ヤンキーになりたかった

食う寝る遊ぶエビデイ

アンナチュラル最終話感想: いくつもの再利用と(職業)倫理

f:id:ifyankee:20180502215135j:plain

 

3月16日(金)に放映されたTBS系ドラマ『アンナチュラル』(22:00~)を見た。

このドラマはSNSでも大きな評判を呼んだ*1ようだが、実際、ものすごく面白い、素晴らしい作品だった。

 

『アンナチュラル』の魅力を一言で表すこと、どこかのセクションに集約して語ることは難しい。どこをとっても良かったからだ。

役者、主題歌、演出――しかしやはり、野木亜紀子の脚本に触れぬわけにはいくまい。

日本ドラマ界には幾人もの素晴らしい脚本家がいると聞く。「聞く」と書くのは、私が普段あまりドラマを見ず、その手腕を堪能する機会がないからだが、元々筆力があると思われていた彼女も間違いなくそのリストに名を連ねたことだろう。

いや、御託を並べるのはよそう。

そのような言葉は、並べるまでもない。

 

 

 コインは幾度も裏返される

『アンナチュラル』は各話、コインの落ちる音と共に「アンナチュラル」という字幕が「アンナチュラる」と置き換えられる短い映像からスタートする。この音は、1話に出て来る三澄ミコト(石原さとみ)の「コイントス」という言葉からの着想だという。

コイントスは、言うまでもなくコインの表裏を当てるゲームだ。だからここでコインには、通貨としての意味のほかに、表裏があるものという意味が与えられている。その音に合わせて、音節文字であるひらがなとカタカナのる/ルがひっくり返される。

これは、これから裏と表が引っくり返りますよという作り手からの宣言として機能する。

実際、『アンナチュラル』では幾度もどんでん返しが起こったし、シナリオとしてその部分を評価する声も多い。

 

もちろん、どんでん返しのためには伏線をあらかじめ張っておき、それを適切に回収することが必要だ。そうでなくては、ひとりよがりの「超展開」になってしまう。

 伏線回収とは、前に出てきたガジェットやセリフを再利用することに他ならない。何気ないものとして登場していた事柄が、後々になって、物語を推進させるための糸口としての意味を帯びるのだ。

そして『アンナチュラル』は、使えるものは何でも貪欲に(再)利用していた。

 

例えば1話だ。詳しく見ていこう。虚血性心疾患で亡くなったと思われていた男性・高野島渡(野村修一)が、実はMERSに感染し死亡したことが判明する回だ。

当初、高野島は腎不全の症状から毒殺されたと見られていた。彼の恋人である馬場路子(山口紗弥加)は、高野島と同じ会社のR&D部門に所属していたが、高野島が外部デザイン会社の敷島由果(田中こなつ)と「いい雰囲気」であるという噂が立っていたこともあり、作中では一度毒殺犯であるという疑惑がかけられる。しかし彼女が扱っていたエチレングリコールは高野島の遺体からは検出されず、彼女が犯人であるという線は潰される。つまり、痴情のもつれによる殺害という分かりやすいストーリーはミスリードであり、恋人の存在はミスリードのためのガジェットであったと明かされるのだ。

だが野木は、ミスリードであると判明した時点で捨て置かれそうな恋人を幾度も物語に登場させ、最後には、その話の最後のどんでん返しに必要なピースとして再利用してみせた。高野島との濃密な粘膜接触の有無という恋人関係でないと疑いえない事柄から、感染経路を暴き、それにより犯人候補扱いされた彼女自身、そして全国民から非難の目で見られることになってしまっていた高野島の名誉回復を行った。これはなんとも見事な手腕であった。

 

私たちが無意識のうちに考慮の外に置いてしまうものを(再)利用して物語を思わぬところにまで進めるその手法は、ミステリの常套手段と言えばそこまでだが、しかし私たちが普段見ないものらによる復讐劇であると考えればなんとも痛快である。

この捉え方は、何も突飛なものではないだろう。

野木は『逃げるは恥だが役に立つ』において、幾度も〈呪い〉を解こうとしたし、今回も同様にそれを行おうとした。ミコトが法廷に証人として立った3話を思い出そう。

3話ラストにおいて神倉保夫(松重豊)は「I have a dream. いつかあらゆる差別のない世界を」と宣言する。差別・偏見とは、往々にして、差別対象をそのように「見る」ことではなく、そのようにしか「見ない」ことによって生じている。*2

またこのドラマが法医学にモチーフを採っていることを思い出せば、このようなことも言える。そもそも私たちの社会においては、遺体や死は穢れとして巧妙に隠蔽されているのだ、と。

 

 異なる性格を見せ始めた「再利用」

だが、物語を畳み始めた9話の廃ビルに捨て置かれたトランクケースに詰められた遺体の話以降、その再利用は異なる新たな性格を見せ始めた。過去のエピソードのセリフやモチーフの再利用だ。それは、物語を進めるために使われるだけでなく、メッセージとして明確に反復された。

大切なことは何度でも語られなくてはならないのだ。

 

9話がこれまでと異なるのは、解剖される橘芹那(葉月みかん)の遺体が8話時点で登場していることだ。これにより、以前の話と明確なつながりのある話であることが暗示される。そしてその暗示のとおり、9話では、以前のエピソードに登場したものが幾つか登場する。

まず何より、「赤い人魚」と呼ばれる口腔内に魚の形をした痕が見られる遺体。そして、糀谷夕希子(橋本真実)の2冊の絵本と中堂による彼女の解剖シーン。また凶器は、医療ドラマ故にこれまで何度も登場していたホルマリンだった。何より衝撃的だったのは、8話の火災の生存者で、火事の様子を証言した高瀬文人(尾上寛之)が一連の「赤い金魚」事件の真犯人として再登場することだ。

だが、再利用はこれだけに止まらない。A,B,C...Zと頭文字のアルファベットが26文字並ぶように殺人を犯していくのは、死因とイニシャルという違いこそあれど、アガサ・クリスティABC殺人事件』のパロディであることは明白である。さて、ここで7話を思い出そう。同級生Y(横山伸也(神尾楓珠))を殺したと生動画配信で話す男子生徒S(白井一馬(望月歩))がミコトと死因当てゲームをする回だ。7話でも、とある小説のパロディが行われていた。同じくイギリスの小説家アーサー・コナン・ドイル『ソア橋』である。

Yの死因は刺傷による、他殺に見せかけられた自殺であった。動画配信は、イジメの加害者という「法で裁けない殺人犯」を糾弾するために仕組まれた芝居だった。この「法で裁けない殺人犯」というモチーフは、9話ラストに出頭した死体損壊罪でしか罪に問えない殺人犯高瀬として最終回である10話に登場するのだから、まったく憎い作劇である。

 

1話からの再利用が目立った10話

このようにして以前の話との結びつきを強くした『アンナチュラル』は、10話において更にその結びつきを強くし、物語を畳みにかかる。

詳しく見て行こう。

 

10話で焦点となるのは、殺人犯であることは明白なのに、殺人罪で罪に問えない高瀬が最終的にはどう裁かれるのか、ということだ。そのため裁判の話は必須であり、3話に登場した烏田検事が登場するのは必然であった。そして烏田からミコトは鑑定書をねじ曲げろ、と言われる。この構図も3話で見られたものだった。

違うことは、今回は背後に権力があることだ。26件もの殺人を犯した高瀬を、死体損壊罪だけで、2~3年で外に出すわけにはいかないし、これを裁けないことは大失態であるからして、何としても彼の殺人罪としての有罪を勝ち取りたい。しかし高瀬は、橘芹那は食中毒で死んだ。ボツリヌス菌が検出されたことがその証拠だ。ホルマリンは死後に投与したと主張している。だから、ミコトには、ボツリヌス菌が出たという高瀬に有利になりうる鑑定書を改ざんしてもらわないといけないわけだ。

なぜ高瀬が、ボツリヌス菌が検出されたことを知っているのか。ミコトがその疑問を口にしたとき、神倉は内通者の存在とそれが九部六郎(窪田正孝)であると言う。東海林夕子(市川実日子)は怒り、六郎は俯き謝ることしかできない。宍戸理一(北村有起哉)が犯人だと思い問い詰めたときに口にした、と。それが善意からの行動であることは皆が分かっているが、それは悪手だった。1話でも指摘されていた彼の「危うさ」が出たシーンだ。

中堂は鑑定書を偽装する。これは1話で公文書偽装を行ったことの反復である。そして「いつか言ってたな。敵は不条理な死。殺人者を裁けない。これ以上の不条理があるか」と言う。この「不条理な死」は1話におけるミコトの台詞の反復である。

ミコト: 私たちが組めば無敵ですよ。

中堂: 無敵――敵とはなんだ?

ミコト: 不条理な死

アンナチュラル第1話「名前のない毒」より

 家に帰ったミコトは悩んでいる様子で、すき焼きを前にしてもあまり食が進まない。

「私、悲しむ代わりに怒ってた気がする。負けたくなかった。不条理な死に負けるってことは、母に負けることだから」

 

ミコトが敵と名指す不条理な死とは、ミコトの母が試みミコトだけが助かった一家心中の「被害者」でありサバイバーであることから始まっている。彼女の生い立ちは、母(薬師丸ひろ子)や弟(小笠原海)との会話に、明確な言葉にされず顔をのぞかせる程度で、物語の表面には出てこなかった。1話のラストで、六郎が末次(池田鉄平)からそのことを知らされるシーン、そして練炭自殺を扱った2話を除いては。しかしここで野木は、それを重要なピースとして再利用すると宣言したことになる。

翌日、神倉は烏田のもとに鑑定書を持っていく。しかしそれは、改ざんされた中堂鑑定書ではなく、ボツリヌス菌の記述がされたミコトの鑑定書だった。そして神倉は啖呵を切る。

神倉: UDIラボは中立公正な機関です。お上におもねり、解剖結果を捻じ曲げるようなことは致しません

烏田: 高瀬を有罪にできなくてもいいのか

神倉: それはそっちの仕事でしょう! うちはうちの仕事をきっりとやってる!責任転嫁しないでいただきたい!

この啖呵は、森友学園をめぐりニュースが飛び交うここ最近に対し非常にタイムリーだったと賞賛されているが、この台詞も実は1話の反復になっている。高野島と敷島、路子の関係を洗おうと聞き込み調査を始めかねない様子の六郎にミコトが「そういうのは警察の仕事」と釘を刺すのだ。これは、ともすればセクショナリズムと揶揄されてしまうのかもしれない。しかし、プロフェッショナルとしての仕事をするためには、自分がプロとして責任を持てる範囲を明確にしなければならないという強い倫理観が顕れた台詞であるように感じられて、非常に心地が良かった。

偶然出会った六郎に連れられ、夕希子の父親の和有(国広富之)がUDIを訪ねて来る。ずっと犯人だと誤解し続け、毎年「罪を償え」とファックスを送っていたことを中堂に謝罪したいという。しかし中堂はいない。中堂は、宍戸を脅迫して高瀬を裁くための証拠を手に入れようとしていたのだ。

木林(竜星涼)から中堂の居場所を聞いたミコトと六郎は宍戸の家に急ぐ。二人が到着すると宍戸は倒れ、呻いていた。テトロドトキシンの解毒剤だと偽り、毒を飲ませたと中堂は言う。

ミコト: 何を飲ませたのか教えてください。法医学者として戦ってください。私が嫌なんです。見たくないんです。同じように不条理なことをしてしまったら、負けじゃないんですか。中堂さんが負けるところなんか見たくないんです。私を絶望させないでください。

 六郎は毒を舐め、それがエチレングリコール*3であることを突き止める。中堂は解毒剤を渡す。

 

 絶望という言葉が出てきた。これは2話において、六郎が東海林に「三澄さんは、絶望ってしないんですか?」と訊いたときにも登場したワードである。これを訊いたミコトは、「絶望しているなら、美味しいご飯食べるかな」と答える。*4

ミコトにとって、絶望することは負けることだ。そして、負けそうになっているから、美味しいものであるはずのすき焼きを前にしても食が進まなかったのだ。しかしそれでも、中堂に「法医学者として戦ってください」と、神倉の「うちはうちの仕事」という言葉を反復するかのようにして訴える。ミコトの信念やバックボーンが、これでもかと露出する名セリフだ。

 

一方、和有はアメリカのテネシー州に戻るという。夕希子も高校生まではそちらに住んでいたことが初めて明かされる。アメリカと聞き、東海林は「ウォーキングできないデッドの国かー」とつぶやく。これは、日本は火葬してしまうが、アメリカは土葬文化だから掘り起こして解剖できるという旨で1話において発された「ウォーキングできないデッド!」というブラックなジョークの反復であり、これが夕希子の再解剖および追起訴という展開を生む。

糀谷夕希子殺害にかんする裁判で、ミコトは証言台に立つ。8年前になかった技術により、微細な細胞からもDNAが採取できるようになった。夕希子の歯の裏から高瀬のDNAが検出された、と。それでも高瀬は犯行を認めようとしない。一転、ミコトはこう話す。

ミコト: 私たちの仕事は事実を鑑定書に書くことです。犯人の気持ちなんてわからないし、動機だってどうだっていい。でも、かわいそうだと同情してしまいます。誰も彼を救えなかった。あなたの孤独に心から同情します。

高瀬: やりたくてやった。殺したくて殺した。母親は関係ない。26人。俺はやり遂げた。俺は、かわいそうじゃない!

ミコトは、感情的にさせることで、あえて同情という感情論のフレーズを持ち出すことで高瀬の自白を引き出した。*5これは「女は感情的」などと法廷で言われた3話の意匠返しになるだろう。また、「私たちの仕事は」と続く言葉は、またもや『アンナチュラル』全体を覆う職業倫理観に通じる。

 

こうして「赤い金魚」事件は幕を閉じた。中堂は和有に、夕希子の描いた「ピンクのかば」の絵を渡そうとするが、それはあなたが持っていてください、と言われる。そして、夕希子は、二匹のカバが一緒に旅を続けていく話にするのだと語っていたと告げる。それは、宍戸から「夕希子を殺したのはお前だ」と言われた言葉からの救済である。

「あなたは、生きてください」。これは7話で、Yの後を追い自殺しようとしたSを止めようとしたシーンと通じる。ミステリのパロディを行った2つの事件がこうも通じ合うとは、まったく驚嘆せざるを得ない。

エピローグ。1話冒頭のようにミコトは更衣室で天丼を食べている。UDIには坂本(飯尾和樹)が復帰した。中堂のことは「スナフキンだと思えば愛せる気がする」と語り、分かるという東海林と、首をかしげるミコト。UDIには六郎も再度バイトとしてやってくる。「法医学は未来のためにある」。これは1話でミコトが口にした言葉である。そして視聴者がこの10話で実感させられた言葉でもある。1話で見事だった、ネームプレートをホワイトボードに貼っていくことでキャラクター名を視聴者に知らせる演出を踏襲し、新たな不自然な遺体が現れたことを示し、物語は幕を閉じる。

 

大切なことは冒頭ですでに語られていた

長々と10話のあらすじを追ってしまった。ここから分かるように、実は10話で登場した数々は、すでに序盤の話数で登場していたのだ。大切なことは冒頭・序盤で語られていた。そしてそれは、明確な形でないにせよ物語内できっと反復されていた。だからこそ最後、私たちは違和感なく受け入れることができた。

大切なことは何度語られてもよいし、何度も語られなくてはならないのだ。

 

生きている限り、負けないことができる

10話において、宍戸を襲った中堂の行為は、不条理に対する「負け」として名指された。

「負け」とは何だろう? 不条理な死と名指されるのは、誰かの手にかけられた死のことであり、またどうしてそうなったのか分からない死でもある。中堂は、溺死した婚約者を解剖してほしいと依頼を受ける5話において、「永遠の問い」というフレーズを持ち出す。遺された者は、その「永遠の問い」に悩まされ続ける、と。

5話において、依頼者である鈴木巧(泉澤祐希)は、真相を知り、恋人の鈴木果歩(青木美香)を突き落としたまゆ(城戸愛莉)を刺傷した。これが「不条理な死」を前にして、自らもまた「不条理な死」をもたらす側に回る――不条理に負けることのひとつだ。

先ほど、ミコトにとって負け=絶望である、と述べた。ミコトは悩みながら、法医学にできることはとても少ない、と述べる。ここにあるのは無力感である。そして、「永遠の問い」を前にして堂々巡りを繰り返すしかない当事者たちが抱えるのも、その問いをどうにもできないという無力感ではないだろうか。

ミコトが中堂に「法医学者として戦ってください」とまず言っていたことを思い出そう。そして、巧が明確な殺意を持ってまゆに刃物を突き立てたことも。ここで言う負けとは、自分の(職業)倫理や信念といったものを投げ捨て、自分の人生すら投げ捨ててしまうことではないか。そして絶望とは、そういったものを投げ捨てたくなる敗北感や無力感ではないか。

そう考えたときに、7話においてミコトがSに語り掛けた台詞が思い出される。

「あなたの人生は、あなたのものだよ」

 

法医学は未来につながる医学である。

彼らは死の際に何があったのかを明らかにし、時に彼らの生に意味を再度与える。そうして遺された者たちを「永遠の問い」から救い出す。

救い出された者たちは、また新しい道を歩むことができるだろう。時に仲間と語らいながら、時に美味しいご飯を食べながら。

人生が旅に喩えられるならば、その旅路を自らの足で踏みしながら歩いているとき、それは人生を手放していないという意味において負けではない。人生を歩んでいるとき負けていないならば、生きている限り、負けないでいることができるのだ。*6

 

 ネタバレに対する注意書きをすることなく、ネタバレ全開でここまで書いてきてしまった。ネタバレ嫌いの方がいらっしゃったなら申し訳なく思う。しかし、あえて開き直らせてもらえるならば、大切なことは何度も語られるべきであるのだから、ここでセリフや展開を見たとしても、それでも本編を視聴するということは、何も間違ったことじゃない。

それに、良い本は何度読んでもいいのだ。*7良いドラマは何度観ても良いに決まっている。

 

 このような素晴らしい作品が観られるなら、ドラマを観るのも悪くない。

 

*1:こちらの記事に詳しい

*2:3話における「男vs女」という構図は「偏見vs事実」という二項対立へと見事に変換される。「人なんてどいつもこいつも切り開いて皮を剥がせばただの肉の塊だ。死ねば分かる」という中堂系のセリフは象徴的だし、今にして思えばこれが後に明かされる彼の過去を想起させるのもまた憎い。

*3:1話で路子が毒殺犯として疑われた際に使用したと考えられていた薬物である。

*4:この台詞は、個人的には『STAR DRIVER 輝きのタクト』第4話「ワコの歌声」におけるアゲマキ・ワコの台詞「泣くだけ泣いて、夜中に食べたご飯が美味しかったときに思ったの。世界は私を苦しめるためだけにあるんじゃないって」を思い出す。「Their journey will continue.」はニアイコール「人生という冒険は続く」だし、『アンナチュラル』は実質スタドラ。

*5:余談だが、『ABC殺人事件』において、連続殺人は主目的のとある犯罪を忍び込ませるために行われた。高瀬にとっては、それが母親の殺害だったのかもしれない。

*6:最後に中堂系は、坂本からスナフキンに喩えられる。スナフキンは、旅人である。彼もまた、ようやく「永遠の問い」から解放され、歩きはじめることができた。なんとも美しい救済の話だ。

*7:TVアニメ『文豪ストレイドッグス』第1話「人生万事塞翁が虎」における太宰治のセリフより。