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『あみこ』感想: レモンスカッシュパンチ

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映画『あみこ』を観た。ようやく観た。 

仕事の都合などもあり足を運べず、5ヶ月越しの対面と相成った。

 

そもそも私が映画館に足を運ぶのも10月初旬以来のことであった。

久々すぎて、途中で飽きたらどうしようかと不安だったが、それは杞憂だった。

 

というわけで感想である。いつものごとくネタバレを含む。

 

 

映画は、あみこ(春原愛良)が教室の窓辺からグラウンドを見つめるシーンでスタートする。

「2月3日、アオミくんがいない」

私が『あみこ』を観た日もちょうど2月3日だった。

そんなものはただの偶然でしかないのだが、ああ最高だな、と思った。

スクリーンでは、あみこが頭を抱えて崩れ落ち、近くにあった机が倒れる。

 

話はそれから時間を遡り、あみことアオミくんの「出会い」が描かれる。

とはいっても、互いに実は顔と名前ぐらいは知っている。

けれど、こうして話すのは初めて、みたいな距離感。

そのあとの会話で、あみこはアオミくんに惚れてしまう。

「意味ないって言ったら、この世の中なにもかも意味ないでしょ。全部どうでもいいよ。(……)普通の奴らは今こんなことに気づかないで、高校生活を送るでしょ。それで大人になって、ああ、あの頃はよかったって語られるのが今だよ。でも、今からそんなふうじゃずっと苦しいね。だからさ、もう意味とか考えずに最強になればいいと思うんだよね」

 ニヒリストなあみことアオミくん。

 

しかし、あみこは、それ以降アオミくんと話さない。

TSUTAYAでストーキングしたりするけれど話さない。

そしてアオミくんは、「大学に行ってブスになった」瑞樹先輩(長谷川愛悠)と付き合い始め、そのまま東京の彼女の家で同棲を始めてしまう。

あみこは、500玉貯金を友人の奏子(峯尾麻衣子)にちょっと色を付けて1万円札2枚に両替してもらい、 長野から東京に旅に出る。

物語は前半パートの長野編と後半の東京編に大きく二分されている。

 

この映画で最も印象に残っているセリフは、東京編のあのセリフである。

あみこは立教大学から出てくる瑞樹を見かけストーキングし、紆余曲折を経て彼女のアパートを突き止める。

そして翌朝、彼女が家を出た隙に部屋へ忍び込み、寝ているアオミくんに馬乗りになって(!)、アオミくんの顔を殴って(!!)起こし、会話をする。

そんなシーンで出てくる、こんなセリフ。

「あんな女、大衆文化じゃん!」

 

多くの人が言及する、分かりやすい「パワーワード」だ。

それをありがたそうに取り上げる感想はあまりに月並みだろう。

それにこの感情自体、フィクションの中では珍しいものじゃない。

あんな凡庸なやつ、なんであんな奴――対して私は、特別で、理解者になれて、エトセトラ。いくらでも、この感情を言語化する言葉は思いつく。

それでも、ここまでそれを印象深くし、かつ端的に表すワードをここに当てはめられた山中瑤子監督がひたすらに素晴らしいと、これを聴いた瞬間、思った。

 

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あみこは、自分たちは「特別」なんだと、どこかで思っていたんだろう。

その「特別さ」は、「真実」が見えてしまうということ。

ニヒリスティックな目で、世界を捉えてしまうということ。

これは、ストーリー紹介の次のような文章に顕れている*1

「人生頑張って仕方がない。どこへ行こうが意味はない、どうせ全員死ぬんだから。」―そんなあみこが恋に落ちたのは同じく超ニヒリストながらサッカー部の人気者でもあるアオミくん。一生忘れられない魂の時間を共有したふたりは、愛だの恋だのつまらない概念を超越した完全運命共同体現代日本のボニー&クライド、シド&ナンシーになるはずだったが…。

 

この前提があるから、「私、自分は長野市で一番可哀想な女の子だと思ってた。長野県全体だと8番目くらいで、北信越大会行けちゃうレベル」みたいなセリフがとても映える。

東京編に入って以降とくにフィルムは素晴らしいな、と思えるんだけれども、あみこの目から観たときに大きく変わってしまったアオミくんと、瑞樹の部屋で相対するシーンのあみこのセリフはとりわけ全部素晴らしい。

 

しかしこのままでは、あみこがどこにでもいる可哀想な、「特別」だと思ってる凡庸な女の子で、これはどこにでもある凡庸な話だった、という結論に至ってしまう。

もちろん、そうではない。

では、あみこと凡庸を分かつものは何なのだろうか。

 

ひとつたしかにあるのは「爆発」である。

あみこがレモンを齧るシーケンスを思い出そう。

山中はインタビューでこう述べている*2

(中略)あとレモンは梶井基次郎の『檸檬』(1925)が好きということもあって。

 あのレモンはまさしく丸善で爆発するはずだった爆弾と重ねられているのだ。

 

風呂であみこがレモンを齧るシーンでは、レモンにしゃぶりつく音が、アオミくんが瑞樹とフレンチ・キスをする際のリップノイズと重ねられる。二人はそのままベッドに倒れ込む。

だからレモンを齧るシーンと性を結びつけることは簡単だ*3

しかしだからこそ見逃されがちなことがある。それは、あみこが湯を張った風呂で、裸になって、体を丸めていたことだ。これは羊水に浮かぶ胎児のメタファーたりえる。

つまりあのシーンで、あみこは二人のセックスによって妊娠され=胎児となって、その後、再誕したのだ。

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キスについて、上に引いたインタビューで山中はこう述べている。

[引用者注: 気になる監督を訊かれ濱口竜介を挙げて]『PASSION』で急に風呂場でキスするところあるじゃないですか、ぞくぞくしちゃって。あの感覚が好きなんだと思うんです。これは『あみこ』のテーマのことなんですけど。だんだん年取っていくと、なにごともルーティン化しちゃって、新鮮さが薄れていくじゃないですか。

セックスにおける「新鮮さ」の喪失と「ルーティン化」については、舞城王太郎『淵の王』の中で次のように表現されている。

さおりちゃんは東京の大学を受ける。受かる。東京の調布市に住む。同じく東京の日本橋に住み始めた三奈想くんとも付き合い続けてるし、二度目のセックスもする。三度目も、四度目も。もちろんそんなの数えるのバカらしくなる。

セックスは、なるほどルーティン化する。もちろん、キスも。

だから、アオミくんと瑞樹も、あのまま付き合い続けていたら、マンネリ化し、そういったことに飽きたのかもしれないし、実はすでに飽きていたのかもしれない。

しかし胎児あるいは乳児たるあみこは、機関車みたいに、次々とレモンを音を立てて齧る。そのさまは、母乳を吸う赤子に似ている。

 

この純朴な必死さが、嘘を生きるられること、それをある種ルーティンとして引き受けていることを良しとしない。嘘の反対には真実がある。真実とは、まさにあみことアオミくんとの間に存在した、あの「魂の時間」である。

嘘を良しとしないならば、あみこの向かう先は東京の、瑞樹の部屋にいるアオミくんのもとしかない。

しかし、あみこが旅路の果てに出会ったのは、ニヒリスティックで真実を目に映す魅力的だった特別なアオミくんではなく、ヒモ同然の面白くもないアオミくんだった。

そして、名台詞が頻出するあの場面に至る――。

 

梶井基次郎檸檬』における「檸檬」は、「疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さ」であると思えるようなものであった。

しかしその感覚は当然「思いあがった諧謔心から」考えてしまった「馬鹿げたこと」であるとは自覚の上である。

だから、丸善に置かれた「檸檬」も爆発しない。

 

レモンというシミリと性と羊水のメタファーが演出した再誕も、所詮は、あみこを行動に向かわせるための虚偽でしかない。

だからあみこがアオミくんを殴るときも、実際的な力を「爆発」させるわけではない。

それは、指に「P×U×R×E」つまり純粋PUREの文字を書くことでなんとかつなぎとめられる純粋さであり、画面のこちら側に指の背を見せつけるような「おともだちパンチ」*4程度の力しかない。

 

すべては無意味だったのだろうか。

あみこが東京に出かけた、という事実は残る。

機関車みたいな「爆発」的行動を見せた、という事実は残る。

ほとんどすべてのことが無意味だったのだとしても、機関車的な、「無敵」の可能性を残していると期待することが許される限り、ニヒリズムに回収されない領土が存在すると信じられる。

それはきっと、とても青臭い、数少ない希望だ。

 

梶井基次郎檸檬』の引用は、「青空文庫」に拠る。

 

*1:Amiko.Official より

*2:山中瑶子インタビュー(『あみこ』):連載「新時代の映像作家たち」 – ecrit-o より

*3:そもそも、食と性はさまざまな作品で結び付けられてきた。伊丹十三の映画『タンポポ』を思い出そう。

*4:森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』より