツッコミかるたは、ぴったりとハマるツッコミをビシバシ入れてくれるので気持ちがいい。「あいだみつをそんなん言わんねん」の天丼も決まっている。最初の2つでもうちょっと空気をつかめていたらなあ。

 

優しい世界を優しい世界のまま笑いに昇華したマツモトクラブ。笑う箇所の数こそ少ないけれど、こういう作風は貴重だし、見ていて気持ちがいい。でもネタの賞レースでやるには少し芝居すぎるのかなあ、と思った。

 

■ファイナルステージ

 

おぐは、Aブロックのネタの裏側をするという続編コントを持ち出してきた。優勝までには2本やらないといけないというルールを活用した見事な戦略だったと言えるし、最高にエンタメだった。しかし、そのコント内で説明しないといけないことの多くを1本目のネタに拠っている、あまりにもメタなコントになってしまっていたことが気になった。

例えば「普通ハゲたオッサンが入れ替わるってさ、歯の抜けたおばさん」というくだりは、「女子高生が入れ替わるのって男子高校生じゃん。『君の名は。』だってそう」のくだりがあってこそだ。そもそも「ハゲたオッサン」は誰かと入れ替わらない(数少ない事例である『パパとムスメの7日間』を思い出せば、舘ひろしはハゲていないけれどオッサンと女子高生が入れ替わるのはむしろ正統派の現象なのではないか、とすら思えてくる)。それに、頭を掻き毟っても髪の毛が抜けないことを「犬みたいにボロボロ抜けない」ではなく「犬じゃない!」と短くまとめても意味が伝わるのは、1本目の「犬じゃん!」という嘆きがあってこそだ。そういう点が、いくつも見られた。

だから、私はこれをネタとして楽しむことがあまりできなかった。

 

ゆりやんレトリィバァは、おそらく雨が降る中、道行く人や車に向かって「お願いがあります!」と叫ぶものの、なかなか聞いてもらえないゆりやんが、それでも日常の中でふと思う「やめてください」と思っている些細なことを叫び続けるというコントだった――と思っている。思っている、というのは、ぱっと見ではあまりにもどういう状況なのかが分からなかったからだ。先の説明も、照明の色とか最初の微かなSEやアクトからの推測でしかない。そして、笑いどころもどこに定めたらいいのかがイマイチ分からなかった。訴える内容の「あるある」ネタの笑いなのか、訴える内容と、TVドラマのワンシーンみたいな大袈裟さを伴った訴え方のギャップの笑いなのか、突如踊り出すことの笑いなのか。あと、ところどころ早口になりもはや何を言っているのかが聴き取りづらくなる場面があり、それがさらにノイズになっているのがさらにつらかった。

 

濱田佑太郎は、1本目と変わらずクオリティの漫談を披露した。

2本目のネタは、1本目と比べると話がどんどん動く。まず賞金の使い道の話から、見えないからいらないものとしてプリウス、3Dテレビの話をし、もはや使わないというニュアンスで眼鏡の話をし、そこから話が盲学校時代のエピソードに飛ぶ。この飛躍を繋ぎとめるのは「いらない」だ。ここでは、使わないんだから黒板は(も)いらないでしょ、と思ったというエピソードが、「使わない(からいらない)」というフレーズにより接続されているのだ。そして話は、点字ブロックの話になる。視覚障碍者の通行の手助けとして駅などに設置されている点字ブロックが、盲学校の階段に無かったという話になる。これは「点字ブロックは盲学校にこそ一番にいるはずでしょ!」と思ったというエピソードだ。これは、先の話に対し「いらない」を「いる」に裏返すことで接続される。見事な展開だ。

しかし、その次の、前倣えが前の人の背中にめっちゃ刺さるエピソードは、盲学校時代のエピソードの一つだが、場面以外に前の話とのエピソードを探すのが難しい。だから、それまでの見事な流れと比較すると、ここが少し浮いてしまったような印象を受けた。優勝するに足る面白いネタだったが、だからこそだろうか、もうちょっとを期待してしまった。

 

 

予定以上にいろいろ書いてしまって、想定外に長くなってしまった。

これでは本当に「素人がえらそうに」だ……。

途中からは開き直ってすらいたのでより質が悪い。

全体的に見ればとても楽しく観れた大会でした。優勝した濱田佑太郎おめでとう。

こちらからは以上です。

 

芳根京子のテンションで俺が死ぬ

いきなり個人的な話で恐縮なのだが、私はJR東日本の駅を利用して通勤している。

よくある平日勤務の職種なので、週に平均して5日は最低でもその駅を利用することになる。

土日も電車に乗って出掛けるとならば、もっとだ。

 

その駅にはいくつかモニターがあって、それぞれであのCMが流れている。

芳根京子のー!New Daysの〜〜〜〜Newッ!!

 

モニターは飽くことなく、芳根京子のNew DaysのNewを流し続ける。
今日も流れていたし、明日も明後日も、明々後日も流し続けるのだろう。

 


上の動画を見ていただけるとお分かりいただけると思うが、

芳根京子のNew DaysのNew」、バチボコテンションが高い。

なにが粒立ってるだよ。こちとらしばらく朝勃ちもしてねえんだぞ。

 

芳根京子のNew DaysのNew」のテンションが高いのは、べつに最近始まったことじゃない。

どうもこの画面に走り込んできたり滑り込んだりしてくるスタイルが確立されたのは、

去年の4月ごろのことらしい。

まあ、そんなことは知ったことじゃない。

べつに走り込んでこなくてもテンションがクソ高いことには変わりがない。

 

 

白ワンピースに麦わら帽子の、オタク絶対殺すウーマンの芳根京子

全身真っ青という驚愕のコーデを見せた芳根京子

こだわりの紅しゃけおにぎりを紹介する芳根京子

全部テンションが高い。

 俺の健やかなるときも病めるときも、

 「芳根京子のー!New Daysの〜〜〜〜Newッ!!」

 

もううるせえよ、と。

ライブで「ニシエヒガシエ」を歌うときの桜井和寿かよ、と。抗うつ剤を頂戴。

 

 

私の日常は、しかし、この 「芳根京子のー!New Daysの〜〜〜〜Newッ!!」という

テンションのバカ高い声と共にスタートする。

朝飯を食べると必ず腹を下すモーニングがダウナーの私は、このテンションに毎朝殺されそうになる。

毎日が芳根京子との命の取り合いで、心が叫びたがっている。

芳根京子のテンションが高いとき、次のカットの芳根京子もまたテンションが高いのである。

 

駅の階段を上ったその先のモニターに、

改札を入って真正面のモニターに、

駅の狭いホームの広告に、

電車内のモニターに、

芳根京子は存在している。

そんな芳根京子の猛攻をかいくぐりながら私は職場にたどり着く。

 

仕事をこなし、少しばかりの残業をして家路につく。

最寄り駅に着くと、

あの芳根京子の 「芳根京子のー!New Daysの〜〜〜〜Newッ!!」の

テンションがドチャクソ高い芳根京子ボイスに出迎えられ、

そして家の近所のファミリーマートに転がり込んだ私の耳に飛び込んでくる――。

 

 「運転免許持ってなかった~!!

 合宿免許WAO!宣伝隊長、南條愛乃です!!」

 

世界は今日も騒がしくて賑やかで平和だ。