ヤンキーになりたかった

食う寝る遊ぶエビデイ

社畜クズ野郎は積読消化の夢を見ない

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』を第一作とする「青春ブタ野郎」シリーズのアニメが放送中だが、これがなかなかに面白い。

この作品について、いろいろと「よくできている」ポイントを列挙するのは簡単なのだが、個人的にとても気になるのは、作品の舞台が藤沢近辺であることだ。

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私は昔、あの近辺に住んでいたことがある。

正直、観光地化した都市である秋葉原がいくらアニメに映ろうと特に何とも思わないのだが、藤沢では少し驚いてしまう。

青春ブタ野郎」シリーズの著者である鴨志田一が脚本を担当したアニメ『Just Because!』でも舞台は藤沢~大船といった湘南地方が使われていた。

これで驚かされるのが、あくまで彼らの生活の場として描かれる以上、湘南といっても江ノ島とかではなく普通に市街地や藤沢駅なのである。つまり先述の秋葉原とはわけが違う。

地方出身の私は、馴染みのある場所が映るたびに、ソワソワする。

 

藤沢駅前OPAのTULLY'S COFFEEや駅前のVELOCE等。

いろいろと「懐かしいなあ」などと感じてしまう場所は多いのだが、もっともソワソワするのは藤沢駅北口ビックカメラの7,8階に入っているジュンク堂藤沢店である。

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読書は私の数少ない趣味の一つだ。

だから、ジュンク堂には電車に乗って足繁く通った。あの店のことはよく憶えている。

赤本コーナーの近くには漫画の棚が数列並び、ラノベ棚もあることとか、その反対側に文芸書や文庫本コーナーがあることとか、そういうことを今でも思い出し、諳んじることができる。我ながらキモい。

 

当時から、本を読むペースに対して買うペースが勝りがちな悪癖はあった。

1冊読み終えて2冊買う、みたいな。我ながら阿呆なことをしているなあ、とか思っていた。

それから数年経った今の私の悪癖は、当時よりずっと進行している。

 

いや、おそらく10月、11月と仕事が忙しかったのが悪い。

ならばこそ、こんなエントリーを書くことになったのだし。まあ、反省なんざこれっぽちもしていないが。

「退職エントリーを書きたい日記」の「その2」の投稿はもう少し先になりそうだが、まあそれは主眼でないのでどうでもいい。

問題は、私にはどうも、忙しくなると浪費が増える傾向があるらしい、ということだ。

 

仕事が忙しいと残業が増える。そうでなくとも忙しい、または忙しい気分だと、なんだか人と会ったりとかそういうことが後回しになってしまう。

すると、忙しい原因となっている出来事で人と会っているのに、なんか誰とも会っていなくて社会から疎外されているような気分がしてきてしまう。

そして、浪費をする=金銭を払う=市場に接することで「社会とつながっている」感じをインスタントに得ようとしてしまう――と、まあ、多分こんなセオリーだと思われる。

 

とは言い条、先述の通り、私の趣味は多くなく、よって浪費の対象も絞られる。

服も買わない――実際には買わないといけないのだが、まあそれは別の機会で追々書こう――し、酒も飲まない、タバコも吸わない。「ないない」尽くしのゆとり世代の文化系クソオタクは、けっきょく書籍に行き着いてしまった*1

そして買っても読む余裕がないから、ずっと積読ばかりが溜まっていく。どうせなら金が貯まればいいのに*2

 

散々、忙しいと書いてきたが、最近はむしろ仕事がなくて困っている。

それでも閑散期なわけではなく、仕事はあるはずなのに手を出せるものがないので、心ばかりが忙しくてたまらない。

まあ、それでも、時間的には余裕が少しだけ出てきた。

昨日は津村記久子『この世にたやすい仕事はない』(新潮文庫)を読み終えた。面白かった。

だから今日は3冊新しい本を買った。いや、おかしいだろ。馬鹿かよ。

これでは、転職に向けてスキルを培うぜ! なんてのも夢のまた夢である。

この世にたやすい仕事はない (新潮文庫)

この世にたやすい仕事はない (新潮文庫)

 

 

いっそ昔みたいに、藤沢近辺まで出かけてみるのはどうだろうか。

可も不可もないインドカレー屋で尋常でない量のナンを「おかわり」として問答無用で追加される、または家系ラーメンの店でまぜそばと炙りチャーシュー丼で腹を満たし、腹ごなしにコーヒーを飲みながら本を読むのだ。

しかし、それをするにもちょっと距離がありすぎる。

 

上述のOPA2階のTULLY'S COFFEEで内定辞退の書面を書いたのも、「青春ブタ野郎」シリーズの登場人物みたいに自分が高校生だったのも、それぞれずいぶん過去のように思える。

だのに、同じことを繰り返すどころか悪化させていて、なんなんだろう、と思う。

ブタ野郎だね! なんて声も、テレビの画面からしか聞こえない。

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どうしたもんかねえ、と独り言ちたくなるけれど、

寝る前、布団に潜ってからの読書は存外に捗って、それはそれで困る。

アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』の冒頭に引かれた、モリス・ブランショの言葉を思い出す。

夜、熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。

彼らはなにをするのか。夜を現存させているのだ。

彼の言葉の主意には反するかもしれないが、私はきっと夜を現存させていれば、明日の朝が来ることを遅延させられると、どこかで願っているのだ。

この年齢の人間が持つにはあまりにもロマンチシズムがすぎる夢想である。

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

 

遠い過去や遠い国。

そんなものに思いを馳せながら、今日もまた布団に潜ってちょっとだけ本を読むのだろう。

今日は何を読もうか。考えているときが一番楽しい。

 

兎角、そんなわけで、積読が溜まる一方だ、というだけの、実にくだらないお話。

このペースでは、一向に、終わらない。

社畜クズ野郎は積読消化の夢を見ない。

 

 

 

*1:そういえば、Amazonサコッシュを名乗る黒色のショルダーバッグを買った。

*2:投資にならない使い方ばかりで使うから浪費なんだよ。だから貯まらねえんだよ。

M-1グランプリ2018感想

去る12/2(日)に開催・放映されたM-1グランプリ勝戦の感想を書こうと思う。

本当なら月曜日か火曜日あたりに書き上げて投稿したかったのだが、仕事の多忙を理由に怠けてしまった。

おかげでその間に、ある人たちの方ばかりが注目を浴びてしまい、どうやら優勝者よりそちらの名を聞く機会の方が多くなってしまった。前回にも増して上沼恵美子への不満をネット上で呟く視聴者が多かったけれど、ただ巻き込まれただけとはいえ結果的には出場者よりも彼女のほうが話題を集めてしまった。

まあこれについても、余裕があれば触れる。まずは兎角、「ネタ」である。

 

司会:今田耕司上戸彩

笑神籤引き手:吉田沙保里/阿部一二三/井上尚弥

審査員:上沼恵美子松本人志富澤たけし立川志らく塙宣之中川礼二オール巨人

 

■審査員紹介

あまりここで話すべきこともないのだが、今回は立川志らく塙宣之(ナイツ)が初の審査員に。

志らくは、師であり立川流の「家元」立川談志が1組に50点をつけるなどしたことを引き合いに出し、「普通の審査をしようと思っています」が「談志が降りてきています」とコメントした。これは、彼が談志から生前、「最も俺に似ている」と言われていたことや、今もリフォーム後の談志宅に住んでいることから考えた冗談の類だったのだろうが、その文脈を知らなければあまり面白くなく、また困ったことに、あまり知られているようなの事柄でもない。

この志らくの小スベりを塙が「内海桂子師匠が降りてきている」と引用し笑いに変えていたのは良かった。

 

■敗者復活戦結果発表

プラス・マイナスとミキの一騎打ちと相成ったわけだが、プラス・マイナスに陣内が話を振った際に、オール巨人の物真似をしなかったことに関して、「物真似せえ。何しとんねん。あいつ」と少し「しょうがないなあ」という感じで笑いながら言うオール巨人は、その後の本戦でのコメントにも滲み出ていたあの感じがして、今にして思うとそれもまた良かった。

上沼恵美子激推しのミキが視聴者投票の結果大差で勝利し敗者復活。

敗者復活戦の感想も書きたいが、マユリカまで見たところで寝落ちしたので書けない。

 

 ○

 

■見取り図 606点

結婚を意識してお付き合いしたい、というテーマといい、全体的にオーソドックスなスタイルとなっていた。またその中で話題がわりと移り変わるため、4分間のネタとしてのドライブ感というか迫力が薄くなってしまっていた。密度も。

富澤の評にもあったように、「ジャンボ勾玉」など面白いフレーズが幾つかあり、かつツッコミの盛山の声がハイトーンで特徴的なので、このツッコミがハマればもっと爆発し得ただろうし、実在しない人物をあたかもいる感じで流していたというネタは実際すごくウケていた。惜しかったな、と思ってしまった。

なお1組目だからか審査員全員にコメントが振られたが、この際の志らくの「最初は目新しさもないし50点付けようかと思った」という発言や、全体的にアドバイス然としたコメントから、真面目に品評をする空気が生まれてしまった。無論、審査員はいつも真面目にするのだが、それが客席にまでやや伝播したのが、少し痛かった。

 

スーパーマラドーナ 617点

隣人が温厚な顔をした怖い人いわゆるサイコキラーだったら怖いよね、という話からコントに入るネタ。武智が「怖い人」をするのだが、M-1決勝の常連である彼らのネタの傾向を踏まえれば、それはつまり田中がよりヤバいやつをするという宣言でもある。

実際、ドアを勢いよく閉めてドアを何個も閉める導入部分は完璧。次に田中は何をして武智を怖がらせるのだろう? とワクワクさせられた。しかし、包丁で少し刺したり、謎のギャグを披露したりと「狂人」っぷりを田中が披露しても、いつもよりキレが悪く映ったのは何故だろう?

思うに、武智の「怖い人」っぷりがステレオタイプすぎたのではないか。もちろん、それは田中の「よりヤバい」感じを強調するためなのだろうが、これがネタ全体に重さをもたらしてしまっていたような気がする。田中が1人で状況を再現し武智が横からツッコミを入れるスタイルも決まっていたように、田中の演技力は磨かれているのだが、今回の武智のサイコキラー演技がなかなか本人にハマっていなかったのが痛かった。

それでもこれが、田中の魅力を一番出せると思い選択したネタだったのだろうし、武智も「今年一番のネタでした」と言い切ったのはちょっとだけかっこよかった。まあ、そのあとでアレなことになるのだが。NON STYLE井上の当て逃げ事故に同乗していたりと、武智は何かと脇が甘い。

 

かまいたち 636点

タイムマシンで過去に戻れたら。このありがちな仮定に、あの娘に告白したい、とありがちな夢想をする濱家と、ポイントカードを作りたい、と言う山内。当然、山内の方がズレれいるとして話が進むのだが、次第に山内の論理性が勝ってきて、揚げ足を取ってでも自身の正当性を確保しようと濱家が自滅していき、ボケとツッコミが入れ替わっていく――このダイナミズムが会話っぽくて面白かった。つまり、ただマイクの前で喋っていただけの筈なのに面白くなっている、というような。キングオブコントチャンピオンなのにしゃべくり漫才で勝負しているのも、なんだかこう熱くさせる。

何が悪かったんだろう? と思うが、やはり後半がやや聞き取りづらくて、クエスチョンマークが頭に浮かんでしまい、やや引いてしまったのが原因なのかもしれない。だからか、漫才としてはヒートアップし勢いもどんどん増しているはずなのに、少し勢いがなくなったように感じた。

 

ジャルジャル 648点

小学校の頃やっていた遊びを懐かしむなかで、福徳が「国名分けっこ」という聞き慣れないゲームの名前を口にし、実践してみるところから始まる漫才。前年の「ピンポンパンゲーム」と同類の、半ばリズムネタ化したネタである。

今作は、前作ほど後藤が盛り上がらないので、福徳の言う「国名分けっこ」に翻弄される後藤という関係性が明確になっており、これが漫才として分かりやすくてよかった。後藤がずっと怪訝そうな顔をしてるのが何度見ても笑える。

ドネシアもゼンチンも少しだけ声の高さを下げて強調しているのだが、特に「チン」は金属を叩いたときの高い音のイメージがあるので、後藤が低いトーンで「ゼンチン」「チン」と言うたびに笑えてしょうがない。採点後のコメントではオール巨人が"天丼"の手法と結びつけて語っていたが、一番はそこじゃないか、と思う。

ただ2人がマイクの前で喋っていて面白い、という漫才のしきたりと、コント漫才とかXXを知らないとかのよくある漫才ネタの「嘘」をどうしてもできないというジャルジャルの生真面目さが産んだ、子供っぽいゲームにただ興じるという系統のネタは素晴らしい発明に思え昨年も大いに感動したのだが、本作はなおのこと素晴らしかった。なおあの「国名分けっこ」は、福徳が国名をどう言うかは毎度異なるらしい。頭おかしい。

ただし、こういうネタなので、ハマる/ハマらないの差が激しい。だから、あまり1位通過の漫才ではなかったのかもしれない。それでも彼らが高得点を出して最終決戦に進んでくれたのは嬉しかった。

 

ギャロップ 614点

モデル7人が揃っている合コンに4対4とするための人数合わせとして、毛利は頑なに林を呼ぼうとするというしゃべくり漫才である。

ここでは、ボケは「20代のモデル7人が揃った合コン」に「ツルツルに禿げた162cmの40代男性」である林を人数合わせでアサインしようとすることであるのだが、どうにも不条理性が弱い。もちろん、実際にそれをされたら嫌だと思う人が大半だろうしその意味でボケとして成立するのだが、あくまで「合コン」でなく「20代のモデル」というその他参加者の存在が嫌がる根拠になっているからだ。そしてそれに対するツッコミの根拠が「禿げ」のみであるのが苦しい。あまりにも一辺倒になってしまい、ダイナミズムに欠ける。

また、このボケとツッコミの条件が相まって、禿げに関する「自虐」が20代のモデルたちとなんか比べたら僕なんて……という「卑屈」に聞こえてしまう。上沼恵美子の指摘した「自虐は笑えない」は少し誤りで、正確には「卑屈は笑えない」ではないだろうか。

 

■ゆにばーす 594点

遊園地ロケで写真を撮られ、「激ヤバブスカップル」とSNSに上げられたことから、遊園地ロケの練習をする、という設定のコント漫才だったが、終始上手くハマらなかった。「反吐が出るわ!」がいっさいウケなかったのが、キツかったかもしれない。

少しネタが荒かった感は否めない。まず、昨年の「同室宿泊の練習」は、それでもいいか、と事務所=よしもとが画策しているとはらが言い、そうなってもよいように、と練習するという流れだった。必ずしも同様の流れにしろ、というわけではないが、遊園地ロケという限定的な状況を、既に起こってしまったことの再来を防ぐために練習する、という設定にやや無理がある。また、漫才内コント内漫才がワンシーンあったが、どうにも構造が多層的すぎて難しい。それに、そのコテコテの漫才をするというボケそのものが長すぎて、リズムが一旦途切れてしまっていた。まあ「考え過ぎ」なのかもしれない。

「たくさんの児童が待機しているよ」とか「お前神奈川県民やろ!」とか、流石の面白いフレーズは今回もそれなりにあったので、非常にもったいなく感じた。

 

■ミキ(敗者復活) 638点

ジャニーズに勝手に兄・昴生の履歴書を送った弟の亜生と、その行為のおかしさを指摘する兄の昴生のハイテンポなしゃべり漫才。

家族が履歴書を送るもの、という都市伝説を大真面目に実践し、昴生のツッコミを自虐と捉えて励まそうとする亜生の狂気が面白い。それだけジャニーズが王子様みたいなイケメンの記号として成立していることも凄いが、それにより亜生の狂気を立たせ、自虐として昇華させたのは見事。絶対いけるって!  と言う亜生の、実は根拠が薄いこと。コウセイのコウは昴(すばる)って書くだけで、「ヤバない!?」と鳥肌が立っている旨のアクトを全力でやる亜生のおかしさ。

個人的な好みを言えば、昴生の声がうるさくて、なんだか一辺倒な感じがししまって好きではないのだが、「SMAPに入りたい」ってボソッと言ったあたりは面白かった。

ただ、こうも上沼恵美子がファンだとか言うと、贔屓されている感じが出てしまって、変に印象づけられてしまうような気がして、これはこれで不憫である。

 

■トム・ブラウン 633点

サザエさん』の中島くんを5人集めて最強の中島くん「ナカジマックス」を作るというネタ。こうして文字に起こすと意味がわからない。

中島くん4人に、中島みゆきが1人紛れた結果、中島みゆきが一人勝ち(?)してしまう。最初のうちは、この中島みゆきのキャラが強いというボケでルールを説明し、そこへ次第に木村拓哉などのキャラが立っている芸能人を混ぜ込んでいくとどんどん変化していくようになり、ネタのスピードも加速する。途中からはサンプリング音楽を聴いているみたいで、少し情報が多すぎて笑わざるをえない感じがして少し悔しい。

ボケのみちおがこのおかしいゲームを始め、ツッコミの布川は「何言ってるんですかね」と言い最初こそ観客の側に立とうとするが、その直後からもうゲームへのワクワクを隠しきれない感じが狂気をはらんでいて面白い。ツッコミが、みちおの頭を掴むという乱暴なものであるのも、同様に狂気である。

 

霜降り明星 662点

豪華客船に乗りたいせいやがその演技を横でするのに、粗品がツッコミを入れる漫才。

始まる前は、トム・ブラウンの直後とあって大丈夫か?  と思ったが、「ボラギノールのCMか」というツッコミが全てをさらっていった。あの「ちょうどいいところに決まる」ツッコミの冴えが素晴らしい。モテキ』のリリー・フランキーのセックスみたいで。

個人的には、ダンスパーティーのくだりが、テンポが素晴らしくて好き。

それにしても粗品は顔がいい。顔がいいから、少々ナルシスティックに正面を向いて行うツッコミが映える。

 

■和牛 656点

ゾンビになったら殺してくれるか? という問答を繰り返す漫才。

まず設定がおかしいのだが、。水田は心が残っているかを重視するのに対して、川西は身体が腐っているかを重視する。これだけならば、人間とゾンビの境界は何かという問答にすらなり得るのだが、川西は「そこそこゾンビ」を許容するのに対し、水田はそれを「まだまだ水田」であるとして許容しない。この徹底ぶりがおかしい。

だが何より見ものは、「そこそこゾンビ」と化した川西に水田がご飯を作ってあげるコントが始まったところからだろう。ナチュラルに同棲していそうな二人もまずおかしいが、死後硬直している川西の演技が素晴らしい。カップルネタの女性もそうだが、和牛の面白さは何より彼の演技力に宿ると個人的には思う。完全にゾンビと化した水田に引っ張られる川西の足の動きが細かすぎて、腹が捩れるかと思った。

 

以上、1st ROUND。

得点数の上位3組(霜降り明星、和牛、ジャルジャル)が最終決戦に進出。

 

ジャルジャル 0票

ネタの入りに福徳のした「ジャルジャルでーす!」の名乗りが気になる後藤。お前だけジャルジャルみたいで嫌、と言うと、横でシャキーンって感じで決めポーズしてくれ、と言う福徳。実際にやってみて、なんだか添え物みたいで嫌だ、と後藤。

以降、後藤がいかに「ジャルジャルでーす!」の名乗りでの存在感が福徳と均等になるかを気にするくだりが続くのだが、このムキになる感じが面白い。このやりとりで、「自分を両手の親指で指す」動作の均等さを確保するというゲームのルールが説明されている。この流れは、ガソリンスタンドのコントに入っても続き、むしろコントを「ゲーム」が侵食してしまう流れも秀逸。

極めて彼ららしい漫才で、とても楽しく見られたが、一方で今にして思うとルール説明的な場面が長すぎたなような気もする。しかし、コント部分がゲームによって壊されてしまう構造を持っている以上、後半部分はあの長さが限界のような気もするし、他の要素を入れるとノイズになる。難しい。

 

■和牛 3票

オレオレ詐欺が心配だから、オレオレ詐欺の電話を自分で母親にかけて訓練をする、という設定のコント漫才

オレオレ詐欺の電話がかかってきたときの練習というイベント自体はありがちだが、それを自身の母親に行うという設定が狂っている。しかしそれも、あまり突飛な発想ではない。少しジャンプすれば考えついてしまう。それでもこのネタが抜群に面白いのは、自身の善性を疑わず人を騙したことに良心の呵責を感じていなさそうな水田の表情と、面白いぐらい騙されオロオロし怒る川西の表情という、二人の演技故であろう。本当に上手い。

騙し合いゲームが始まり、しかし水田に踊らされる川西のくだりなど、展開もあって面白いのだが、いわゆる「上手さを感じすぎてしまう」の域に入ってしまっていた気もする。過去2大会連続で準優勝に終わっていた和牛の今年の闘い方が、技術を見せつけて他を圧倒し文句のつかない優勝をしてやろう、というものだったのかもしれないが、もしかしたらやや策に溺れてしまったのかもしれない。

 

霜降り明星 4票

小学校の想い出の各シーンをせいやが再現し、粗品がツッコミを入れる漫才。

給食、プール、校長室と場面がコロコロ変わるので実は話がバラバラになりそうなところを、私立校の特徴(ハンドドライヤー、冷房)や同じ厳しすぎる先生(喋るな、濡れるな)を登場させることで一本の話にまとめあげている。せいやのハチャメチャな動きに隠れているが、よく考えられたネタである。また、少し変わったワードを選択しているように見えて実はただの駄洒落も多く(例えば「プリンセス転校生」)、分かりやすいので笑いやすいのもバランスが良い。「7代目ひょうきん者」もリズムが良いし、歌舞伎の見得を切る動きなのも、耳馴染んだフレーズ(○代目市川xxみたいな)を思わせ、リズムの良さに拍車をかけているような気がする。しかし、やはりこの上手さは、せいやの奔放さに上手く隠されている。せいや粗品のフリップの代わりと揶揄する声もあるようだが、せいやあってこその霜降り明星の漫才なのである。

正直1本目ほどの爆発力があったかと言われると少し疑問だが、面白かった。

 

優勝は7票中4票を集めた霜降り明星

初の平成生まれかつ史上最年少のM-1王者となった。

最初から4票が霜降り明星だったせいで、その時点で彼らの優勝は確定。以降はずっと和牛の票だったわけだが、それを見ながら「よっしゃー!!」と叫ぶせいやがうるさくて、しかしなんだか勢いを感じさせてエモかった。後ろに立つ和牛らの表情もまた、心に来るものがある。

 

今年のM-1を最後に、和牛*1ジャルジャルスーパーマラドーナギャロップかまいたち*2は参加資格を失う。プラス・マイナスもそうだ。

だから来年ももし開催されるならば、今度は一気に世代交代が進んだような大会になるんじゃないか、と思う。そしてそうだとしたらば、その口火を切ったのは霜降り明星ということになる。

まあ、御託はよそう。霜降り明星、おめでとう!

 

 ○

 

最後に、目下話題となっている「アレ」について。

 

とは言っても、別にあの2人に対して、行為を品評してもしょうがないので、 審査自体について。

 

今回は、1組目の見取り図のネタ披露後、審査員全員にコメントを求めた。その中で出てきたコメントが、やや品評然としたものだったので、少し会場の空気が固くなったような気がする。無論彼らがするのは審査であり品評なのだが、先述のとおりそれが客席に伝播してしまったような。そして、その主犯はおそらく志らくである。

例えば、かまいたちに対する「魅力の前に技術は太刀打ちできない」という評は、「笑う前に考えろよ」というメッセージに受け取れてしまうし、ジャルジャルに対する「笑えなかったけど頭の中は面白いと言っている」という旨の評も、あれだけ笑ったあとに言われては少し興が醒める。そのような意図がなくても。そして別に、志らくにも、客席を怖がらせようという意図なんかなかったはずである。

志らくの評自体は、技術や伝統性よりも発想などに重きをおいたという点で一貫しており、また落語を引き合いに出さないのもあの場においては真摯さの現れであろう。ただ、あまりに露悪的に振る舞いすぎて、観客を怖がらせすぎてしまったのかもしれない。50点のくだりとか。

 

一方、あの騒動で「これを言えば大衆の支持も得られるだろう」として持ち出されていそうな上沼恵美子への批判だが、実際、放送中は多くの人がそれをSNS上に投稿していたものだった。

まあ確かにミキ98点はやりすぎの感があったし、あそこまでされてはミキもやや不憫なのだが、結局は品評など好き嫌いである。先程の志らくの「発想」ではないが、何に重きを置いて評価するかの違いでしかない。その意味で言えば、彼女の言い方も芝居やネタがかっていたとはいえ、シンプルに笑えるものが好きという感性に従うという点でブレはなかった。まあ、それで十分じゃないか。

思えば放送中、上沼の発言を受けて、今田が「笑わないよー」と暫定ボックスだか控室だかに対して声を掛ける場面があった。見取り図のコメントが始まりだとすれば、これは予兆だったのかもしれない。

 

ただまあ、芸人たちが、今日は自分たちが主役になるんだ、と息巻いてやってきた決勝の舞台で、審査員の方が注目を浴びそうな展開は、望ましいものじゃないだろう。それもまた理解できる。また、審査にまったく不満を持つな、というのも難しい。だからといって、あの行為は明らかに「マズい」こともまた確かである。だからどう反応すべきかが難しく、どの部分にまず言及するかが、なんだかリトマス試験紙みたいになっていそうで触れるのも正直怖い。

しかし、M-1グランプリ2018について書くならば、まったく触れるのも不自然なので、少しだけ書いてみた。

 

いずれにせよ、面白いネタが見られて笑えれば、私はそれで満足である。

冬に行われる数々のネタ見せ番組が、ぬくぬくと家で楽しめるものたらんことを。

それだけが願いである。

 

*1:てっきりラストイヤーだと思っていたが、2006年結成らしく、まだ出場権はあるようだ。訂正。

*2:ギャロップかまいたちは2004年結成なので、おそらく来年も出場権がある。ただし、ギャロップはラストイヤーと番組中で言っていた気がする。訂正。

退職エントリーを書きたい日記【その1】:私のリビドーについて

転職エントリーが書きたい。

少し肌寒い月末の夜に、退勤の道すがら、不意に、そう、思った。

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他職種と比較してだが、インターネットでITエンジニアは所属企業の名前を出して活動することが多い。

だから、退職や転職について書かれたブログはいくつか目にしてきた。

特に最近でバズったと言えばこの記事だろう。

 

こんな診断メーカーもできている。私がやったらJR東海だった。

 

私が退職エントリーを書きたいと思ったのは、ウミネコが桟橋で泣いたからでもなんてもなくて、SNSを見ていたときに、ふと、だった。

大学時代の知り合いが退職・転職の報告をしていたのだ。

転職だけが選択肢じゃないことはわかっている。けれど、現状に何かしら不満があるならば、このウェーブに乗ってみてもいいんじゃないか、と何度したか分からない決意を、また、したのだった。

退職エントリーを書くためにはまず退職をしないといけないのだが、私に退職の予定はまだない。いつすべきかとんと見当がつかぬ。何でも退職届を出して、薄暗いところでワーワー言われないといけないことだけは把握している。

だから「書きたい日記」だ。

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私の性格上、転職先がないまま退職を決める思い切り良いことはできそうにない。

しかし、仕事をしながら転職先を探せるほど器用でもない。

あれ? 詰んでね? 右も左も細い道。細道ゆく獣になれない私たちである。

 

スパッと無職になれないのは、その後の生活の見通しが立たないからだ。

貯金はゼロではない。蓄えはあるし、数ヶ月働かなくても、たぶん何とかなるだろう。それに、今の時代だ。すぐに職など見つかる気はする。

それでも不安が拭い切れないのは、私が新卒就活に大苦戦したからである。

 

今にして思えば、当時はかなり悪手の戦略ばかり取っていた。

そこを改めれば今度はあっさり決まる可能性だって十二分にあるだろう。

しかし、ちゃんと転職活動をせずそれに苦戦する自分、どこからも必要とされない自分を認識することで安心する、そんな社会的な自傷行為を心地よく感じる厄介なメンタリティがまだ私の中に巣食っているのを、日々感じる。

そいつを何とか取り除くか、ケージの中から出てこないにようなだめておかないと、また同じことを繰り返してしまう気がする。

当時の「悪手の戦略」も、「そいつ」を好き放題暴れさせたこと結果だった感は否めない。

その新卒就活時のことは、機会や書く気があればまたどこかでまとめるかもしれない。

 

当時は、内定が出ないまま仕方なしに日雇いの仕事をしながら、休みの日はボロアパートのカビの生えた四畳半でミシェル・ウェルベックを読む生活が理想だった。

しかしそんな在野の読書家的な生き方は、もう流行らないであろうことは薄々感づいている。

それは夢想でしかない。

実際にそうする蛮勇もなかった。

だから今の会社に勤務することになったし、そこで漫然と過ごしてきたわけだ。

 

ぶっちゃけ、弊社に関しては、新入社員研修のときからヤバさを感じていた。

 

この会社に勤め続けようとは思えなかったし、そのつもりもなかった。

先述の通り、何度か転職を考えた。

それでも今まで勤務してきたのは「惰性」ゆえであった。

 

上述の「そいつ」の生存は感じるが、少しは報酬だとか事業内容だとか、そういった諸々を気にするようになってきた。

退廃的に暮らしたいとか思っていた頃に比べれば、は少しだけ欲が出てきたのだろう。あるいはリビドーと言ってもいい。

この心境の変化は、ちょうど7月から8月にかけて、仕事がこれまた忙しかった時期にまず感じたものである。だから「余裕が生まれたからだ」なんてクリシェは、正直あまり言われたくない。

 

ずっと惰性でやってこられただけのことはあって、今の会社も最悪なわけじゃない。

いわゆる「人並みの生活」ができるだけの収入を得る道は社内に存在しているらしい。

けれど、それを認識したところで閉塞感が解消されるわけではない。

だから何かのキッカケにするという意味も込めて、転職という選択肢を選ぶことになるんじゃないかな、と感じている。

転職は祈りだ。僕は祈る。

 

もちろん、辞めたい理由はそれだけじゃない。

職場への不満はちゃんとある。

それが今の生活リズムや上述の「閉塞感」と密接に関係しているのは確かだ。

でも、長くなるので今回は触れない。まあ、追い追い書いていこうと思う。

退職エントリーらしくはないが、これはあくまで退職エントリーを「書きたい日記」なのだ。

 

そんな感じで「退職エントリーを書きたい日記【その1】」である。

記事タイトルには、今後類似の記事を書くたびに増やすつもりで数字を付した。これは、退職への距離のバロメーターだ。

いつもとはかなり趣向の異なる記事となったが、今日はこのくらいで。

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画像は全て、unslashから

 

宝多六花さんが可愛いって言うだけの記事

最近はどうにも仕事が忙しく、まったく記事を更新できないでいた。

だから、本来こういう記事は各クールの初月にすべきなのだから、いまさらしてしまう。

今クールは、どんなアニメを観ていますか?

 

テレビアニメの大きな目的に原作の宣伝があるのなら、今クールそれにもっとも成功しているのは『転生したらスライムだった件』だろう。

その他、残虐・陵辱描写*1で話題となった『ゴブリンスレイヤー』や、作画崩壊*2が凄まじい『俺が好きなのは妹だけと妹じゃない』など、話題作はいろいろある。

だが何につけても、ツイッターやpixivなど、日本のオタクが集まりやすい場所で話題になっているのは『SSSS.GRIDMAN』だろう。

 

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『SSSS.GRIDMAN』(以下、『GRIDMAN』と表記)は、TRIGGER制作のTVアニメーション作品だ。

円谷プロの特撮作品『電光超人グリッドマン』を原案とする完全新作作品となっている。

戦闘時の電柱の描写や、グリッドマンが街に降り立つ際の粉塵、なアクションや、敵襲に際して場所や時を構わず鳴り響くプライマルアクセスターなど、特撮ファンを懐かしい気持ちにさせる描写が徹底されている。

 

なるほど確かにフェティッシュだ。特撮フィルムのファンが頷くのも分かる。

しかし、興を削ぐようで申し訳ないが、問いたいのである。

これ、本当に面白いのか? と。

 

私は『GRIDMAN』を、ツイッター上での盛り上がりに当てられて2話「修・復」から観始めて、現在は最新話の7話「策・略」まで一通り一回ずつ視聴している。

2話は面白かった。

戦闘により壊れたはずの街が修復されている、というある種のお約束への疑念が挟まれるという深夜アニメ的なメタ視点から、数人が数年前に死んでいることにされているという事実が挟まれることで戦闘に緊張感が生まれる。

なるほどこれは面白いなー、とか無邪気に言いながら3話「敗・北」を観た。

1話に描かれていたであろう「出会い」、そして2話で生まれた「疑念」。では、3話は何を見せてくれるのだろう? と思っていたら、何も起こらなかった。

 

敗北か!? 前話の危惧が現実になった! 一体どうするんだ、グリッドマン

と思っていたら、あっさり「生きていた」と判明。新世紀中学生たちの登場もあまり盛り上がらず、あっさり復活したグリッドマンは、割とあっさりと敵を退けてしまう。

以降、4, 5話は何となくテンポが悪く、ぶつ切りみたいな感じで話が進み、どうにもつまらない。

6話は「とうとう世界の謎が明かされるぞ!」といった具合だったのだが、いかんせんOP明け最初のCMでわりともうネタバレされているのでいまいち盛り上がれない。

また4話以降は、今のところ敵陣営である新条アカネ(上田麗奈)がグリッドマンの正体を探ろうとするストーリーが展開されているが、視聴者は登場人物同士の関係図を知っているし、肝心の探偵となるアカネの中でほぼ答えは出ているし、アカネの方に正体を隠す気がないので行動も大胆になりがちだ。だから、「バレちゃうよ! もっと慎重に行動して!」なんて応援しようにもそれが成立しないので、どのような気持ちで見守ればよいのか分からない。

 

正直言って、べた褒めできるストーリーテリングではない。

また私は作画オタクでもなければ熱心な特撮ファンでもないので、円谷プロ作品のオマージュを込められてもよく分からないし、電柱の描写などにも特に心沸き立たない。

と、まあ不満ばかりを述べてしまった。

これでは文句を言うためだけに観ている口うるさいオタクみたいだ。非生産的だし観るの止めたら? とオタク働き方改革を勧められても文句は言えない

しかしそれでも私が『GRIDMAN』を毎週欠かさず観ているのは、ヒロインがどちゃくそ可愛いからだ。

 

『GRIDMAN』のメイン格ヒロインは2人いる。

主人公の響裕太(広瀬裕也)や内海将斉藤壮馬)と共にグリッドマン同盟ということになっている宝多六花(宮本侑芽)と先述の新条アカネである。

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私が『GRIDMAN』を知ったのは、このヒロインたちのファンアートをツイッター上で見かけたからだった。

今でこそ落ち着いたが、放送開始当初はpixivのランキングでも上位をこの2人のヒロインが独占状態であったほどだった。

まあ、それぐらいネットのオタクたちは、この2人に魅了されちまっていた。

 

 新条アカネは、端的に言えば胸が異様にデカいオタク女である。

そ、そんなおっぱいなんかに負けないんだから! なんて言っても、数々のオタク受けしそうな属性がありすぎてとんでもない。クラス一の美少女で誰からも好かれてるのにどこか闇がありそうだったり、実際に性格も生活も破綻していたり、怪獣オタクでLINEアイコンがレギュラン星人だったり。

そんな彼女は、オタクから「グリッドマンの上半身担当」なんて呼ばれている。

目を覚ませ。タイムラインがアカネちゃんのおっぱいと足裏に侵略されてるぞ!

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一方の宝多六花は、アンニュイな感じではありつつも、わりと普通なクールな子で、根が優しい女子高生として描かれている。

クラスでよく一緒に遊ぶ人もいるし、普通に音楽を聴いて、普通に勉強もしているようだし。おかしなところと言えば、スカートの丈より長いせいで何も履いていないように見える白いカーディガンを制服に合わせて着ているところぐらいか。

そんな彼女は、オタクから「グリッドマンの下半身担当」なんて呼ばれている。

目を覚ませ。タイムラインが六花さんの太ももに侵略されてるぞ!

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そう。困ったことに、このヒロインが可愛いのである(可愛い)

私は2話を観たときから宝多六花さんに魅了されてしまっていて、もう話がつまらん! とか憤りながら、ずっと宝多六花さんが画面に映ったり喋ったりするのを楽しみに『GRIDMAN』を観続けている。オタクはギャルが好きだからね、仕方ないね。

もう宝多六花さんが可愛くしてどうしようもない。画面に映るたびに注視してしまっている。イヤフォンの色が青ってのがセンス良いよね。昔使っていた青いイヤフォンを引き出しの奥から引っ張り出して、また真似してそれを使い始めるレベル(実話)

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そして、ちょっと炎上した抱きまくらのデザインにも採用された水着姿が5話「疑・念」にてお披露目になったが、他のキャラクターたちと比べてやけに気合が入っている。何なん? そのデザイン。

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ちなみに作中では、女子はみんなこんな感じのセパレート式の水着で、ラフティングをしている。頭がおかしい。

そして六花さんは、山の中に怪獣が現れたことを受けて走り出した裕太と内海を追って山道数kmをこの水着で駆け抜けた。頭おかしい。頭おかしいけど、裕太のことを真剣に心配してるっぽい感じ最高に可愛い。良いやつかよ。良いやつなんすよ。

 

6話「接・触」では、六花さんはアンチくんを保護しお風呂に入れる。シャワーを浴びさせゴシゴシと体を洗う六花のスカート+ジャージも素晴らしいし、怪獣であるアンチくんに果たしておちんちんはあったのかも気になるが、ここで大事なことは、いよいよ宝多家の中にカメラが入ったってことだ。

そして7話ではとうとう宝多六花さんの部屋にカメラが入ることと相成った。すげー! 女子の部屋だ! 女子の部屋だぞ!!

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この生活できるレベルには片付いてるけど適度にいろいろ散らかっている感じがたまらない。

は? 最高かよ。Macbookを使う女の子に悪い子はいないんですよ!!!

 

と、ずっと宝多六花さんを観るためと言っても過言じゃない感じで追ってきた『GRIDMAN』だが、6. 7話と話の核心に迫ろうとしているところで、まあその核心自体は先述のとおり「うん、知ってた」でしかないのだが、対比構造が明確に使われ始めてちょっと面白くなってきた感じがある。

アンチ(鈴村健一)くんのスペシャルドッグを踏むアカネが、自分が裕太にあげたスペシャルドッグを問川(湯浅かえで)らが遊んでいたバレーボールが潰したのを根に持って彼女らを殺した、とか、アカネ自身は裕太の部屋に不法侵入していたのに、アンチくんが部屋に入ったことにマジギレする、とか。

まあ、露骨とも言うがね。

 

女の子が可愛くて、かつ話が面白いならば最高である。

だから、ここから加速してくれるなら言うことはない。

もっ先へ、「加速」したくはないか? 少年――*3

 

新条アカネが敵陣営であることをグリッドマン同盟は認識したようだし、アカネに片思いしている内海と、彼女と幼馴染である六花が、どうアカネと関わっていくのかというのがこれからの主眼になるんだろう。

そして、そのなかで、黒幕っぽいアレクシス・ケリヴ(稲田徹)とどのように対峙していくのか。アカネやアンチくんはそこにどう関わっていくのか。そして、街に「外がない」という問題は物語上どう扱われていくのか。

気になる要素はたくさんある。散々言ってきたが、そっちも楽しみなのだ。

 

ちなみに、グリッドマンが敵2体に襲われてピンチに陥っているのに、特撮あるあるだ! とテンションを上げている内海を見るときの六花の目が大変良い感じにゴミを見るような目であったことも念の為触れておこう。

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このシーンの六花の目が、特撮ネタに反応する視聴者=内海に対する外部の冷静な目として、そして6話の内海と話すアカネは、彼(ら)を踊らせるクリエイターとして機能するんじゃないか、というメタ構造についてちょっと考えたけど、まあたぶんそんな話じゃなさそう。

 

兎角、私は宝多六花さんが可愛くて仕方がないし、彼女を見られるだけで『GRIDMAN』には大満足なのだ。

ED映像の、机の上にぴょこんと座る六花さんがめちゃくちゃ可愛い。

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私が気に入るキャラは、その多くが暖色系の髪色だったから、少しばかり驚きではあった。

アストルフォとか一色いろはとか。

そんなこと泉鏡花(『文豪ストレイドッグス』)以来だから、思い切ってファンレター書こうかと思った*4レベルだ。

とか思ってたけどよくよく考えたら耳郎響香ちゃんとか激推しだったわ。まあ、この記事では都合が悪いのであえて気づかなかったことにする。

 

けれど、宝多六花のそもそものデザインコンセプトは「手が出せない無理めの女子(TRIGGER内男性基準)」らしいので、私も例に漏れず惨敗するか、あるいは手が出せないんだろう。

「あの子は彼氏候補の男とグループでスノボ」に行き、「残された」私は「つぼ八で飲」むしかないんだろう。最高かよ(錯乱)

 

もう宝多六花をすこるしかない。そこにしか、現代の救いは残されていない。

 

 

*1:ゴブリンに噛まれて大出血した女神官ちゃん、助かっても絶対に何らかの感染症もらってそう。

*2:俺が好きなのは妹だけど誰だお前。

*3:もっ先 (もっとさきへかそくしたくはないかしょうねん)とは【ピクシブ百科事典】」を参照のこと

*4:「そんなことブランキー以来だから 思い切ってファンレター書いた」(忘れらんねえよ「CからはじまるABC」)

『劇場版フリクリ オルタナ』感想: 僕たちはケバブ屋の女が見たかったわけじゃない

先日、『劇場版フリクリ オルタナ』を観た。これまでも散々、様々な方が感想文を書かれていると思うが、これもそれらに類する感想文である。

以降の記述は、『劇場版フリクリ オルタナ』およびOVAフリクリ』のネタバレを例のごとく含む。そういうことを気にされる方は、鑑賞後にお読みいただくことをおすすめする。

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会社を休んだ日、私はTOHOシネマ新宿で昼間からこの映画を観た。別にそのために有休を取ったわけではないが、図らずもそういう形になった。

この映画に期待していたわけじゃない。ディス記事と思しきタイトルの感想文がいくつか存在することは知っていたし、 PVを見たときから不安はあったからだ。

鑑賞後、下りエスカレーターに乗りながら、私は目尻が少し濡れていることに気づいた。それは感動のため涙ではなく、ただただ悲しかったから溢れてきた涙だった。当記事は、『劇場版フリクリ オルタナ』のディス記事である。

(なお以降は、『劇場版フリクリ オルタナ』を『オルタナ』、『劇場版フリクリ プログレ』を『プログレ』と呼称し、『フリクリ』とはOVAフリクリ』を指すものとする)

 

■ピザ屋の彼女じゃないからハル子をグレッジで打つベンジーはいない

いきなり自分語りで申し訳ないが、私が初めて『フリクリ』を観たのは今年の春である。幸いかなり楽しんで観ることができた。榎戸洋司による小説版に電子書籍童貞を捧げるほどにはハマった。けれども、『フリクリ』はもう私にとって「思春期に観て毒されてしまった作品」にはなりえないし、聖書や聖典のように君臨するマスターピースにもなりえない。

だから、仮に『オルタナ』の出来が酷くとも、これは『フリクリ』じゃない! と憤らないし、よくある凡作の一つとして軽く受け流せる……はずだった。しかし、実際はそうじゃなかったことは上述の通りである。

端的に言おう。私にはどうしても、『オルタナ』という映画においてハル子が根本的に邪魔にしか感じられなかった。

 

フリクリ』において、ハル子(新谷真弓)の登場シーンは劇的である。いきなりベスパに乗って高速で突っ込んできて、ナンダバ・ナオ太(水樹洵)を轢く。更にはギターで彼の頭を殴る。

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ハル子は、そんな滅茶苦茶な存在として描かれる。滅茶苦茶で、自由で、滅茶苦茶。大人ぶって、「特別なことなんてない」と達観するナオ太にとって、ハル子は〈特別〉な外部として映り、やがて彼女に強烈に惹かれていく。そして、1話開始時点以前から続いていた、サメジマ・マミ美(笠木泉)との、兄・タスクの代替品として求められる関係も変わっていく……。

フリクリ』のハル子は、いろいろなものが変わっていく契機となる存在であったし、滅茶苦茶な外部でありながら、メディカルメカニカ(MM)に捕らわれた海賊王・アトムスクを追うという目的に縛られた人間であったし、そして彼女抜きには物語が成立しない確かな存在感を放っていた。

 

対して『オルタナ』のハル子は、『フリクリ』の彼女とまったく異なっている。

もちろん、「フリクリ」の名を冠すからと言って、ハル子の造形をそのまま反復する必要は必ずしもない。「フリクリ」を改めて作ること、ハル子を作り上げることについて、新谷真弓は『オルタナ』の初日舞台挨拶でこう述べている。

新谷は「本来、監督さんに役者から意見を言うなんておこがましいことなんですけれど」と恐縮しながらも「もともと鶴巻さんが作られた『フリクリ』っていうのは、プライベートフィルムみたいなものなので。違う人が作ったら同じハル子にはならないですよねって。それに対抗するには、上村監督のプライベートフィルムにするしかないって話になって」と語る。

【イベントレポート】「フリクリ オルタナ」舞台挨拶に新谷真弓&上村監督「自分の中のフリクリを探して」 - コミックナタリー

 だから、多少彼女の造形が変わったとして、こちらが問題を指摘する余地などないのである。常識的な範囲であれば。しかし、フィルムにおいてハル子のいる意味が損なわれるならばその限りではない。

 

 『オルタナ』1話*1のあらすじは以下の通りである。

どこにもでもいるような女子高生・河本カナ(美山加恋)は、友人のペッツ(吉田有里)、ヒジリー(飯田里穂)、モッさん(田村睦心)と、休憩時間や放課後にダベる感じの日常を過ごしている。ある日、アルバイトしている蕎麦屋にハル子がやってくる。その夜、いつものようにハム館に集まっていた4人は、ペットボトルロケットを作ることにする。ロケットは完成するが、まだ可愛くない! から飛ばさない。翌日、みんなでロケットをデコり、いよいよ完成! となったところで、空からGoogleマップのピンみたいなやつが降ってきてロケットを破壊してしまう。更にはそのピンが、気色悪い何かに変形して……。

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オルタナ』におけるハル子の初登場シーンは、上述の通り、蕎麦屋にぬるっと入ってくる場面である。劇的な登場もないし、以降も彼女は物語にぬるっと入ってくる。カナはその後のハル子との遭遇において頭を殴られるのだが、その登場の仕方か彼女たちはハル子を自然と受け入れてしまう。

つまり、今作の彼女は外部ではありえない。

物語の始まりには、いつも〈事件〉がある。殺人事件も、人間関係の不和もすべて〈事件〉だ。ハル子という外部から例えばナオ太の頭に現れたツノのような形で問題がもたらされるのではないとすれば、それはカナたちという内部から噴出するほかない

これに関して象徴的なのは3話「フリコレ」だろう。ファッションデザイナーを目指すモッさんは、専門学校の学費を稼ぐためのバイトとコンテストの作品作りの末に過労で倒れてしまう。カナはモッさんを助けようとしヒジリーとペッツにも協力を求めるが、モッさんはこれを激しく拒絶する。

そう。オルタナ』の各話は、この3話がそうであったように、ハル子やMMなしでも十二分に始まりうる=〈事件〉が発生しうる話なのである。

大学生フォトグラファーと付き合うヒジリーは、彼がハル子に一目惚れしなくともどこかでフラれただろうし、カナにもどこかで進路についてちゃんと悩み決断を下さないといけないリミットが 来ただろうし、ペッツもどこかで母親との関係に限界がきただろう。

 

いやいや、1話でペットボトルロケットが破壊されたのは確実に外部からもたらされた事件だ、という指摘はあるかもしれない。確かにその通りだ。しかし、そのGoogleのピンが、そこに落ちてくる必然性はあっただろうか? そしてそれがその後の話に影響を与え得ただろうか?

答えは両方否である。ピンが落下してくるのはカナたちがハル子と交流を持つ前*2であり、彼女らにMMからのアクションがとられる謂れはない。また、5話「フリフラ」においてペッツがターミナルコアに出会い巻き込まれるのはピンの落下したハム館においてだが、これがなくともペッツは火星に旅立っただろうし、カナたちの問題を主眼に据えたとき、ピンが何かの決定的契機になったとは言い難い。

フリクリ』の問題だって多くはナオ太の問題だったじゃないか、としう指摘もあるかもしれない。その一面は確かにある。しかし、そのナオ太の内面の激流は、ツノや猫耳という頭部に現れる変化という形で確かにハル子と結び付けられていて、解消というカタルシスに至るための戦闘の開始と不可分になっていた。

オルタナ』において、MMのロボットは唐突に現れる。ロケットをデコっていたときに、体育館の倉庫でキスをしようとしたときに、ハム館を訪れたときに。この登場は、まるでそれがノルマだからと言うかのようであり、必然性が感じられない。

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物語の開始に絡めないならば、ハル子は本来〈事件〉と関係性の薄いはずのMMのロボットに対し大立ち回りを演じ破壊することで強引に〈事件〉が解決されたかのように見せ、人生訓を述べる便利な機械としての役割に堕すしかない。

だが、これはそもそもMMのロボットが暴走しなければハル子の出る幕すらなかったことを意味してしまう。人生訓を述べるだけならば蕎麦屋の店主であるデニス用賀(森功至)であっても良かったからだ*3

加えて、『オルタナ』におけるMM的表象が、MMという形をとっていけなればならない理由は、『フリクリ』の新作と銘打っているというプロデュース上の理由以外には存在しない。オルタナ』のハル子がMMを敵視する理由が一切分からないからだ。

フリクリ』において、アトムスクを捕らえたMMはその奪還を悲願とするハル子にとって敵であった。しかし、『フリクリ』の6話においてアトムスクはMMからの脱出を遂げている。だから『オルタナ』においては、MMと敵対する別の理由があるはずなのだ*4が、それが語られることは一切ない。

MMとハル子を結び付けるものがないならば、MM的表象つまり世界を滅ぼし、「明日が昨日の寄せ集め」みたいで永遠に続くと自分を騙すには十分なほどに単調な日常を終わらせるものの表象がMMである必然性はない。ならば、MMのロボットが暴れる必然性もない。

以上から導き出せるのは、オルタナ』においてハル子が不要であるという残酷すぎる結論に他ならない。

 

 不要であるはずの『フリクリ』の設定を使用するために必然性なく挟み込まれるMMのロボットの登場はいびつにならざるをえない。

フリクリ』6話「フリクラ」において、猫のタッくんを失い、ナオ太のタッくんが自分の御せない対象となったことで、マミ美は新たなタッくんを見出すことになる。それが実はターミナルコアで、そうとは知らず機械を与えて成長させてしまったせいでマミ美は最終決戦に巻き込まれる。

オルタナ』におけるターミナルコアの登場は5話である。ペッツはヤバい母親から逃げて放浪していた際にハム館へ行き、偶然ターミナルコアと出会う。ターミナルコアは自分で周囲の金属を捕食し始め、急成長しペッツを取り込んでしまう。ここには『フリクリ』にあったような、ターミナルコアにつながるためのドラマが存在しない。

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これに代表されるような必然性のないロボットの登場から始まる必要性のない戦闘シーンは、アクションとしても平凡なものに止まっており、はっきり言ってしまえばかなり退屈である。フィルムにおいて、これらのシーンは邪魔なのである。

また、目的を失った『オルタナ』におけるハル子の暴力性や奔放さは歯止めが利かなくなっている。例えば3話において、ハル子はコンテストの最優秀賞を獲得した衣装を着てランウェイを歩くモデルの座を奪い、「地味な服は着たくない」として勝手にモッさんの服を着てランウェイを歩く。警備員がやってきた時、彼女は警備員を倒すだけでなく会場の柱を倒し、多くの観客に混乱と恐怖を与える。これらの行動に理由も、隠された目的もない。ゆえにただただ多くの人が蔑ろにされてしまった不快なシーンとなってしまっている。

 

先ほどは不要と述べたが、これでは、『オルタナ』においてハル子が存在するのは、無益・無害であるどころか損害・有害である。そして、ハル子がそのような存在になってしまう時点で、オルタナ』は決定的に『フリクリ』ではない。

フリクリ』の新作を鶴巻和哉以外が作る以上、ハル子像がそっくりそのまま継承されることはあり得ないにせよ、こんなふうに蔑ろにされてしまったハル子を観たいと思ったものは一人もいないはずである。

世話焼きなお姉さんという凡庸な役割を担わされた『オルタナ』のハル子は、ベスパではなくワゴンに乗って、ケバブを焼いて売っている姿が異様によく似合う。しかし、私たちが見たかったのは、ケバブ屋の女ではないのである。

このような作品に対し「フリクリ」の名を冠すことは、『フリクリ』に対する冒涜・蹂躙以外のなにものでもないだろう。

 

さて、以上で私が『オルタナ』に対して思った大きな不満であるハル子の造形については語り終えたことになるのだが、まだ細かなものが残っている。the pillowsの楽曲の扱い方への不満、女子高生の造形に代表される脚本への不満、そしてカタルシスに至れない映画としての決定的欠陥への不満。

以降はそれらを少しだけ語っていきたい。

 

the pillows楽曲群のぞんざいすぎる扱い方

フリクリ』の楽しみ方はいろいろある。演出の奇抜さ、物語、セリフ、エトセトラ。

だからthe pillowsの贅沢なMVとして堪能する楽しみ方もできるけれど、すべての人がそれを望んでいるわけではないことは理解している。それでも、『フリクリ』が好きだという人に、the pilllowsが嫌いだ、という人はいないだろう。きっとthe pillowsが嫌いなら、あれだけ彼らの楽曲がBGMとして流される『フリクリ』の鑑賞には耐えられない。

オルタナ』や『プログレ』の楽曲をthe pillowsが担当し、それぞれに主題歌を書き下ろすと知ったときは嬉しかった。彼らの音楽が、劇場で聴けるのだ、ということも。これには上記の理由から、同意してくれる人も多いだろう。

 

しかし、蓋を開けてみて残ったのは、こんなはずじゃなかった、という落胆や失望であった。

 

1話「フラメモ」冒頭の、音楽プレイヤーで再生するのと合わせて「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」が流れる時点で、流し方のセンスに少し疑問は生まれていた。それでも、スクリーンでthe pillowsの曲が聴けることに少しだけ心は沸き立っていた。

 

しかし、困ったことにかからないのである。そして使われるにしても、なんだか「本当は使いたくなかったんだろ?」と言いたくなるような使われ方がなされるのだ。

名曲「Fool on the planet」に合わせてカナたちが動揺「海」を歌い始めたときは、戦闘機でてめえらの頭を打ちぬいてやろうかとさえ思った*5

 

それだけでもめまいがするのに、『フリクリ』におけるキメ曲であったはずの「LAST DINOSAUR」や「LITTLE BUSTERS」がかかったときに一切テンションが上がらないのも驚いた。いや、そもそも聴こえないのである。気づけばぬるっと流れ始めていて、まったく盛り上がらない。まるでハル子の登場シーンのように。

イントロを大きな音で流してシーンの転換を印象付けるとか、曲のメロの変わる瞬間に印象的なシーンを持ってくるなどの方法がいっさいとられない。ノルマだけどシーンを邪魔されたくないし……とでも言うかのように小さく始まるそれらは、その儚さゆえに、趣向とは本来異なるはずの涙を誘う。

とりあえず、誰が主犯なのかは知らないけれど、主犯には『フリクリ』4話の「Crazy Sunshine」と6話の「LAST DINOSAUR」と各話の「LITTLE BUSTERS」をそれぞれ100回見てほしい。

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この音響的センスの壊滅ぐあいは、あるいは4話「ピタパト」における、何の脈絡もなく挟まれる、最悪すぎるラップパートにも通じるのかもしれない。

しかしこれは、 むしろ脚本レベルにおける問題であるようにも思える。そのためこの部分についての言及は、ひとまず次の項目に譲りたい。

 

■凡庸さと安易さについて

オルタナ』がいかに『フリクリ』と異なっていたとしても、映画自体が面白ければ、それはそれで良いのである。いや、ファンとしては納得しかねるものがあるだろうし、やはり「フリクリ」という名を冠してほしくはないと思うであろう。

それでも、例えば『フリクリ』に感傷なんかない若い世代の思い出の一作になりうるのであれば、ジュブナイルとしては合格なのである。

しかし――ハル子という不要なキャラを暴れさせている、としているこの論調故におおよそこのあと何を言うかは察しがつくだろうが――、その基準にもやはり達していなかった。

 

オルタナ』の主題はわかりやすい。

「毎日が毎日毎日ずーっと続くとかって、思ってるぅーん?」

「わたし、気づかないフリしてた。そうしていれば、終わらない、変わらないってばかり思ってた」

「何もかもが変わっていく。だったらせめて、変わらない顔していろ」

まあ、会話形式にすればこんな感じだ。発言者はそれぞれ、ハル子、カナ、神田束太(青山穣)である。本当に、これだけである*6。少なくとも、私見では。

 

退屈な日常の疑似的な永遠性とその終焉。凡庸なテーマである。ここに目新しさはない。

いっそ「王道」と居直ってもいいのかもしれないが、ならば堂々と「王道」然としていればよいのに、ノイズとしてのハル子とMMが持ち込まれ、本来彼女たちによって解消されたはずの問題は、『フリクリ』的要素に持ち逃げされてしまう。

オルタナ』のストーリーやテーマ設定は、王道にもなりきれず、かといって変格としては凡庸という中途半端なものになってしまっている。

 

カナたち「女子高生」の造形にも疑問が残る。

悩みが凡庸であるように、彼女たちの造形もまたステレオタイプ的なのだ。もちろん、アニメやライトノベルのキャラクターが記号的なのは今に始まったことではない。しかしそのことを加味した上で見ても、彼女たちのキャラクターは凡庸である。

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彼女たちの会話の多くは、日常的な駄弁である。1話の、ゴミ出しを賭けて無邪気にジェンガを楽しむ場面や5話のプールでバレーボールに興じる場面など。これにより彼女たちの関係性が見え、そこから帰納的に人物像が立ち上がってくる――ならばよかった。しかし、残寝ながらそうはなっていなかった。

6話の中でアクションシーンをノルマのごとく挟みつつそれを行うのは、そもそも尺が足りていなかったように思える。

 

加えて、彼女たちの駄弁自体もまた凡庸なのである。

まるで大学生やそれより上の世代が、制服を着て頑張って女子高生の芝居をしているような、そんな風に思えて仕方がなかった。

女子高生がJKを意図的に演じる、社会的なイメージをあえて引き受けて見せることは、実際にはしばしばあることなのだろう。しかし、彼女たちが、彼女たちだけの会話のなかでそれを行う必要性は極めて薄い。だからやはり、会話には違和感が拭えない。

この違和感は、脚本を担当した劇作家・演出家である岩井秀人が自身で舞台を作るときには、小さな所作など身体表現を含めた演出を行うことで解消している類のものなのかもしれない。しかし少なくとも彼が脚本のみを担当した『オルタナ』においては、駄弁のセリフはうまく機能していなかった。

 

 

同様に違和感があったのは、ひたすらに上滑っていた安易なパロディである。

この使い方も、小劇場演劇にしばしば見られるものだ、と言えばそこまでだが、少なくとも『オルタナ』においてそれは滑っていた。

それをただ「つまらなかった」と唾棄し叩きのめしたいのではない。むしろ、つまらないだけならよかったのだ。問題は、この安易な引用が、おそらくあの問題のラップシーンにもつながっていることだ。あのダサすぎるラップに。

 

ハル子のラップは、4話にて唐突に披露される。カナが、佐々木(永塚拓馬)とイチャつくハル子を見て焼き餅を焼き、むしゃくしゃして帰り道でピンを蹴った後のことだ。

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しかし、そのシーンでラップを行う必然性や必要性はまったく感じられない

一応、蕎麦屋の店主のデニス用賀が元DJという説明はあったが、これも理由としては弱い。とはいえ、まったくその行動の意図が読めないわけではない。ラップ披露後、ハル子は「フリースタイル」と言っている。つまり、ハル子のラップに対抗して、カナにも思いの丈を叫んでほしい、だから佐々木に手を出してカナの嫉妬心をあおったし、ラップのフリースタイルを披露したのだ、そう解釈することもできる。

だが、その場で急にラップが思い浮かぶわけがない。つまり、カナの叫び=内面の激流からカナ自身を遠ざける振る舞いになってしまっている。それに、ラップの挿入は唐突であり、仮に意図があるならその場ではっきり分からないとそもそも私たち観客はノイズとしてしか受け取れない。

「フリースタイル」を加味した上でも、あのシーンの必要性が分からないのだ。

だからどうしても、ラップが最近流行っているから入れてみました、いろいろなものを取り込むのもフリクリらしさっしょ? とドヤ顔しているのが透けて見えて不快で仕方がなかった。また、極端に無能、傲慢として描かれる、カリカチュアライズされた政治家像も不快だった。いずれも、安易なパロディである。

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 ■とってつけたようなラストシーンじゃカタルシスは得られない

たくさんの違和感を抱えさせられたまま進行するストーリーは、6話におけるハル子の「バッドエンドは好きじゃない」というセリフと共にラストスパートをかける……はずだったのだろう。

「叫べ、17歳!」などの、PVにも収められたセリフがハル子の口から放たれ、カナ役である美山加恋の熱演がある。

しかし、その画面上の「これは熱いシーンだってことなんだろうなあ」という展開を前にした、そのように冷静に分析してしまうこちらのテンションの上がらなさはなんなのだろう?

 

カナがこのシーンで行うのは、ただ思いの丈を叫ぶだけなのである。

5話において、ペッツはカナに対して叫んでいた。正直、ペッツへの思い入れが抱けていなかったのであまり感動できなかったが、それでも二人の関係性が分かっていれば、少しは感動できたかもしれないシーンだった。

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対してこのシーンでは、カナはひたすら、誰かわからない対象に向かって叫ぶ。だから、いったい何を見せられているのか、という気持ちにならざるを得ない。「わたしは、友達が大好きでー」と、美山加恋が力を込めて演じていることは分かるが、カナが叫べば叫ぶほど、私たちはどのようにしてこのシーンを観ればよいのか分からなくなる。そして話はどんどんスケールが大きくなり、「この町」が大好きで、この町で暮らしていきたい、みたいなことを言い始める。

しかし、私たちはそのカナが名指す「この町」のことをほとんど知らない。

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カナたちの暮らす町には、少し前にテンカイッピンなるものが出来て、商店街も寂しくなったらしい。しかし、このテンカイッピンが何の施設であるのかが分からないのだ。話からすればショッピングモールだろうが、そこに行って何かを買った、という描写もない。このことに代表されるように、私たちには、その町の様子が一切見えてこない。その町がどのような規模の街なのかすら分からないのだ。たびたび舞台となる浜辺と彼女らの学校や家との距離感もまったく掴めない。

キャラクターたちにもあまりなじめず、町のこともイメージできていない状態で、カナの感情の叫びに寄り添いカタルシスを抱け、という話がそもそも土台無理な話ではないか。

これは、ストーリーテリング上の欠陥であると指摘せざるを得ない。

 

また、「この町」や「友達」らに対して観客側が思い入れを持てていないという欠点が仮に解消されていたとしても、最後にテーマに準じた事柄をずっとキャラクターに叫ばせて、それで大団円というのはやはりダサい。加えてテーマまで凡庸とくれば、本当につらいものがある。

 

■最後に

かなり長々と書いてしまった。

こんなに長い記事は『リズと青い鳥』の感想以来である。 

今回は延々とディス記事を書いてしまった。ディスばかりで少し疲れてしまったので、最後に少しだけポジティブなことを書いて締めたいと思う。

 

2話「トナブリ」において、カナはMMとのロボットとの戦闘に巻き込まれることになる。ハル子の車を無免許なのに運転する、しかも凶暴なロボットに襲われているという危機的な状況において、カナが「わたし、運転の才能あるかも~!」と笑いながら言うシーンは、たしかに彼女の主人公っぽさが表れていて、ちょっと良かった。

あのシーンの「Freebee Honey」はちょっと良かった。


 the pillowsの書き下ろしたED曲「Star Overhead」は素敵な曲で、またED映像に登場するカナはとてもキュートだった。

 一本の映画という形式にまとめた上映では難しかったのかもしれないが、もっとあの曲を聴いていたかったし、あのカナを観ていたかった。

 

また、カナたちの造形やストーリーについて散々言ってきたが、仮にこの作品に『フリクリ』要素がなく、そしてテレビアニメーションの形式で製作されていたならば、あるいは少しは化けてくれたのかもしれない。

テーマは凡庸と言ったが、裏を返せば確かにジュブナイルの予感の含むものであったし、キャラクターだってこの形式でなければもう少し印象づけられたかもしれない。

 

 正直あまり期待はしていないのだが、『プログレ』も映画館に観に行く予定だ。

「2人はフリクリ 1人はアメザリ」というクソみたいな名前のニコ生特番で、「2人はフリクリ~」と言いながら人差し指を上げる水瀬いのりが可愛かったからだ*7

プログレ』のED曲である「Spiky Seeds」も良い曲だったので、これを劇場で聴きたい。できるならもっと、素敵な気持ちで。

 

*1:オルタナ』は、6話分のアニメの一挙放送みたいな形式をとっている。これは、アメリカで『フリクリ オルタナ』と合わせた各6話全12話構成のアニメーションとして放映されるものを、日本では映画のフォーマットに合わせて上映しているためである。

*2:その時点で、カナとハル子も蕎麦屋の店員と客でしかないし、ハル子は蕎麦屋の常連ではない。

*3:実際、6話「フルフラ」における彼の姿勢は、『オルタナ』が核に据えようとしたものと沿うように見える。

*4:宇宙警察フラタニティという組織の目的がMMへの抗戦であると理由付けはできる。しかし、フラタニティが『フリクリ』のそれと同様である保証はなく、またそうであったとしても、組織に従順な牙を抜かれたハル子は、果たしてハル子と呼べるだろうか。

*5:念のため付記しておくと、「Fool on the planet」の歌詞には戦闘機が登場する。

*6:他にも実は大人/子供、大人の中の種類などがモティーとしては使われるが、物語全体を観たときにテーマにまで昇華できているとは言えない。

*7:こう書くと声豚みたいで普通にキモい。可愛いよ~いのりん~~~!

今更ながら『エロマンガ先生』について語ろう

あなたは、『エロマンガ先生』というアニメをご存知だろうか。

そんな恥ずかしい名前のアニメ知らない! って? まあまあ。

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エロマンガ先生』とは、伏見つかさによる同名のライトノベルを原作として、2017年4月クールに全12話で放送されたTVアニメである。

つまり1年前のアニメなのだが、今でも時々、HDDに残っているのを再度見ることがある。まあ、それくらいには気に入っている。

つい先日も、また最終話「エロマンガフェスティバル」を見てテンションが上がった。だからこそ、今こうしてその勢いに任せて文章をしたためているわけだが、ではいったいどう良かったのか。今回の記事はそれを書いていこうと思う。

 

まず、アニメ公式サイトから紹介文を引こう。

高校生兼ラノベ作家の和泉政宗には、引きこもりの妹がいる。

和泉紗霧。

一年前に妹になった彼女は、全く部屋から出てこない。

そんなある日、衝撃の事実が政宗を襲う。

彼の小説のイラストを描いてくれているイラストレーター『エロマンガ先生』の正体が、なんと妹の紗霧だったのだ!

一つ屋根の下でずっと引きこもっている可愛い妹が、いかがわしいPNで、えっちなイラストを描いていたなんて!?

俺の妹がこんなに可愛いわけがない』をしのぐ魅力的なキャラクターが多数登場!

ライトノベル作家の兄と、イラストレーターの妹が織り成す、業界ドタバタコメディ!

最近増えている業界お仕事ラノベの一種であり、そこにもはや伏見つかさの深い業*1である妹フェチが掛け合わされた一品。「引きこもり」という一筋縄ではいかない題材を扱っているが、あくまでドタバタラブコメである。そもそもタイトルからしてシリアスにはなれない。

 

そう。この作品はコメディなのだ。そして、可愛いヒロインたちがたくさん登場する、ラブでコメディなのだ。

この作品の凄いところは、まずヒロインたちがみんな何かしら可愛いことである。

 

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メインヒロインである和泉紗霧(藤田茜)は、わがままで、ツンデレで、しかしそれに応えれば確実に応えてくれる。それに、そもそも応えずとも彼女はその性質上、絶対に主人公である兄・政宗松岡禎丞)を見つめている。可愛い。

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隣人にして中学生ラノベ作家である山田エルフ(高橋未奈美)大先生は、絶対的に政宗に惚れている。しかし、政宗に思い人がいることは理解し、そしてそれを受け入れている。 何ならいろいろと世話も焼いてくれる。バブみを感じてオギャれる。可愛い。

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千寿ムラマサ(大西沙織)先輩は、大天才の中学生ラノベ作家だが、出会う前から政宗にべた惚れである。その理由は、WEB小説家時代から彼の作品を読み、心湧き立たされてきたから、という何とも作家冥利につきるもの。そんな彼女は、その実すぐ口車に乗せられたり、すぐ墓穴を掘ったりしてポンコツ可愛い。

 

前作と比べると、みんな、ちゃんと可愛い。実は、とかじゃなくて、どういうところがアピールポイントかがしっかりわかるし、それが魅力的に描かれている。可愛いの暴力。

そして、これだけみんな魅力的なのに、くっつく相手は絶対に紗霧であるとわかっていることがまた恐ろしい。これももはや、だって伏見つかさだし! と居直られている感じすらある。こうなるとたいていのものごとは手が付けられないので強い。

 

ここで少し前作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の話をしよう。アニメ2期は、ラノベ最終巻刊行と合わせるためにかなり駆け足だった挙句、全16話の変則構成となったせいで最後数話がWEB配信限定というイマイチ盛り上がらない終わり方だった。

だから不幸な面があることは認められるが、それでもやはりなかなかにひどいものがあった。

 

 『俺妹』の売りは、何といっても妹がメインヒロインであることだった*2

妹との恋愛つまり近親相姦的な欲望は、はるか古代から現在に至るまで禁忌である。そのため、どう考えても最後に勝つヒロインは桐乃なのに、それができない、という構造が生まれることとなった。

加えて桐乃には、ツンデレ+暴力という当時の流行属性が加えられることとなり、加えてスーパー超人オタクとくればいよいよ属性過多。これに負けじと登場するヒロインたちもいろいろと盛りすぎでキチガイのオンパレード。最終的には、平凡代表の顔をしていた田村麻奈実でさえ、その平凡さゆえに最後まで近親相姦的欲望を否定するコンフリクトの役目を一手に担うことになり、突然桐乃に腹パンを食らわせるキチガイとなってしまった*3

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それに比べると、『エロマンガ先生』は平和である。まず、政宗と紗霧に血縁関係がないことは冒頭から明かされている。また、ずっと一緒に住んでいたら性欲の対象じゃなくなる、とはよく聞く話だが、そもそも同居期間も短い。

何より、二人は家族になる以前からWEB小説サイトの作者とファンの関係であった。家族としての時間より、そちらの時間のほうが長いのだから、もはや政宗からすれば、家族になりたいとしきりに口にするけれど、紗霧を家族として見るより魅力的な女の子として見るほうがむしろ自然なんじゃないか、と思えるほどなのである。これはもちろん、紗霧視点からしても。

だから、ここには『俺妹』に存在したようなコンフリクトはない。ダイレクトにイチャイチャできる。ご都合主義といわれても、ぐうの音も出ない。だが、だからこそ、天才的な作家たちによる「戯れ」というユートピア的環境にはあっているし、私たち消費者も安心してブヒれるのである。ブヒい。

 

さて、ここまで言葉を散々弄して語ってきたことは、ヒロインたちがみんな可愛いよブヒィィイイイイイイイイ!!!!! という一点に尽きるのだが、このままだと、あくまで『エロマンガ先生』の原作の紹介という側面が強い。

しかし、今回私がしたいのは、アニメ『エロマンガ先生』が面白いぜ、ブヒィィイイイイイイイイ!!!! という話である。

 

まず、OPテーマが良い。

まず、歌詞とかどうでもいいから、イントロを聴いてほしい

ファーファファファfッファfッファfッファッファーファーファファファfッファfッファfッファッファッファ~

と鳴り響く、やや間の抜けるブラス。OP映像では、この音と共に「エロマンガ先生」というタイトルが表示される。

さあ! これからバカアニメが始まりますよ! という幕開けにはもってこいの一曲である。非常にあっている。

 

次に、EDが良い。

こちらがED映像である。モニタで再生したものを録画する直撮りらしいので画質音質共に劣悪だが、アニプレックスあたりが公開している公式版がないのでこれでご容赦願いたい。

TrySailの歌う「adrenaline!!!」自体の可愛さもさることながら、このEDで踊る紗霧の可愛さたるや。

さて、この紗霧だが、実は踊っている場所は風呂場と隣接する脱衣室であり、彼女は洗濯機が回りきるのを待っている。では何故そんなところで踊っているか、と言うと、自身の下着は自分で洗うから兄さんは触らないで……といったからである

 

事の次第を説明すると長くなるが、まあいわば思春期の娘と父親のようなものである。

しかし、アバンで政宗は独白として、「貴様を超える美少女である妹のパンツを日々洗っている俺が、今更女に一目惚れするものか」とやや良い声で言っている*4

だから大仰にショックを受ける政宗はやや気持ちが悪い。このラノベ特有の気持ち悪さを感じさせたところで、この自分で洗濯をするEDというギャグとしてそれを回収してしまっている。この手腕がまず素晴らしい。

 

そしてこのEDは、サビでのノリノリな紗霧を描くことで、以降の話でこれが使われればそれだけで可愛いというものに仕上がっている。だから、通してみると、確かに2話は飛び道具だったが、別段狙いすぎ/飛ばしすぎでもないので、あまり嫌な感じはしない。このバランス感覚がまた良い。

何より楽曲自体としてこの曲はものすごく可愛い。マイ・フェイバリットソング・オブ・2017。ちなみにMVは声優ソング独特の謎仕様。ただのキチガイ

ちなみにこういうタイアップは、そのアニメに出演している声優が一人でもいるなどすれば採用されやすい傾向にあるのだが、そもそも誰も出ていないというのが、かえって潔い。『エロマンガ先生』の前クールに放映されていた『亜人ちゃんは語りたい』に夏川椎菜雨宮天が出演していたのとは好対照である。

 

 兎角、ここまで『エロマンガ先生』の魅力を語ってきた。

この作品の魅力は、おおよそ以下の2点である。

・ヒロインたちがみんな可愛いよブヒィィイイイイイイイイ!!!!!

・アニメスタッフの頑張りでもっとブヒィィイイイイイイイイ!!!!!!!

 

身も蓋もないことを言えば、この作品が優れているのはあくまで「商品」としてである。「商品」として優秀、頭からっぽにしてブヒれる、頭からっぽにして楽しめる。

エロマンガ先生』が放映された2017年春は、実は私の仕事も忙しくて、だから『エロマンガ先生』を面白いと感じたときは、「疲れてるのかな」と感じたものだったが、改めて見てもちゃんと面白いから困ったものである。

ちなみに翌クールは『アホガール』にハマった。

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さて、そんな、激推しの、激烈効果ブヒりサプリメントである『エロマンガ先生』だが、なんと2018年10月からの、TOKYO MXとちぎテレビ群馬テレビABCテレビBS11での再放送が決定した。

祝・再放送。

みんな見てくれよな!

 

*1:同様の例に、細田守におけるケモショタがある。

*2:もちろん、妹を攻略対象とした美少女ゲームは90年代から枚挙にいとまがないが、それでもラブコメという誰とくっつくのか分からない(けど実際にはわかる)というフォーマットの上で、堂々と妹を出してきたことは衝撃だった。

*3:よく体重の乗っていそうな、良いパンチである。

*4:ちなみにこの2話で、一緒に住んでいる兄弟と恋愛はあり得ないと政宗は口にするのだが、こうして身内の女性と恋愛対象としての女性が同列に語られている時点で説得力はない。

一色いろは後輩が可愛い

いきなりで申し訳ないが、一色いろは後輩が可愛くて仕方がない。

可愛いよぉ~いろはすぅ。なんなら一万年と二千年前から愛していたまである。

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前回の記事で、最近映画を観ていないと書いたが、あれから半月ほど経った今もそれは変わらない*1

そんな中でもアニメは録画して、それを見ている。アニメは惰性で観れるからいいよね。『よりもい』とか超泣けるし。軽く死ねるし。

その一環として、先クールの途中からTOKYO MXで再放送されている『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』略称「俺ガイル」を見ている。

少し前から2期に入った。作品の主要人物である比企谷八幡江口拓也)、雪ノ下雪乃早見沙織)、由比ヶ浜結衣東山奈央)の所属する奉仕部の空気は最悪だが、それはそれとして、3話から登場した一色いろは佐倉綾音)後輩が可愛い。越えちゃいそう、いけないボーダーライン

 

事の次第はこうだ。

奉仕部とは、主に生徒からの依頼を受けて解決に動くことを目的とした部活動である。

その奉仕部に、生徒会長選挙に立候補させられてしまったが生徒会長はやりたくない、しかし惨めに落選というのも嫌だ、という一色いろはの依頼が舞い込んでくる……。

 

まず立候補「させられて」いるのがヤバい。何それ。どこの美少女コンテスト?

しかし、封筒一通のコンテストとは異なり、生徒会長選挙は一定数以上の推薦人が必要で、個人が陰でパッと行えるものじゃない。しかも生徒会長など、目立ちはするが評価されるポジションでもない。それに勝手な立候補させるなど、言わば晒しあげであり嫌がらせに近い

つまり、一色いろはには、彼女を貶めたいと思っている敵が一定数以上いるということだ。

 

上に貼った動画は、一色いろはの可愛いシーンを詰め込んだもの。可愛いですね、はい復唱。可愛い。誰だ、うざいって言ったの。さてはアンチだな、オメー。

でも、彼女を憎たらしく思う人が多いのも頷ける。タイトルからして「あざとい」って入ってるしね!

あざといよー、いろはすぅ。なにこの亜麻色の髪の暴君。なんならあざとさ爆弾で死者が出るまである。

 

そう。彼女はあざとい。それも、あざとい人たちに共通することだろうが、それをしておくことで自分に大いに利すると分かってやっているし、彼女の場合、自分の容姿によってそれがよりプラスになると踏んでやっている。

あー、もうウザいなー。ウザったらしいなー。分かってやってるんだもんなー。

憎まれっ子世にはばかる、という言葉がある。憎まれ役を買うようなやつほど、むしろ世間では幅を利かせるという意味だ。人のことをぶん殴っておきながら、えいえい、怒った? なんて訊いてくるやつほど、最初に人を殴れるって点で人より抜きんでてしまっているわけだ。ごとう きよはる てめェーだよ てめェー。

一色いろはが結局は生徒会長になってしまう様はまさにこの典型と言われそうだ。しかし、何にしたって可愛い。人目も憚らず言えちゃいそう。世界一可愛いよ! 何をしてもカワイイ。カワイイの前では服従って、それ前前前世から114514回言われてるから!

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どうにも私はこういうキャラに弱い。こういうってのはべつに「あざとい」ってことじゃない。いや、違うからね、本当だからね!*2 南ことりのこととか、その、ぜ、ぜ、全然、すすすすす好きなんかじゃ、ねーし!*3

「こういうキャラ」というのは、本来の意味のリア充っぽいというか、彼らが人間関係を築く際にも発揮されていたのであろう「器用さ」を持っているキャラのことである。

恋とは憧れに近しく、そして憧れという感情は理解から最も遠い、とよく言われるが、このリア充系=普通っぽいキャラクタを魅力的に思うのは、自分自身へのアンチテーゼとしての憧憬的感情がおそらく根幹にある。勿論、そのキャラ類型がオタクカルチャーにローカライズされた、非リアルなものであると知りながら。

私はいまだに、自己投影を--またはその逆を--基準にしてアニメを見ている。

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兎角そんなわけで、一色いろは後輩が可愛い。『ハイスコアガール』の日高小春もすっこしでも気を引きたい純情な乙女心で可愛いが、それとは別ベクトルでやっぱりいろはすが可愛い。

この「おっかしいなー。わたしに一目惚れしない男の子なんているわけないのに」とか言い出しそうな感じ、たまらない。ごめん、ヘルシェイク矢野のこと考えてる暇ない。

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2期はこれから生徒会長選挙、合同クリスマスイベント、葉山隼人近藤隆)の進路の話と進んでいき、そして、一色いろはの存在感も増してくる。結婚しよ。

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私は年甲斐もなく、佐倉綾音のあざといボイスを楽しみにして、こんな残念系(ぼっち系)+俺TUEE系*4なアニメを観ている。高校生活なんて遥か昔の話に思えるし、同じく俺TUEEするなら、そして主人公の物語開始時点の属性に「ぼっち」を求めるならば、それこそ異世界転生系を見ればよいのに、千葉の高校を舞台にしたアニメを観ている。

べつにアニメなんざ観たいものを観ればよい。『プリキュア』は朝から泣けるし、猫娘は可愛い。しかし、そうばかりも言っていられない。「俺ガイル」は、間違いなくメンタルに悪い。陰キャレベルの上昇が留まるところを知らない。なんなら自意識高まりすぎて他界するまである。

 

悪影響を自覚の上で、一色いろはを愛でるために「俺ガイル」のアニメを視聴し続けるか否か。愛はどんな困難も乗り越えられる、というクリシェはもちろん嘘っぱちなのだが、愛ですらそうなんだから況や――。こんだけ可愛い、可愛いって言ってきたけど、べつにいろはす、推しじゃねーし。まあ、可愛いんですけどね。

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先述の通り、アニメにおいて一色いろはの存在感はこれから増してくる。アニメスタッフはおそらく、意図的に彼女を3人目のヒロインとして扱おうとしている。とは言い条、物語の始まりからして「俺ガイル」は明らかに奉仕部の3人の物語であり、彼女は蚊帳の外にならざるを得ないのだが。まあ、だからこそ変に感情移入せず、漠然としたイメージだけでブヒれるってのはあるけれど。可愛いよ、いろはすぅ。

ヤバげな、面倒臭そうな空気を敏感に察知してこそっと逃げおおせるところとか、どうすれば自分が魅力的に見えるかわかった上で実践してみせるところとか、人への頼り方=押し付け方とか……なんだこの、実質的な逆説的な自分語りは。まあ、好意的な対象について語ることは自分自身について語ることとほとんど同義だとか言う気がするしね! わーい! すごーい! たのしー! きみはしたたかに生きるのが得意なフレンズなんだね!*5

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さて、アニメは原作11巻までを扱っている。現在、原作小説は12巻まで刊行されていて、今年の10月に13巻が刊行される予定だ。2年、1年というスパンでの新作刊行は、ライトノベルのシリーズとしては顕著に遅い。そろそろ畳みたいのだろう、と思いつつも、このペースを見ていると畳めるのだろうか、と勘繰ってしまう。「涼宮ハルヒ」シリーズとかね!

アニメを見たのも実は2期からだったのだが、今回の再放送で1期を見て、これで全話を一通り1回は見たことになってしまった。12巻は刊行後即座に買い、読んだ。つまり、一応は追ってきたシリーズということになってしまったので、今後シリーズがどうなっていくのかは気になるところではある。

この記事を読んだ方の中には、同様に今後が気になる方も、べつに興味ないけどとりあえず読み進めてきたという奇特な方もいらっしゃるだろう。

どちらをも満足させられた自信はないし、片方だけでも十二分に怪しい気はしている。だからこんなことを言うのは少々憚られるのだが、しかしどちらの方にも、ひとまず今日、これだけは覚えていただきたい。

一色いろはは、最強あざとい、したたかな後輩である。

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*1:書いている途中で実は2本(『龍の歯医者』『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE 二人の英雄』)観た。

*2:「激レアさんを連れてきた」の弘中綾香アナウンサーを見て爆笑している時点で説得力はゼロ。

*3:はい、チュンチュン(・8・)

*4:人間関係という彼らにとっての大きく解決困難な問題を、それまでに培った観察眼で、大きな努力の描写もなく解決してしまうのだから、俺TUEE系だろう。

*5:彼女のそのスタンスも、物語が進むにつれて比企ヶ谷らとの交流を経て、スクラップアンドビルドされる方へと変化していくわけだが。