ヤンキーになりたかった

食う寝る遊ぶエビデイ

変人の集まりという言葉ほど信用ならないものはない

「俺らマジで濃いメンツだよなー」

なんて言うやつがいるけれど、その言葉は全く信用ならない。

 

濃いメンツとは言うが、そもそも濃いとは何なのか?  どういう場合であれば、その集団は濃い人たちの集まりということになるのか? そのあたりは、訊いたところできっとまともな回答は得られまい。

それでもこう返ってくることだけは容易に想像がつく。「キャラが濃い」と。

「キャラ」というのもまた曖昧な概念だ。私たちはよくキャラと言うけれど、それがどんなものなのかあまり分からないまま、漠然とした概念としてその言葉を使っている。

 

キャラに近い言葉には「パーソナリティ」を挙げられなくもないが、「キャラ」の範囲はそれよりも広い。

そこにはその人の性格のみならず、クセのようなものが多分に含まれる。ちょっとした言葉遣いのクセや仕草のクセ。「キャラが濃い」とは、そのようなクセ=逸脱と結びつきが強いらしい。

それでも「濃い」という言葉との関連性は見えづらい。クセがあれば、どう濃いのか。クセは「強い」とは言うが「濃い」とは言わない。「濃い」と結びつくのは、味とか色とか……。

味や色が濃いというと、沈着というかそこに溜まっているような印象を受ける。色素とか、うま味成分や苦み成分。

となると、キャラが濃いとはその逸脱が溜まっていった果ての姿なのかもしれない。しかし、どこへ?

 

「キャラ」という言葉は、体の良いレッテル貼りである。XXキャラと名指すことは、その人物をそのカテゴリに押しとどめることだ。いじられキャラとか天然キャラ。そしてそのレッテルは、本人以外がその人物に貼るものである。「天然」はまだしも「いじられ」は自称できまい。

キャラは、共犯的なものであるし、個人というよりその集団全体での認識である。だからそのキャラ認識を100%誰かの責任に帰すことはできない。

しかしそれを前提としても、XXキャラという認識は、それを言う本人がそう感じているのだというものとして結論づけざるを得ない。

 

で、最初の話題に戻る。

「俺らマジで濃いメンツだよなー」

それは、発話者であるお前がそう認識しているにすぎない。

f:id:ifyankee:20180729013137j:plain

だから「だよなー」と同意を求めるように言おうと、本人のなかでそう結論付けられているならば、それはもうそこで完結してしまう。

 

「濃いメンツ」というのが「キャラが濃い」の言い換えであることは上述したとおりだ。キャラの濃さが逸脱具合によることも。

しかしそもそも、全く逸脱のない人間などいるだろうか? 平均的人間像そのままの人はいるはずもない。逸脱というのは生活の痕跡であり、その意味では誰もが「キャラが濃い」可能性を秘めている。

 

では、実際に「キャラが濃い」とされる起点はなんだろうか。それは、逸脱を観測できるほど、またはその逸脱に慣れ親しむほど親密になるということである。そして逸脱が溜まるのは記憶に於いてである。

ただそれだけのことでしかなく、逸脱の度合いはその実関係がない。

ちなみにキャラの濃さが逸脱に依存する以上、それは「変人」と言うときも同じである。「変人の集まり」なんて自称しているその言葉もまた表題のとおり信用できたものじゃない。

 

「俺らホントに濃いメンツだよなー」

そもそもキャラは他称である以上、濃いメンツなのは「お前ら」であり、「俺ら」を使用した時点で上記の文は論理破綻している。

だからこれは「俺ら仲良いよなー」を言い換えているにすぎない。それならば、「俺」を含むことも納得できる。彼は仲の良さの再確認がしたかったのだ。本人は無自覚なままだが。

そして私たちもまたその破綻や迂回に無頓着なまま、それに首肯したのだった。横浜の不味い居酒屋で。

なんだこれ。ディスるはずがただの良い話じゃねえか。

 

そんなことを、高橋久美子『いっぴき』を読みながら思い出しました。

なんか作詞家、詩人みたいな肩書のせいで見えにくいけれど、わりと「普通の人」って感じの感性の独白やエピソードが並んでいて、でもそこが面白味になっている感じの本です。

いっぴき (ちくま文庫)

いっぴき (ちくま文庫)